43.澤天夬(たくてんかい)【易経六十四卦】

易経
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澤天夬(おしきる・決断/処断)

decision:決断/break through:突破する,切り抜ける
まさに、決断の時なり。
強引に進めば、不慮の災いあるべし。

益而不已必決。故受之以夬。夬者決也。
益してまざれば、必ず決す。故にこれを受くるに夬を以てす。夬とは決なり。

いつまでも益して増しふえていくならば、必ず裂け破れてしまうものである。
決は、川の水が堤を切って流れ出ること。夬は、決、決裂の決にあたる言葉で、切り開く、重大事を決行することである。
いちばん上に陰があり、五つの陽を抑えつけている。独裁者が世論を無視して圧政を布いている形である。たとい危険はともなっても、また非常手段に訴えても、この独裁者を排除(夬)しなければならぬ。剛毅な精神(乾)でそれを行なってこそ、人びとは悦び(兌)和らぐのである。それには不純な動機があってはならない。私利私欲を去って正義を貫くこと、また自己の足場を固めてから行なうこと、暴力はできるだけ避けることが大切である。
団体やグループでも、それがあまりに大きくなりすぎると、それは自然に内部から崩壊するようになる。またあるものに、あまりに多くを詰めすぎると、そのものは破れてしまい、中のものは漏れてしまう。大変危険な状態である。

この卦がでたら、右にするか左にするか、何か決断に迫られているときである。
現在、それがなくても、近い将来に必ず何かを決断せねばならぬ時がやってくる。
それだけに今は何事も心して掛かる事が大切で、それを怠ると将来決断の段階で非常に苦しい立場に追いやられることになり兼ねない。
運気は全く悪いということはないが、楽観は許されず、何時土壌が決壊したり、矢面に立たされたりするようなことが起きないとも限らない。
こんなときはじっと我慢して時を待つというより必然的に進まねばならぬ状態が出てくるから、目上の人か信頼できる人に相談して態度を決めることが肝要。
もうひとついえることは、目先の欲を捨て無欲になって対処することのほうが絶対に有利であるということだ。
[嶋謙州]

注意を怠りますと、益すればそこに失敗、災いも生じます。
せっかく到達して得た自由に伴う失敗、そこでまたひとつの注意を与えておるのが夬の卦であります。
自由というものは、無心でなければなりません、いろんな引っ掛かりを持っておるといけません。
どうかすると人格者、道徳家などには、よく神経のとげとげしい、小うるさい人がおるものですが、そういうものを自ら解脱するというのか、忘れるということを説いたのがこの卦であります。
大象に居徳則忌―徳に居て則ち忌む、とあります。
忌という字は、随分後世易学者の間に議論があった字であります。
いろいろ研究考証の結果、忌という字は間違いで、和するという字を誤り伝えたものだという結論に到達しました。
徳に居て則ち和する。これは人間がくだらない欲望だとか、あるいは警戒心だとかいう窮屈なものを解脱して、こせこせしない、無心がよいのだということであります。
[安岡正篤]

夬。揚于王庭。孚號有厲。告自邑。不利即戎。利有攸往。

夬は、王庭おうていぐ。孚あってさけぶ、あやうきことあり。ぐることゆうよりす。じゅうくに利あらず。往くところあるに利あり。

『夬』はもとは弓を引くとき、親指にはめるゆがけを示す。弦をぱっと離すことから、決断の意味になる。夬を旁とする字、決、快、訣、缺、みな切れ離れる感じを含む。たとえば『決壊』、一つの激しい勢いをもって分裂する、あるいは何かの勢いが極まるところまで行って、それを一思いに片づける(定まる)と言った意味あいの文字である。
夬䷪の卦は、陽が力強く伸びて陰をおし決る形であるから、夬と名付ける。消息卦として三月に当たる。
『王庭』は王の朝廷。公の場。『揚』は宣揚。『号』は呼号。『告』は命令。『邑』は私邑。『戎』は兵。戎に即くは戦争に従事する。
この卦は君子(=陽)の勢いが盛んで、僅かに残る小人(=陰)を決ろうとするとき、小人を決るのは当然とはいえ、やはり先ず朝廷に於て彼の罪を明らかにすることが必要である(=揚于王庭)。
誠意を尽くして(=孚)衆人に大声で呼びかけ(=号)、皆と力を合わせて小人を決るのだが、事が事だけになお危ういことがある(=有厲)。油断してはならぬ。先ず(=自)自領(=邑)に命令してこれをよく治め(=告)るべきで、武力を恃んでむやみに戦争をしかける(=即戎)のはよくない~先ずわが身を正しくすべきで、無反省に相手を攻めるのはよくない。かようにすれば進んでも不利はない(=利有攸往)。
まず、排除するべき理由を公の場に明らかにする必要がある。しかし、相手は高位にあり、手強い。誠心誠意をもって訴えても、なお危険がともなう。
そこで、『邑よりす』。つまり、まず自分の足もとをきれいにし、親しいものから結束を固め、広く民衆の意志を固めて根底の力を養うのである。
そして『戎に即くに利ろしからず』とあるように、武力を用いない。権力者を除く時に武力や権威を尊んだなら、ただ混乱し、道が窮まるだけである。
このように行動するならば、進んでいって時代を切り開くことができるという。
この沢天夬の時がそのまま起こったような史実が、劇的な変貌を遂げた明治維新前の幕末期である。
占ってこの卦が出れば、悪人を退治する時であるが、以上の点に注意すべきである。

彖曰。夬。決也。剛決柔也。健而説。決而和。揚于王庭。柔乘五剛也。孚號有厲。其危乃光也。告自邑不利即戎。所尚乃窮也。利有攸往。剛長乃終也。

彖に曰く、かいけつなり。剛の柔を決するなり。けんにしてよろぶ。決してやわらぐ。王庭にぐるは、じゅう五剛に乗ればなり。孚あってさけあやうきことあり、それ危うきときはすなわおおいなり。告ぐること邑よりすじゅうくに利あらず、たっとぶところ乃ち窮まるなり。往くところあるに利あり、剛ちょうじて乃ち終わるなり。

卦の形でいって陽剛が陰柔をおし決るから夬という。上下卦の徳でいえば、下卦乾は健、上卦兌は説ぶ。つまり勇往邁進しうるが、人を悦び服せしむるようなやりかた。だから決ることは決るが、怨みは買わない。相手も和ぐ(和は説と同じ)。
『王庭に揚ぐ』なぜそうせねばならぬかといえば、一小人(陰爻)が数多くの君子(五陽爻)の上に乗っている。その事がすでに罪悪だからである。
孚あって号ぶきことありというが、危険だぞと自覚することによって、かえって(=乃)君子の道が広大(=光)になるのである。
『告ぐる邑よりす戎に即くに利あらず』武力だけを尚んでいてはかえって行き詰まるという意味。
『往くところあるに利あり』この卦䷪からさらに前進すれば、残る一陰も変じて純陽の卦䷀乾になる。剛の伸長はここで始めて(=乃)終わる。
往けば最もめでたい乾卦になるのだから、往くところあるに利あり。

象曰。澤上於天夬。君子以施祿及下。居徳則忌。

象に曰く、たく天にのぼるはかいなり。君子以て禄を施して下に及ぼす。徳にることはむ。

が天の上に昇っている。沢の堤が決れて下に溢れ注ぐことは目に見えている。君子はこの卦に象どって、禄を下々にまで施し与える。禄は恩沢・恵み・情け。
徳に居るは相手に得を与えてやったかに自任すること。禄は君主の手から下に渡されるにせよ、本来は天から与えられる禄。君主は天の代行者に過ぎない。
君子が禄を下に及ぼすに当たり、恩に着せるような態度があれば、忌むべきことである。これまで上位で止まっていた恩沢の構造を壊し、下位にまで及ぼし、遍く潤わせる。
そのような維新を起こす者が、恩沢を自分の所に止めて下に施さず、あるいは施しても、それを自分の徳や手柄とするのは忌むべきことである。

初九。壯于前趾。往不勝爲咎。 象曰。不勝而往。咎也。

初九は、あしすすむるに壮んなり。いて勝たざるを咎となす。
象に曰く、勝たずして往く、咎あるなり。

『趾』は足首から下。『前』は進める。
『壯于前趾』の句は大壮䷡初九、壯于趾あしにさかんに似ている。大体、夬の卦䷪は、大壮䷡と比べて、陽の伸展の度が一歩進んでいるだけである。そこで夬の初九に於て、趾を前めるに壮んという。
初九は下卦健の一部だから、勇み進もうとする。つまり趾を前めることに意気壮んである。いかんせん、最下位で力足らず、意気ばかり壮んなので、往っても勝てない惧れがある。小人を決る時なので、負けることは許されない。
往くからには必ず勝てるという策を立ててでないといけない。この爻を得た場合、意気はよろしいが、往って勝てないことを以て唯一の咎とする。
象伝の意味は、勝算ありと見越して往くべきなので、勝てないと判っていて往くから、咎がある。

九二。愓號。莫夜有戎。勿恤。 象曰。有戎勿恤。得中道也。

九二は、おそれてさけぶ。莫夜ぼやつわものあれども、うれうるなかれ。
象に曰く、戎あれど恤うるなきは、中道ちゅどうを得ればなり。

『惕』は憂懼。『莫』は艸艸の中に日が落ちる時、暮の本字。『戎』は兵。『恤』は憂患。
九二は小人を決るの時に当たり、剛であって柔位におる、ということは猪突妄進しない柔軟な強さを有する。進むことをおそれ戒め慎んでいる。
二は内卦の中、中庸の道を得ている。そこで彼は、常に敵襲を心配して味方に警戒の叫びをかける。だから暮夜に敵兵の襲撃があっても、敗れる心配はない。

九三。壯于頄。有凶。君子夬夬。獨行遇雨。若濡有慍。无咎。 象曰。君子夬夬。終无咎也。

九三は、つらぼねに壮んなり。凶あり。君子は夬夬かいかい。独り行きて雨に遇う。るるが若くいからるることり。咎なし。
象に曰く、君子は夬夬、終に咎なきなり。

『頄』は頬骨。九三は剛であり、しかも剛ばかり重なって、内卦の「中」を過ぎた。過度に剛強な者。小人を決ろうという意気が顔面に壮んに現われている。それを頄に壮んという。排除するべき小人に対して攻撃心が顔に出てしまうと、覚られて大失敗、凶なる結果を招くことがあろう。小人は敏感に機を感じる。ゆえに決心は固くとも隠忍自重して顔に出さないようにする。相手はもちろん、味方さえも欺くかのようにして時を窺い、排除するべき時を観て、除かなくてはいけない。
大体、君子は決然たるが上にも決然として、小人を決るべきである(=君子夬々)。
ところが九三はこの卦のなかで、たった一つ、上に「応」がある。それも上六の小人と。多くの君子(陽爻)のうち、九三だけ独り昇って行って上六の小人と和合する中に疑われる。
『雨に遇う』陰と陽と和合すると雨になる。三は陽、上は陰で和合の可能性があるから、かくいう。本当に上六と和合して濡れたわけでないが、何分にも「応」の関係にある。濡れたような色が見えるところから、他の君子に不満の目で見られることもある(=若濡有慍)。
しかし、九三の正体はあくまで決然たる君子なので、ついには少人を決り捨てる。人に咎められるようなことはない。東晉の温嶠(おんきょう)が逆臣王敦(おうとん)に従うようなふりをしながら、ひそかに戦備を整え、一挙にこれを討ち滅ぼしたのは、これに似ている。
占ってこの爻を得た人、悪人に対し、露骨に敵意を示しては禍いのもと。表面は不即不離、最後に断ち切るようにすれば、人に一時疑われることがあっても、咎はない。

九四。臀无膚。其行次且。牽羊悔亡。聞言不信。 象曰。其行次且。位不當也。聞言不信。聰不明也。

九四は、いさらいはだえなし。その行くこと次且ししょたり。羊をけばくい亡ぶ。ことを聞くとも信ぜず。
象に曰く、その行くこと次且たるは、くらい当らざればなり。言を聞くとも信ぜざるは、そう不明なればなり。

初九や九三は進む勢いが強くて、進むことを控えさせる方だったが、この九四は反対に自ら進もうとしても進むことが思うように行かない爻である。
九四は陽が陰位におる。つまり「不正」、また「不中」(五が中)。甚だ居心地がわるく、尻が落ち着かない。まるで尻の皮膚がむけて、坐ることができないように。それかといって行こうとすれば、位が「不正」なだけに、ぎくしゃく(=次且)して進まない。
羊を牽けば悔亡ぶ~上卦は羊の象がある。羊を牽く秘訣は、自由に歩かせてあとからついてゆくこと。前に立ったら進まないものである。そのように他の陽爻の先頭になろうと競っては後悔する羽目に陥るが、他の陽の進むあとについてゆけば、その悔いは未然に消える。
しかし陽が陰を決する時であるから、どうしても猛進したがる。この注意を聞いても、信じないであろう(=聞言不信)。
ただし占ってこの爻を得た人が、人の前に立とうとするな、人の後ろにつけ、というこの言を聞いて、信ずるならば、凶なるべき運命は吉に転ずるであろう。象伝、聡不明也は噬嗑上九象伝にも見えた。耳があって聞こうとしない愚かさをいう。

九五。莧陸夬夬。中行无咎。 象曰。中行无咎。中未光也。

九五は、莧陸夬夬けんりくかいかい中行ちゅうこうにして咎なし。
象に曰く、中行咎なし、中いまおおいならざるなり。

『莧陸』とは湿地に生える草の類で、一説には商陸(やまごぼう)と言われているが、上爻を指しての事である。外卦兌の沼の湿地に生えている根の深い草で、その蔓延るのを決し去り、決し去りして咎なきを得るのである。
九五は剛爻の一番上で、剛が柔を決する主役、この卦の主体である。山ごぼうを根こそぎ抜き去る如く、小人を徹底して抜き去る。
九五は剛毅(陽爻)で中正(外卦の中、陽爻陽位)、上六の小人を失って失って夬り捨てる(=夬々)うちにも、中庸の道(=中行)を失わず、過度の乱暴を働かなければ、咎はない。
象伝はさらに爻辞の咎なしの判断に続けていう、九五は上六に隣りあっている。理想をいえば、誠意によって感化すべきなのに、力でこれを決る。小人を決ること、中道にそむかないとはいえ、その中道はまだ広大(=光)とはいえない。

上六。无號。終有凶。 象曰。无號之凶。終不可長也。

上六は、さけぶ(よばう)ことなし。ついに凶あり。
象に曰く、号ぶことなきの凶なる、ついながかるべからざるなり。

上六は唯一裂き破られる側の者である。柔弱で人に媚びるだけで高い位を手に入れていたとしても、ついに裂き破られる時が来たのである。
よばう』は外卦の兌を口とするところから。変ずると乾となり、乾は充満した形で今まで叫んでいた口が塞がれる象。上六が、下から進んできた五陽爻のために決し去られる時に当たっており、声も出ないように窒息させられる。これが『號うなし』
上六は陰、小人である。君子が小人をおし決る卦にあって、追い詰められている。上位の枢要な位置にいて勢望威力を持っていた小人も、結局は決し去られる。大声で号び呼ぼうとしても、答える仲間は一人もいない。『終に凶有り』
小人が君子の上に乗っていても、その命運、結局は長くはないのである。
どれほど助けを求めても、救いはこない。終わりには追い落とされるのだから、決心して自ら退くべきである。『夬』は決壊の意、時が至って勢力に押され、破れること。幕末期はまさに沢天夬の時といえる。時代の転換期には、行いの良し悪しに関わらず、時の勢いによって滅ぼされる。
占ってこの爻が出た場合、占う人が君子であれば、その人の敵がこの凶運に該当する。つまり敵をたおし得る。逆に占う人が小人であれば、自分がこれに当たって凶。

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