59.風水渙(ふうすいかん)【易経六十四卦】

易経
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風水渙(離散・離散を合わす/渙発)

service:奉仕/dispersion:分散
憂いは消散すべし。
我が力微小なり。逸れるなかれ。

説而後散之。故受之以渙。渙者離也。
説びて後これを散ず。故にこれを受くるに渙を以てす。渙とは離るるなり。
大いに悦べば、気持も緩むようになり、物事は散乱するようになる。

『渙』は散る、散らすという意味である。帆を張って舟が水上を行く象といわれ、外に向かって大いにエネルギーを発散させ、大事業をなしとげてゆくときである。
水面(坎)を吹く風(巽)がただよう木の葉や屑を吹き散らすさまを表わす。停滞を吹き飛ばして新しい出発をはかるによい卦である。しかし『散る』ということは、民心離反、国内分裂、一家離散の暗い前途をも暗示している。出発にさいしては、まずそのことを考慮に入れ、気をひきしめてかからねばならない。そうすれば、大危難を克服し、志を果たすことができるのである。
この卦は、よい意味にも、悪い意味にも解釈することができる。何を散らすのか、離れ散ずるものが何であるのか、これを見極めることが重要である。

気分的には何となくスッキリして身体に元気が漲り、何かやってみたくなるとき。
仕事に精出すこともよし、趣味やスポーツに熱中することもよし、又レジャーに出かけることもよいだろう。しかし、それより、自分の為のことをするよりも人の為のことをする方が何倍も有意義であるということだ。無論運勢はこれから開けて来る時で、将来の見通しは明るい。
世間には得にならないことや金につながらないことは絶対にしない人がいるものだが、偶には奉仕精神も発揮して人の為にして見るのも悪くはないと思う。
全然当てにもせず、利害を越えて人に尽くしたことが不思議に金とつながったり、道が開けて来たりするものである。
一考に値することだ。
[嶋謙州]

兌の卦が教えているように、朋友たがいに勉強に勤しみ、益し合うようになると、いろんな問題が皆解決します。これが渙の卦であります。大詔渙発たいしょうかんぱつというときはこの渙の字を使う。それによって物が一斉に解消するからであります。
これを火へんの煥にする人がありますが、煥はかっとあかるく光る、という意味でありますから、さんずいへんの渙でなければなりません
[安岡正篤]

渙。亨。王假有廟。利渉大川。利貞。

渙は、亨る。王有廟ゆうびょういたる。大川を渉るに利あり。貞しきに利あり。

『渙』は氷が解け割れる意味、散る。仮は至る。『有廟』は廟(萃卦䷬辞参照)。

渙卦䷺は、下が水で、上が風。風が水の上を吹き渡れば、表面の水は小波となって一斉に散る。そこで渙と名付けた。
この卦、九二が剛で「中」を得、六三が六四と心を合わせるという良き徳がある故に、亨るという。王が廟に至るのは、先祖の霊魂が渙散しているのを、廟で祭ることによって再び結聚しようというのであろう。
雷水解䷧も、内卦が坎水であり、それを外卦震の春暖・鼓動をもって解散させるという卦であるが、震は奮動威武とするところから、解消させる坎苦は現実的・肉体的なものである。一方、渙卦において渙散させる坎苦は、巽でもって行うものなので、より観念的・精神的なもの。渙の坎苦は『憂悶ゆうもん』と見る。
また山風蠱䷑においては、風の流れが塞がれて生じた蠱敗を巽風によって渙散させるという意がある。
風水渙䷺は精神が渙散する卦と言えるが、それと対照的なのが澤地萃䷬である。澤地萃は人心が萃る卦だから、この風水渙と対照的である。
渙は、気が晴れないものが伸びやかになって散ることにより、亨るわけである。
しかし伸びやかになれば怠り、散れば離れ去るのが常であって渙散する人心は萃めなければならない。そのために『王有廟に假る』のである。
上卦は木でもある。渙卦は水の上に木で舟の意味があるから、大川を渉るに利あり。利貞は正道を固守せよという、占者への深い戒めである。
占ってこの卦を得れば、総じて願いごと通る。廟祭によろしく、大川を渉る冒険によろしい。ただし正道を持続した場合にのみ利益が得られよう。

彖曰。渙。亨。剛來而不窮。柔得位乎外而上同。王假有廟。王乃在中也。利渉大川。乘木有功也。

彖に曰く、渙は、亨る。剛来たりて窮まらず、柔くらいを外に得て上同じょうどうす。王有廟に仮るは、王乃ち中に在るなり。大川たいせんを渉るに利あるは、木に乗って功あるなり。

『上同』は上の者と心を同じくすること。前五世紀の『墨子』に尚同という篇があるが、尚は上である。渙卦䷺に亨るの徳があるのは何故か。この卦は䷴から来た。九三の剛が降りて来て二の中位を得た。初まで降り切ると行き詰まるが、二に止まったことで行き詰まらない。代わりに漸䷴六二の柔が中位の外へ出て、三の剛位を得、上の四と柔と柔で心を合わせる。このようにして渙卦になる。かかる良さの故に亨る。
王有廟に仮るとは、王が今や廟の中にあること、九五の王が「中」の位にあることをいう。大川を渉るに利ありとは、水を渡るには木に乗れば効果があるということ。

象曰。風行水上渙。先王以享于帝立廟。

象に曰く、かぜ水上に行くは渙なり。先王以て帝にきょうし廟を立つ。

『渙』は散る、解ける、離散する。また、散らして集める、気を発散させ、落ち着かせるという意味もある。風が水の上を行けば水が散る故に、この卦を渙という。
昔の聖王は、散るという卦の象を見て、天帝を祭り、先祖の廟を立てた。
古代においては、人々の気が散る、気持ちが離れることを防ぐために、また澱んだ気を散らして晴らすために、天帝を祀り、廟を立てた。祭杷を行うことで、散りかけていた人心を集め、大切なことは何かと改めて知らしめたのである。
天の祭りは王者の特権であり、国の大事である。天を祭るのは、散ろうとする人心を集めるゆえん、廟を立てるのは、散ろうとする霊魂を集めるゆえんである。

初六。用拯馬壯。吉。 象曰。初六之吉。順也。

初六は、用てすくう馬さかんなれば、吉。
象に曰く、初六の吉なるは、したがえばなり。

この『渙』の卦の九二から上九までは皆、『渙』の字を冒頭に爻辞がつくられているがこの初六だけは『用て拯う』とある。初六は位が低く、また陰で力も弱いので、ひとりでに渙らす力がないためだと言えるだろう。『拯う』というのは、手で引き上げて救うという意味で、他の力を頼るのだが、それが比爻である九二に当たる。
『用拯馬壮』は明夷䷣六二にも見える。馬を走らせて救おうとする、その馬が壮んであればの意。初六は渙散の卦の最初で、まださほど散らばってはいない。離散を救うのに大して手間はかからない。
馬で追う、その馬の足が達者であれば、散ろうとする者を連れ戻すことができよう。初六自体に渙散を救う力はないが、陽剛の九二に順うことによって、吉を得るのである。
馬壮は九二を指す。占ってこの爻を得た人、強力な味方を得てそれに従うならば、離散を食い止めることができて吉。

九二。渙奔其机。悔亡。 象曰。渙奔其机。得願也。

九二は、渙のとき其のおしまはしる。悔亡ぶ。
象に曰く、渙のとき其の机に奔る、願いを得るなり。

渙散の時にあって憂悶を渙散し、しかも安居を得ることを表現した爻辞である。
『机』は脇息きょうそく。九二は陽が陰位におるので、悔いがあって当然である。けれども換散のときに当たって、外から走って来て(九二はもと䷴の九三)、内卦の「中」位にとりついた。
「中」位は身を安んずる場所。机は体を安らかにするもたれ。そこで中位に走り着くことを、机に奔ると象徴的に表現した。かように安定した場所に奔り来ったことで、当初予想された悔いもなくなる。
象伝、願いを得、渙散のときには安静な場所を誰もが願うが、九二はそれを得た。占ってこの爻を得た人は、離散の状況下にあって、落ち着き場所を得、悔いはなくなる。

六三。渙其躬。无悔。 象曰。渙其躬。志在外也。

六三は、其のを渙す。悔なし。
象に曰く、其の躬を渙するは、志し外に在るなり。

『躬』はわが身、ここでは利己心を意味する。六三は陰柔で、「不中」、「不正」(陰爻陽位)。本来、利己心の強い性格である。しかし陽位におることは、積極的に事を行ないうる立場を意味する。わが身を渙らすというのは、わが身を顧みないということである。しかもその志は、離散しようとする外の世界を救済することにある。そこでその利己心を散じて(=渙其躬)天下のために働く。かくて悔いなし。
これ以下四爻みな、何かを換散することで散の時を救う意味がある。
占ってこの爻を得た人、我欲を散ずれば、悔いはない。

六四。渙其羣。元吉。渙有丘。匪夷所思。 象曰。渙其羣元吉。光大也。

六四は、其のむれを渙す。元吉げんきつなり。かんしておかあり、の思う所にあらず。
象に曰く、其の羣を渙す元吉なるは、光大こうだいなればなり。

『夷』は普通、平、常人の意味になる。『羣』は自分の仲間、所属団体、私党をいう。『渙』は、たとえば自ら派閥を解散すること。
六四は陰爻陰位で「正」、上には九五の君と密接している。離散する天下を救う任に当たる者である。この六四が成卦主爻であり、巽風をもって坎水を渙らす。下に「応」がない(初も陰)、ということは私的な子分をもたないということ。つまり其の羣を換す、私的な朋党を自分から解散して奉公する者である。
これはもとより大いに善いことで吉である(=元吉)。
小さな党派を解散することで、より大きな団結ができる。人々が集まって、丘のようになる(=渙有丘)。
滅私大同の効果はまことに広大であり、常人の考え及ぶところではない(=匪夷所思)。占ってこの爻を得た人、私党散して大同団結すれば、大善であり吉である。
国が混乱しているのは、派閥同士が争っているためである。派閥を解散すると孤立無援になると思うが、むしろ解散することで大団結ができる。そして、それは常人の考え及ばないことである。

九五。渙汗其大號。渙王居。无咎。 象曰。王居无咎。正位也。

九五は、渙のとき其の大号たいごうを汗のごとくにす。王居おうきょを渙すれば、咎なし。
象に曰く、王居咎なきは、正位なればなり。

 

大号は王者の命令。汗のごとくにす、命令を出すこと。王居の居は、奇貨居くべしの居、蓄積した財をいう。

国内が分散する、また会社組織がバラバラになっている時、リーダーは大号令を発する必要がある。これを汗に喩えている。汗は一度出たらもとに戻らない。王者の命令もそうである。『綸言りんげん汗のごとし』などというのはそれである。朝令暮改の号令ではないということである。離散した人々の気持ちを集めるため、リーダーは的確な命を渙発しなくてはならない。
九五は陽剛、「中正」(外卦の中、陽爻陽位)、君位におる。徳高き王者である。天下渙散する時に於て、その的確な大命令を発し、王者私有の蓄財を天下の民に散ずるならば、離散を防止し得て、咎がなしに済むであろう。私有の富を散ずることは、より大きな富を得ることである。唐の名臣陸贄りくしが『小儲を散じて大儲を成す』というのもそれである。
前爻の小群を散じて大団結を得るのと同じ発想。占う人、このようであれば咎はない。象伝、『王居无咎』は『渙王居』を略した。正位なればなり、九五が君位にあればこそ、貯蓄を散じて構わない。

上九。渙其血。去逖出。无咎。 象曰。渙其血。遠害也。

上九は、其のいたみかんす。去りてとおず。咎なし。
象に曰く、其の血を渙するは、害に遠ざかるなり。

血は傷害を意味する。その血を渙らすというのは、血なまぐさいことから遠ざかって、その身を高尚に保つこととなる。上九は渙散の卦の終りにおり、下卦の険から最も遠い。何の傷害もない。そのことを其の血を換す、傷害を散らすという。
内卦の坎を血の象とするが、この爻は卦の終りにあって、内卦からは最も遠く、また巽の極にあり潔斎(心身を清める)して清らかさを有つという爻象がある。
傷害のある場所から去って遠く外へ出ていれば(=去逖出)咎はない。
占ってこの爻を得た人、事の外に出て、害に遠ざかれば、咎はない。

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