58.兌為澤(だいたく)【易経六十四卦】

易経
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兌為澤(悦ぶ・悦ばす/麗沢・講習)

persuasion:説得/joy:歓喜
色欲、論争は慎むべし。
まず家を済えるべし。

入而後説之。故受之以兌。兌者説也。
入りて後これを説ぶ。故にこれを受くるに兌を以てす。兌とは説なり。

兌とは悦ぶこと。兌()は沼沢、少女、口を表わし、この卦はそれがふたつ並んでいて、乙女がふたり、楽しげに語らい笑う姿を示している。そこには見る者を思わず微笑ませる和やかな雰囲気がある。心楽しく和やかに暮らすことの重要さを説くのがこの卦である。
口は笑ったり語りあったりして心を通わせるものでもあるが、ひとつ間違えば、口汚なく罵りあって不和を招くものでもある。
人間関係の潤滑油としての口は、なによりも誠実な心に支えられていなければならない。巧言令色は真の人間関係をつくるものではない。
麗沢は、二つの沢が、相接して、並んで存在している地形である。二つの沢の地下水は、お互いに相通じており、最早、湖面は同じ高さの水準を示しているのである。教養ある人は、この象を観て、兌んで朋友おたがいに相交わり、学問の講説、研究に努力するのである。


この卦の時は、何か自分の考えや思いを相手に伝達したくなるときで、じっと胸に秘めていたり、辛抱したり我慢しては居れないとき。
運勢はさほど悪くないが、そうかと云ってぐんぐんとすべてに攻勢に出る時でもない。
あまり調子に乗ると途中で失敗を見ることが多いから注意も必要である。
人間同士心と心で何でも分かり合えばこれに越したことはないが、そうはうまくいかない。
発言し自分の意志を的確に相手に語り、納得してもらってこそ、人間関係がスムーズに行くのだから、この際は躊躇せず堂々としゃべって自分の気持ちを相手に伝えよう。
しかし、只一方的に説得するのではなく、相手の立場も考え、相手の喜びは自分の喜びとする。常に相手を立てる考え方で進むことを忘れないように。
[嶋謙州]

兌は、悦、悦び楽しむ意であります。皆が気持ちよく助け合う、仲の良い友達、あるいは職場の友人が相寄って、おたがいに磨き合い、励まし合うという卦であります。
大象をみると、君子以朋友講習~君子は朋友とともに講習す、とあります。
これは、一人が和の心を持てば、相手もまた和の心をもって接する。
君子は、このようにして朋友たがいに勉強に勤しみ、益し合うようにしなければならないということでありまして、よい卦であります。
[安岡正篤]

兌。亨。利貞。

兌は、亨る。貞しきに利あり。

兌は説の本字。清の朱駿声によれば、兌は八と口と人とから成る。八は末広がりの形で、人の口から息が拡散するさまを示す。すなわち言説するさま、あるいは悦び笑うさまである。兌の卦にも言説と喜悦と両義がある。
人体では、巽䷸は下体の欠所だから陰門とし、兌䷹は上部の欠所なので口とした。兌という文字そのものも、口頬の象形だと説かれている。口をもって悦ばせることは、ともすると巧言令色に陥りやすいので、兌においては特にまことを求めるし、また、悦びというのは人を耽溺させるものなので、慎ましくあるべきことが、この卦には要求されている。
の形は一陰が二陽の上に進み出ている。喜びの情が外に現われた形である。この卦の象を沢とするのは水の下流(下の一画)を塞いだら、水が溜まって沢になるからであり、またその貯えた水が万物を潤おし悦ばせるからである。
兌䷹の形を見ると、上下卦とも剛が「中」を得て、その外に柔がある。外が柔ということは、外面が柔和なことで、当然人に悦ばれ、従って願いが亨る徳がある。ただし、如何なることをしても人に悦ばれればよいというものではない。
『貞しきに利あり』正しい道を守る場合にのみ利益がある。兌卦が「剛中」であることは、まさに正しい道を守る能力のあることを示している。外面が柔いだけに、徒らに媚びる態度に陥り易い。それを、剛毅と中庸で防ぐ必要がある。占ってこの卦を得れば、願いごと通る。ただ正しい道を守ることが条件である。

彖曰。兌。説也。剛中而柔外。説以利貞。是以順乎天而應乎人。説以先民。民忘其勞。説以犯難。民忘其死。説之大。民勸矣哉。

彖に曰く、兌は、えつなり。剛中にして柔外なり。説んで以て貞しきに利あり。ここを以て天に順って人に応ず。説んで以て民に先立つときは、民その労を忘る。説んで以て難を犯すときは、民その死を忘る。説の大いなる、民勧むかな。

『説』は悦と同じ。兌は説なりとは、卦名の意味を解釈した句、説は兌と同じ発音だった筈である。兌☱は剛爻が「中」を得て、柔爻が外にある。外に柔らかだから人は説ぶ。説ばすには貞しくなければならぬが、「剛中」だから正を守り得る。説ばれしかも貞しいから、天の理法に叶い、民心に合致する。
不正な手段で民に悦ばれる者は、天理に背き、やがては民心も離れる。真に民心を悦服せしめるような仕方で、民の先頭に立って事を行なえば、民は労苦を忘れて従って来る。民を悦服させて、危険な戦場に赴かせるならば、民は死ぬことを物ともせず踊躍して進むであろう。説ばすということの偉大さによって、民はいかに勉め励むことか。
悦んで進む時、志は通る。ただし、悦びにも正と不正がある。賄賂で喜ばせて物事を通すのは、道に反する。事を行うには、天の道に順い、人の誠心に一致していなくてはいけないのである。
上に立つ者が自ら悦んで骨折り仕事をして民を率いれば、民は労苦を忘れる。同様にして艱難にあたれば、民は困難のために命を投げ出すことも顧みない。
甲斐のある労苦や死は、雄々しく臨むという悦びに転化するものである。

象曰。麗澤兌。君子以朋友講習。

象に曰く、つらなる沢あるは兌なり。君子以て朋友講習す。

『麗』並ぶ、連なる意味。この卦は沢☱が二つ連なっている。二つの沢が水脈を通じて、相互に潤し合っている。君子はこの卦に象どり、朋友と互いに議論を交わし学習することによって、相互に神益し合う。兌に口舌の象がある。二つの口舌が向かい合っているから講習という。
『麗』は付く、並ぶ。二つの沢が地下水脈で通じて互いの沢を潤し、枯れることがない。同じように、君子は心の通じる友である『朋友』とともに切磋琢磨して、『講』知らなかったことを学んで知り、『習』すでに知っていることを繰り返して、身に付けていく。
学校関係の団体や寮に『麗澤』という名が多いのはこの言葉に由来している。

初九。和兌。吉。 象曰。和兌之吉。行未疑也。

初九は、和して兌ぶ。吉なり。
象に曰く、和して兌ぶの吉なるは、行いていまだ疑われざればなり。

初九は陽剛、剛毅であるから、媚び詔らいに堕ちることはない。卦の最下位に甘んじて、みだりに出世を求める欲がない。上に「応」がない(四も剛)ことは、私的な親分子分の関係をもたないことである。人を悦ばすのに公明正大な態度を以てする者。故に和して兌ぶという。和というのは、味が口に合うことで、甘からずからからぬ事を指する。
「君子は和して同ぜず」という(『論語』子路第十三)。初九がそれである。

占ってこの爻を得れば、吉。象伝はさらに布衍していう、最下位に甘んじ、人を悦ばせるのに正しい道を以てする故に、進んでも疑われることはない。

 

子曰、君子和而不同、小人同而不和。

いわく、くんしてどうぜず、しょうじんどうじてせず。

・人物はなじんでも一味にならず、俗物は一味になってもなじまない。(がえり善雄『論語新訳』)

・君子は人と仲よく交わるが、ぐるにはならない。小人はぐるにはなるが、ほんとうに仲よくはならない(下村湖人『現代訳論語』)

九二。孚兌。吉。悔亡。 象曰。孚兌之吉。信志也。

九二は、孚もて兌ぶ。吉にして、悔亡ぶ。
象に曰く、孚もて兌ぶの吉なるは、志しを信にすればなり。

『孚』は信。九二は「中」で剛である。心の中にある剛い物は孚である。兌ぶの卦に於てある者。故に孚もて兌ぶという。初九は位が当たっていることに、兌びにおける調和をみた。同じ見方からすると、九二は位が不正であるばかりでなく、媚悦の主である六三と比しているので、悔いを生ずべきところがある。しかし剛中であるのは、中心に誠孚を持っているようなもので、悦びの中にその孚を失わないことによって悔いを除き、吉を得ることができるというのである。
占う人、誠心誠意をもって人を悦ばせるならば、吉であり、悔いはなくなる。陽爻が陰位にあるので、本来なら悔いがあるが、誠意によってその惧れも消滅する。
象伝、志しを信にすは、心中に誠がある意味。

六三。來兌。凶。 象曰。來兌之凶。位不當也。

六三は、来たりて兌ぶ。凶なり。
象に曰く、来たりて兌ぶの凶なるは、位当たらざればなり。

六三は内卦兌☱の主たる爻であるが、陰柔で、「不中」、「不正」(陰爻陽位)。上に「応」がないので(上も陰)、下へ降りて来て、初九、九二の陽の機嫌をとる。不正を以て人を悦ばす者。
重卦における兌の主爻は上六であって、この六三はいわば偽主とも言うべきものである。その位が当たらないように、悦びの道に当たることができず凶を招くものである。すなわち、悦びは順ましやかなのをもって宜しいとするが、これは陽位にいて軽騒なため、自ら進んで愉悦を求め来たらそうとする。それが『来たりて兌ぶ』である。兌の巧言とか、へつらいなどをこの六三に見たと言えるだろう。

九四。商兌。未寧。介疾有喜。 象曰。九四之喜。有慶也。

九四は、はかって兌ぶ。いまだやすからず。介疾かいしつあれども喜びあり。
象に曰く、九四の喜びは、けいあるなり。

『商』は商量、比べ量ること。『寧』は安定。『慶』は、大いなる幸い。『介』は境を設けて固く自らを守ること。『介疾』繊介(いささか)の病い。

九四は下に六三の「不正」の陰と接している。情において惹かれやす陽は陰を悦ぶものだが、この場合、相手が不正なだけに、これを悦んでよいものかどうかと、心の中で秤にかけて(=商兌)、気持ちが定まらない(=未寧)。しかし四はもともと剛毅であり(陽爻)、遂にこの不正な陰の誘惑を断ち切る。
あたかも病であるように自分にまつわって行いを妨げる六三との間に境界を作ってそれを退けるという消極的な対策を施すのである。
六三に暫らく心迷ったのは、小さな病気にかかったようなもの。これと断ったのは治癒したことである。そこで介疾あれど喜びありという。治療の喜びということは、慶福を象徴する。占ってこの爻を得れば、悪に惹かれて心迷うことがあるが、毅然としていれば、最後に福があろう。

九五。孚于剥。有厲。 象曰。孚于剥。位正當也。

九五は、剥に孚あれば、あやうきことあり。
象に曰く、剥に孚あるは、位正くらいまさに当ればなり。

『剝』䷖は陰が陽を剝落させること、ここではその陰、上六を指す。孚は信ずる。
九五は陽剛で「中正」であるが、兌ぶという時に於て、五の君位にある。つまり自分を悦ばせようという人々に取り巻かれる立場にある。しかも上六と最も親しんでいる。上六は陰柔の小人、上卦兌の主たる爻で、兌卦の極点。
あらゆる邪悪な柔媚を以てこの君を悦ばせ、その陽剛の気を剥落させようとする。故に作者は占者を戒めていう、『剝にあれば厲きことあり』自分の剛毅さを剥ぎとる小人(上六)を信ずれば、危ういことがあろう。象伝、位正当也は良い意味ではない。
履䷉九五の象伝が全く同じ構文で同じ意味だった。つまりこの九五が剛中正の徳を具え、その地位もまさに尊位に当たる。自信あって、平然と小人を近づけるのであるが、その自信が却って危険だということ。
情が深く度量のある人は、舌先三寸小人とも、そうと知って接することができる。しかし、誠実な人々とのつきあいと同等にせず、はっきり区切るべきである。
『剥に孚あり』とは、小人を恐れなければ、いずれ自らの誠心が剥奪されるということ。どんな聖人も、言葉巧みに近づいてくる小人には警戒心を持った。小人は人を悦ばせる術に長け、いつしか懐に忍び込み、相手を取り込んでしまうからである。注意しなくてはならない。

上六。引兌。 象曰。上六引兌。未光也。

上六は、引いて兌ぶ。
象に曰く、上六引いて兌ぶは、いまだおおいならざるなり。

この上六が成卦主爻である。艮為山䷳の主爻である上六に『艮まるに敦し』とあったように、兌の貞にして吉なる道を示したもの。

上六は上卦兌の主たる爻で、陰柔でもって見卦の極点におる。人を悦ばすことに、邪正の分別はつかない。下の二陽を誘引して、その機嫌を取り結ぼうとする。けれどもその徳がまだ広大でないだけに、相手が従ってくれるかどうかは判らない。相手の出方が判らないから、この爻については吉とも凶とも言わないのである。
悦ばせることにも、正と不正がある。『引いて兌ぶ』とは、小人の不正なる悦ばせ方である。
沼沢の水が引き用いられて効を致すように、悦びもまた、先んじて悦びのみを来たそうとする甘言やへつらいでなく、引かれて兌ぶ順ましやかさを尊ぶのである。
そのように兌びが露わに大げさでないことを宜しいとする。
高い地位にある者が、取り巻きを作ろうと、言葉巧みに悦ばせようとする。
若い社員を集めて、自らの昔の成功談を語り、自慢することもその一例である。その姿は志の低さそのものである。自戒して、慎むべきである。

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