32.雷風恒(らいふうこう)【易経六十四卦】

易経
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雷風恆(恒久性・恒常性/現状維持・動中の静)

usually:平常/duration:持続
万事旧きを守り、新規は控えるべし。
野心を抱けば全て崩壊せん。

夫婦之道不可以不久也。故受之以恆。恆者久也。
夫婦の道は以て久しからざるべからず。故にこれを受くるに恒を以てす。恒とは久なり。
夫婦の道は、永く久しく継続しなければならない。だから、咸の卦の次には、恒の卦が置かれている。恒とは、久しく長く変らないこと。
恒とは恒常不変のことであり、夫婦でいえば安定した結婚生活を意味する。上卦の震は成人した男子、下卦の巽は成人した女子、「31.澤山咸」の卦では若かったふたりもいまは中年となり、位置も男が上に立ち、女は下に従っている。
物事は常に変化している。その中にも一つの変わらないものがある。人生においても絶えず変化しているその中にも固守すべき一つの節操がある。
正しい道を守って進んで行き、その時その時、進歩するところに恒の道がある。進んで変化する中に、変わらないものがある。
何事も初心を忘れず、新奇なものに惑わされることなく方針を一貫してゆくことが肝要である。

平常心で冷静かつ沈着に物事を行うとき。
急きも慌てもせず、常に自分の立場をわきまえて進むことが至極大切である。
運勢は悪くないし、しっかりと落ち着きを見せているときで、すべてに充実感が見られるが、そうかといってどんどん前向きに行動を起こしてよいというわけではなく、むしろ現状維持のときで、極力平和を保たねばならぬ。
しかし、この卦のときは妙に心が落ち着かなかったり、何かやって見たくなったりするから必ず自重すること。
東洋の思想とはとかく中庸の道を説いているので、決して無理しないことが得策。
この卦のとき、やってみて先ずは大概は結果が良くないと見るのが妥当。
万が一なんてことは考えぬほうがよい。
[嶋謙州]

咸が恋愛から始まり、夫婦となって結ばれ、永遠性、永久性をもつ。これが恆の卦であります。そこでこれを「つね」と読むわけであります。新婚夫婦も数年経ち安定した生活をしておりますと、雷と風がこの二人に波乱を起こそうとしますが、何事も初心を忘れず一貫性をもって、二人は道を守っていきますので、影響はありません。
このように下経は、自然的よりも人間的であり、上経に比べるとさらにまた感興が豊かになります。
[安岡正篤]

恆亨。无咎。利貞。利有攸往。

恒は、亨る。咎なし。貞しきに利あり。往くところあるに利あり。

咸を反対にすると、この卦になる。恆は常。常理、永久の意味がある。恆卦は下卦が巽、長女の象がある。上卦は震、長男。咸卦は男が女にへりくだることで陰陽交感の理を示したが、この卦は女が男にへりくだるかたち。これは夫婦の常理である。そこで恆と名付ける。
占ってこの卦が出た場合、占う人が恆を守る自分の道を持続するならば、当然願いごとは亨るし、何の答もない。しかし必ず動機が貞しくて、その貞しさを持続することを条件とする(=利貞)。そうであれば、前進しても有利であろう。

彖曰。恆。久也。剛上而柔下。雷風相與。巽而動。剛柔皆應。恆。恆亨无咎。利貞。久於其道也。天地之道恆久而不已也。利有攸往。終則有始也。日月得天而能久照。四時變化而能久成。聖人久於其道而天下化成。觀其所恆。而天地萬物之情可見矣。

彖に曰く、恒はきゅうなり、剛かみにして柔しもなり。雷風相いくみす。巽にして動く。剛柔皆な応ずるは、恒なり。恒は亨る。咎なし。貞しきに利あるは、その道に久しきなり。天地の道は、恒久にしてまざるなり。往くところあるに利あり、終れば始めあるなり。日月は天を得て能く久しく照らし、四時しいじは変化して能く久しく成る。聖人はその道に久しくして天下化成す。そのひさしきところを観て、天地万物のじょう見るべし。

恒は久なり、同じ子音の字で卦名を解説した。この卦は上卦が震、陽卦であり、下卦が巽、陰卦である。故に剛上にして柔下という。また卦変でいえば豊の初九の剛が上り、六二の柔爻が下ることによって恆になったとも解せられる。この場合は剛上って柔下ると訓ずる。
いずれにしても剛すなわち男が上に、柔すなわち女が下になるのが夫婦の恒である。またはは雷、は風、雷と風が互いに助け合っている。雷は風に乗って遠く走り、風は雷によって力を増す。雷と風の相い与するのも理の恆。卦の徳でいえば、は巽、したがう。☳は動く。法則にしたがって動くのは天地の恆。またこの卦形は、初と四、二と五、三と上、みな剛柔相い「応」じている。剛と柔と応ずるのも理の恆。故にこの卦を恆と名付ける。
卦辞、恆は亨る、咎なし。恆があることは、当然願いごとの亨り、咎のないことを約束する。しかし貞しきに利ありという条件が附せられる。ということは不正な道に於て持続的であっても恆とはいえない、正しい道に於て持続的でなければいけないという意味である。その証拠に天地の道は、正しいからこそ、恆久であり、やむことがないのである。卦辞の往くところあるに利あり、天下のものはすべて動き変ずる。終わったかに見えてまた始まる、無限の変化が恆である。
恆とは、一定不変の停滞を意味しない。だから往くところあるに利ありという。
日月は天の法則性を得てこそ、永久に世界を照らし得る。四季は天の法則に循って変化することで、永久の万物生成を果たす。聖人は正しい道を永久に持続するからこそ、天下はそれに感化されて、秩序が完成する。自然界、人間界がいかなる点で永久的であるかをよく観察するならば、天地万物の秘密(=情)はあきらかになるであろう。

彖曰。雷風恆。君子以立不易方。

象に曰く、雷風あるは恒なり。君子以て立つにほうえず。

と風と助け合うのは理の恆である。故にこの卦を恆という。外から見れば雷も風も動いて止まらないものであるが、両者助け合うところに、目に見えない恆常性がある。君子はこの卦に法とって、日々の行動こそ時に順応して一定しないけれど、その内に恆常性がある。つまり、身を立てる大筋としては、道を変えないのである。方は正方形、角から法則、道の意味になる。
『立つに方を易えず』とは、一旦、志を立てたならば、しっかりと自分軸を確立しブレない。何があっても自分の道を守りぬくこと。人は飽きると変化を求めるが、本来は毎日同じことの繰り返しの中で変化し、成長を遂げるものである。

初六。浚恒。貞凶。无攸利。 象曰。浚恆之凶。始求深也。

初六は、ふかつねにす。貞しけれども凶なり。利するところなし。初六は、浚く恒にす。貞しけれども凶なり。利するところなし。
象に曰く、浚く恒にするの凶なるは、始めにして求むること深ければなり。

『浚』は深い、深く入る意味。初六は内卦巽の主爻で、巽の性向の最も著しく九四と「応」である。巽を伏入としずぼずぼと潜り込んで行こうとする。
しかし、陰(=初)と陽(=四)の応ずるのは理の恒であるが、初六は卦の一番下、始まりである。まだ深く求めることがあってはならない。しかも相手の九四は上卦の主たる爻。は動くである。それに陽剛であるから、上へ昇ることばかり考えている。そのうえ、中間に九二、九三の邪魔者がある。九四の初六に応ずる意志は、必ずしも常理のようではない。ところが初六は愚か(陰爻だから)で、そうした情勢がわからない。初六は☴の主たる爻、☴は入る性質がある。そこで相手に深く立ち入って、常理のとおりにふるまえと要求する。これを浚く恆にするという。
いわゆる正義の押し売り。占う人がこのようであれば、意図は貞しくても結果は凶。何の利益もない。象伝の意味は、卦の始まりに於て相手に要求することが過度であるから、凶。

九二。悔亡。 象曰。九二悔亡。能久中也。

九二は、くい亡ぶ。
象に曰く、九二の悔亡ぶるは、能くちゅうひさしければなり。

九二は陽であって陰位におる。本来ならば後悔する結果になる筈であるが、二は下卦の「中」であり、九二はその「中」の徳を持続しているだけに、予想された悔いも消滅してしまう。
占ってこの爻を得た人、中庸の態度を持続するならば、後悔するような目に遇わないですむ。

九三。不恒其徳。或承之羞。貞吝。 象曰。不恆其徳。无所容也。

九三は、その徳を恒にせざれば、或いはこれがはじく。貞しけれど吝。
象に曰く、その徳を恒にせず、るるところなきなり。

説卦伝で、内卦巽を風とし、進退とし、果たさずとし、それ究まりて『躁卦』とする。(躁=さわがしい)それらの意を一番備えているのが、この九三である。巽の中を過ぎ、その躁卦の究まるところにいるために、陽をもって陽位に正しくおりながら、恒の時にあって一つの所に止まることができない。これを夫婦に当てはめると、婦が一人の夫を守ることが出来ないようなものである。そのような有様では傍からも恥を受けるようなことになり、身の置きどころもなくなるということである。
九三は剛剛位「正」を得てはいるが、反面、剛に過ぎる。それに「中」(二)を外れている。自分の場所に満足し切れないで、上六(応)につき従おうとする。正しい居場所に恆久的におれないということは、その徳に恒常性のないこと。
だからその徳を恆にせずという。恆のない人は人に受け容れられない。恥辱を受けることがあろう~或いはこれが羞を承く(或=有)。
占ってこの爻が出たら、貞なれど、吝。つまり、意図は貞しくても、恆常性がなくふらふらしているのでは、恥ずかしいことがあろう(=吝)。重ねて占者を戒めることばである。『論語』子路篇、孔子のことばの中に『不恆其徳、或承之羞』の二句が見える。易日とはいわないが、易のここの文を引用したのだとされる。

九四。田无禽。 象曰。久非其位。安得禽也。

九四は、かりしてえものなし。
象に曰く、久しきもその位にあらず、いずくんぞえものを得ん。

『田』は狩猟。『禽』は獲物、鳥に限らない。九四は陽が陰位におる。いくらその場所に恆久的に居すわっても「不正」な位である以上、何の得るところもない。田して禽なしはそのシチュエーションの象徴であり、判断でもある。占ってこの爻を得た場合は、求めるものが得られない。

六五。恒其徳。貞。婦人吉。夫子凶。 象曰。婦人貞吉。從一而終也。夫子制義。從婦凶也。

六五は、その徳を恒にす。貞し。婦人は吉。夫子ふうしは凶なり。
象に曰く、婦人は貞しくして吉、一に従って終ればなり。夫子は義を制す、婦に従えば凶なり。

九三は躁卦の極に居るために、位が正しくても、その徳を恒にすることができなかった。しかしこの九五は、位は正しくないが、柔中を得ているため九二が剛中をもって悔いが亡びたよりも、さらに一段と恒の道に適って、その徳を恒にすることができる。
婦人は妻の意味。夫子は婦人に対する語、夫を指す。六五は柔であって「中」、しかも下卦の剛であり「中」である九二に、忠実に「応」じている。言わばその徳に久性のある者。正しくて正しさを持続する徳(=貞)がある。しかしひたすら柔順に人に従うことを以てとするのは、妻たるものの正道であって、夫たるものの道ではない。なぜなら、妻は一人の男に従順にかしずいて一生を終えるべきもの、夫は自分から方針を定め命令する(=義を制す)立場であって、女のいうことに従うべきでないから。
故に占ってこの爻が出た場合、判断は問う人が妻であるか夫であるかによって異なる。問う人が妻ならば、判断は吉。柔なる五が柔順に、剛なる二に応じている態度は、女の常道であるから。これに反し、問う人が夫ならば、結果は凶。つまりこの場合、柔なる六五が夫に、剛強の九二が妻に当たり、夫が妻にかしずく形になるからである。

上六。振恒。凶。 象曰。振恒在上。大无功也。

上六は、うごくこと恒なり。凶。
象に曰く、振くこと恒にしてかみに在り、大いに功なきなり。

九三が、躁卦巽の極にあって不恒の吝を招いたのに対し、この上六は動卦震の極にいて妄動するのだから、恒の時には適わないことは言うまでもない。
初爻では、順序良く常道に入るべきなのに、初めから求めることが深く、動いてはいけないのに動き、奮ってはいけない力を振るうのである。
上六は恆卦の極点におり、また上卦震(動く)の一番上の父でもある。恆が行きづまれば常ならぬものとなり、震(=動)の終りになればぶるぶるとした速い動きになる。この爻は陰柔で自分の身を守ることができない。上という地位は高過ぎて不安である。そこで上六はいつもふらふらと振れ動いている。うごくことをば恆としている。それを振恆という。大体、人の上に立つには、恆久的徳があってこそ可能なのに、いつも不安定に振動しているのでは、全く何の成果もあげられない。
恒の道において、よろしきを得ることが、如何に難しいかということである。
これを喩えて言えば、夫が何かと威張り、絶えず無駄に奮動したり、あるいは法を改めて兵を動かしたりして、徒に費やし疲れさせるようなものである。
占ってこの爻が出たら、もとより凶である。

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