52.艮為山(ごんいさん)【易経六十四卦】

易経
Sponsored Links
Sponsored Links

艮為山(止まる/泰然)

stop:停止/stillness:静止
他に心を移すべからず。
一意専心、内を守るべし。

物不可以終動。止之。故受之以艮。艮者止也。
物は以て終に動くべからず、これに止まる。故にこれを受くるに艮を以てす。艮とは止まるなり。
物事は、いつまでも動いて活動するだけで、終わってしまうことはできない。必ずどこかに止まるものである。

艮は、止まるという意である。艮は、山を象っている。山はどっしりしていて動かない。不動なものの象徴である。そこから、止まるという意が出てくる。
この卦は、止まるということについての道を説いている。
51震為雷を逆にした卦であり、卦の持つ意味もまったく逆である。
震は動いてやまぬ雷であったが、艮は泰然として動かぬ山である。沈思黙考して、軽挙妄動を慎むべきときである。軽率に進めば、山また山の難儀がひかえている。
卦の形は、各交とも正応するものがない。協力者は期待できず、ひとりわが道をゆく覚悟が必要である。依頼心は禁物。地道な努力で、現在の地位、境遇を守ってゆくことが大切である。

すべてに物事の動きが止まっている状態で、てこでも動かない山のような不動と、静寂を内に秘めているようなとき。
運勢は極衰までとはいかなくても現在は衰運の時で、なにをやってもはかばかしくない。
やることなすことがブレーキをかけられ、途中で中止せざるを得ないことにもなる。
こんな時は焦っても仕方ないから、時機が来るまで現状を守りつつ、ゆっくり休息しながら鋭気を養っておくことも永い人生を渡る上においての一方策といえよう。
逸る気持ちを抑えることも辛いが、我慢することも時によっては大切なこと。
苦しいときにはあの静かに厳然と佇む山の姿を見たらよい。
無欲でしかも孤独、その中に秘めた沈着と寛容は、我々に安堵と信頼感を与えてくれるだろう。
[嶋謙州]

この卦も山がふたつ重なった卦であります。そこで地震、騒動、あるいはいろいろの悩みがおきたとき、うろたえては駄目で、泰山のようにどっしりとしておらなければならない、というのが艮の卦であります。
上卦、下卦ともに山でありますから、兼山、艮為山、兼山艮などといいまして、昔から、学者や、政治家に兼山という名の立派な人物、改革家があります。
たとえば、野中兼山、片山兼山の名は艮の卦からとったものであります。
[安岡正篤]

艮其背。不獲其身。行其庭。不見其人。无咎。

其のとどまりて、其の身をず。其の庭に行きて、其の人を見ず。咎なし。

震䷲を上下反対にすると艮䷳になる。艮は山を卦象とし、止まるという意味を持っている。この卦の形から山というものを結び付け、その山は『動かないもの』で『止まって』おり『高い』のである。

艮の字、もと目と匕とから成る。目がならんでにらみあう、そむく意味である。(『説文』)。そむくの意から、とまる、なやむ、かたいの意義にもなる。心そむくのが恨、人を行かせぬ阜が限、艱はなやみ、銀はかたい金。ここでの艮は止まる。また、匕は、人を反対に向けた字で、そこから、目をそむける、目をひからすとなり、転じて止まるそむく、などに用いられる。要するにこの卦は欲をとどめることの大切さを教えるものである。
艮は、家族構成に例えるなら三男である。よってこの卦は、山と山が重畳と重なりあい、見るからに伸びやかな感じを与える。それに少年らしからぬ落ち着きと堂々たる貫禄が備わり、周りには静寂が漂っている。
八卦の艮☶は、一陽爻が二陰爻の上にある。陽が下から昇って極点に止まる形だから止。物象でいえば山。地☷の最も高い個所☶を示す。また地の盛り上って極点に止まる個所でもある。

『其の背に艮まりて、其の身を獲ず』~一陽が二陰の上に乗っているのは、背の象や頭の象にとることができる。しかしここで『背』としているのは、人間の体の部位で、一番動かない場所が背中であるからである。
人間の手や足・眼や口などは人間の欲望を満たすため、こまめに動くものだが、背中はあまり動かない。背があまり動かないというのは欲がないからだと考え、淡白であることを文章化したのが、この艮為山の卦辞なのである。

要するに無私、虚心を説くもので、背に止まるとは心が背中に止まっている。身体がいくら動いても、目、耳、鼻、口などと違って、背中は何も感じない。だからその身を獲ず、つまり心が背中に止まっているので、身体はあっても無きがごとしとなる。ということは、何が起きても、外の世界に一々心を動かされたりすることはない。

『其の庭に行きて、其の人を見ず』~人の居る庭に行っても、そこにいる人が目に入らない。何しろ、自分を忘れるくらいだから、他人の存在などまったく気にならない。世の事象がいかに目まぐるしく動いても、心が艮まるべき処に止まっていたなら、そうした事象に一々心が動かされることもなく、また迷うこともない。何が起きようとも、それが一体何程のことがあろうかと説く。
物を求め人を追うのも、勝手に心が追い求めているのだから、その心が止まるべきところに止まっているなら、いくら身体が動いても心が散ることはない。
人の心は、気ままに解き放たれると、とかく欲の深いことを考えるものである。だが、人間のむしのいい期待など、たいてい当てにはできない。結局、すべては落ち着くところに落ち着く。
かくの如く、動静ともに、心が止まるべきところに止まり、静謐であるならば、咎はない。

 

『清の王夫之』はいう、他の純卦(上下同じ卦)『震・坎・巽・離・兌』は元亨利貞の四徳のいずれかを与えられているが、この艮だけは一つもない。僅かに咎なしというに止まる。それは我を忘れ人を忘れるという、この卦の心境が、ともすれば老荘のような逃避的退嬰的態度に陥る危険があるからだ、と。
しかし宋の儒者はみなこの卦を善しとする。
周敦頤(しゅうとんい)は「法華経全巻は艮の一卦で代用できる」(『二程語録』一六)といい、朱子も「最も好きな卦」という。宋学のストイックな倫理が、この卦の気分と合うからであろう。『程伝』は背に艮まるを、欲望を動かす物を見ない意味に解する。

彖曰。艮。止也。時止則止。時行則行。動靜不失其時。其道光明。艮其止。止其所也。上下敵應。不相與也。是以不獲其身。行其庭。不見其人。无咎也。

彖に曰く、ごんなり。時とどまれば止まり、時行けば行く。動静その時を失わざれば、その道光明こうみょうなり。その止にとどまるは、その所に止まるなり。上下敵応して、相いくみせざるなり。ここを以て其の身をず、其の庭に行きて其の人を見ず、咎なきなり。

 

『艮』とは止まる意味である。しかし止まるにも行くにもその時がある。止まるべき時には止まる。
卦辞の『其の背に艮まり其の身を獲ず』がそれである。行くべき時には行く。其の庭に行き其の人を見ずがそれに当たる。これも動中の止である。動くにつけ止まるにつけ、然るべき時を失わないならば、その道は光り輝く。
止まるべき時には止まる。行くべき時であれば、躊躇なく進む。

『動静その時を失わず』~動くにしても動かないにしても時を得ていれば、『その道光明なり』~道は明るい、と教えている。止まることは停滞ではない。「止まる」という行為・行動である。進むべき時に進むために、止まるべき時には止まる。その決断が大切である。

艮は止まるべき所に止まる篤実な徳があるから、光り輝く。大畜䷘の象伝に輝光日新とあるのも艮の徳による。艮其止は卦辞の良其背に当たり、背の意味が止であることを示す。其の背すなわち其の止に艮まるとは、其の所、つまり止まるべきところに止まることをいう。
孔子の後学の著『大学』に、大学の道は至善に止まるにあるといい、孔子の言葉として『止まるに於てその止まる所を知る』という。その内容は、君としては仁に止まり、臣としては敬に止まり、子としては孝に止まり、父としては慈に止まり、人と交わるには信に止まることだという。この伝の意図と照応するものである。
『上下敵応』とは、艮の卦の形䷳を見ると、上卦下卦全く同じで、陰爻と陰爻、陽爻と陽爻、匹敵する者が向かい合っている。陰と陰、陽と陽では組み合わせにならない。組み合わないから、内はわが身を忘れ、外は他人が目に入らない。そこ咎でなし。

 

象曰。兼山艮。君子以思不出其位。

象に曰く、ねたる山あるは艮なり。君子以て思うこと其の位をでず。

『兼』は重複の意。山が二つ重なったのが艮卦である。山と山と重畳してどっしりとその場所に止まっている。君子はこの卦に象どって、その止まるべきところに止まり、己れの分際を超えた欲を出さない。
君子は自分の思いが分限や器量(位)に止まり、力量以上のことをいたずらに欲しない。そういう姿勢に徹すれば、自然に「これは自分らしくない」と、本来の自分に相応しいところに思い止まることができる。

初六。艮其趾。无咎。利永貞。 象曰。艮其趾。未失正也。

初六は、其のあしとどまる。咎なし。永貞えいていに利あり。
象に曰く、其の趾に艮まるは、いまだ正を失せざるなり。

『趾』は足首より下。初六は一番下だから趾に相当する。剛爻なら動き得るが、力弱い陰であり、艮まる卦に在る。だから趾にまるという。動くとき趾は最初に動く。趾に艮まるとは、動きの始めに於て止まること。艮まるの時に於て、未然に止まること、正しさを失ってはいない。だから咎なし。けれど陰柔で心弱いから、永く正を守り得ないことを惧れる。故に、永貞に利ありという戒めが附せられる。
占ってこの爻を得れば、最下位に止まるけれど、咎はない。ただし永く正道を守るようにしなければいけない。

六二。艮其腓。不拯其隨。其心不快。 象曰。不拯其隨。未退聽也。

六二は、其のこむらに艮まる。すくわずしてそれ随う。其の心かいならず。
象に曰く、拯わずしてそれ随う、いまだ退きかざるなり。

『腓』はふくらはぎのこと。進むにせよ、止まるにせよ、自分で自主的に決めるのではなく、腰の動きに従うより仕方ない。『その隨う』は、比爻である九三(腰)に従うのである。
六二は下卦の「中」、腓は下体の中。また下卦の主体は九三であり、六二は九三に従う。動くときは限が主であって腓はそれに従う。故に六二を腓という。
六二は「中正」で、腓に艮まっている。九三は「不中」、剛爻剛位で剛に過ぎる。六二は自己の「中正」の徳で九三の「不中」を救ってやりたいのだが、何分陰で力足りない。やむを得ず九三に随っている。九三は、六二の艮まろうとする意思の通りにはいかない。九三の腰は自分の性向のままに動止して、六二の腓の言う事など聞かないので、六二にとっては快くないところがあるわけである。
言うこと聴かれず、わが道行なわれぬでは、その心不快なのは当然である。この六二と九三と、イメージがそのまま占断である。占ってこの爻を得れば、臣位に止まる。君主の悪を諫めても聴かれず、やむなく随わねばならぬ。不愉快である。象伝、『未退聴也』は、九三が、一歩いて六二のいうことを聴き入れようとしないこと。

九三。艮其限。列其夤。厲薫心。 象曰。艮其限。危薫心也。

九三は、其のこしとどまる。其のせじしく。あやうきこと心をふすぶ。
象に曰く、其の限に艮まる、危うきこと心を薫ぶるなり。

『限』は区切り、身体の上下の区切り、腰である。『夤』は背の肉。『列』は裂くの本字。
九三は上下卦の境いにあり、腰に相当する。剛爻剛位で剛に過ぎ、「中」を得ない。その乱暴な力で腰のところに止まれば、腰は屈伸できない。腰から上すぐ左右の背筋になるが、九三は左右の背筋の中間に横たわって引き裂かんばかり。背の肉もこれでは動きがならない。九三が四陰の真ん中に横にはだかっている形からそういう。つまり九三は上下の人、左右の友すべてとそむき逆らい、柔軟性を全く欠く。万人に憎まれて、その危ういこと、心臓を火で燻(くす)べられるように不安である。占ってこの爻を得れば、上下の人は離叛し、左右の者も決裂する。危うく不安である。

六四。艮其身。无咎。 象曰。艮其身。止諸躬也。

六四は、其の身に艮まる。咎なし。
象に曰く、其の身に艮まるは、このに止まるなり。

『諸』は之と同じ、爻辞の其をいいかえた。『躬』は身のいいかえ。
九三が腰に相当した。六四は腰の上だから身という。身は胴である。胴は心の宿るところ、趾や腓の騒がしく動くものとは違って、動きを自ら制御しうるものである。
六四は陰爻陰位で「正」、止まるべき時に止まり、自己を守って妄動せぬもの。故にその身にまるという。占ってこの爻を得た人、静かにしていれば咎はない。

六五。艮其輔。言有序。悔亡。 象曰。艮其輔。以中(正)也。

六五は、其のつらに艮まる。言序ことついであり。悔亡ぶ。
象に曰く、其の輔に艮まる、ちゅうを以てなり。

※朱子は象伝の正の字は衍文、これがあっては韻が合わないという。それに六五は「中」であるが、「正」ではない。

『輔』は顎の関節。口の周り。口を止める、すなわち言葉を慎む。
六五は卦の上の方にある。人体でいえば輔に相当する。故に輔に艮まるという。
六五は「不正」(陰爻陽位)で、悔いがあって当然である。しかし「中」を得ている。輔はものを言うための器官であるが、輔に艮まり、「中」を得ているのだから、妄言はしない。言うことに秩序がある。そこで懸念された悔いもなくなる。
意見がある時は順序正しく述べる。つまり言うことに筋が通っている。言うことが正しければ、信用が伴う。悔いは亡い。言葉を慎めば悔いはない。
象伝、中を以てなりは、悔亡ぶ。占ってこの爻を得た人、言語を慎めば、悔いはない。

上九。敦艮。吉。 象曰。敦艮之吉。以厚終也。

上九は、とどまるにあつし。吉なり。
象に曰く、艮まるに敦きの吉なるは、終わるに厚きを以てなり。

『敦』は、象伝の厚がその解釈である。『敦艮』は臨䷒上六『敦臨』と同じ語法、艮まることに於てきまじめで手厚い。
大体艮は一番上の陽が止まる意味を示す。上九は重なるの一番上、止まることの終極だから、艮まるに敦しという。すべての事は止まるところ、終りが大切である。
人の節操は晩年に堕落し易く、学業も長い時間の終りに荒廃し易い。上九は終りに手厚い点で、六爻のうち最もめでたい。『大学』のいわゆる『至善に止まる者』占ってこの爻を得れば、吉。
なお大畜小畜もとどめる意味であるが、それらは強制的に止めるのであり、艮は自発的に止まるのである。
自分の希望が叶わず、強制的に止まらなくてはならない、あるいは止められるというのは、焦燥感がある。しかし、自分の器量を知り、自ら止まるのであれば、何も制限を感じずにすむ。そういう姿勢でいれば、止まる時は自由に止まり、動くときであれば自由に動くことができるのである。
人の多くは、止まっても末を保つ辛抱ができない軽薄さがあるが、この爻のように重厚にして終わりを成すのは、すなわち止まって吉を得る者だと言うのである。

コメント

タイトルとURLをコピーしました