57.巽為風(そんいふう)【易経六十四卦】

易経
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巽為風(入る・謙遜/柔軟)

hesitation:躊躇/a windmill:風車
疑心多く、事を誤る時なり。
英慢果断の人に従うべし。

旅而无所容。故受之以巽。巽者入也。
旅して容るる所なし。故にこれを受くるに巽を以てす。巽とは入るなり。

自分のいるべき所を失って、流浪するようになれば、どこにも、わが身を受け入れてくれる所がないのである。そこで、人にへりくだって、柔順な態度を示さなければならない。
『巽』は風を象徴する。この卦は巽がふたつ重なった形で、そよそよと吹きめぐる風である。風は物に出遇えば、柔らかく身をよけて吹き過ぎる。巽とは、遜のことで、へりくだる、譲ることである。
順というのは、下の者が上の者に順うことばかりをいうのではなく、上の者も、下の者の感情や考えを尊重しそれに順わねばならない。また、物事の正しい道理、時代・環境・自分の置かれた立場に順わねばならない。
風はまた、どんな隙間にでも入りこんでゆく。巽とは入ることでもある。どんな仕事にも、どんな人間関係の中にも、柔軟な適応性をもって入りこめる人間を表わす。しかし柔軟性は悪くすると無原則性に陥る危険がある。優柔不断のそしりを受けることにもなりかねない。
進退に迷い、決断をためらうことが多いが、すぐれた指導者に従って、誤りなきを心がけねばならない。

心の迷いや動揺、不安がある時。じれったいような優柔不断、判断のつかないことや実行できないことで地団太踏んでいる状態とも云える。
運気は悪くないが、周囲の状況や外部の形勢が目まぐるしく変化する為、現状を的確に把握することが出来ず、また将来に対する動向や予測も読み取りにくい。
だから判断もつかず実行に踏み切れず、いたずらに躊躇ばかりすることになる。
こんなときは「下手な考え休むに似たり」で自分の浅智恵に頼らず、目上や先輩の意見や考えを仰ぐか、有力な人のアドバイスを拝聴するかしたほうがよい。
ゆめ単独で行動を起こしたり、あやふやな気持ちで物事を進めては絶対にいけない。
やれば中途で収拾がつかなくなり、憂き目を見ることは火を見るよりも明らかである。
[嶋謙州]

巽は風であり、この卦は風がふたつ重なっている象であります。
風が軽くそよそよと吹き、そのそよ風に、草木がなびくように、人間は謙虚に行動して、よく人の言を聞き、人を立て、朋友、知己、恩人などには、特に礼をつくさなければならないと、戒めの卦であります。
[安岡正篤]

巽。小亨。利有攸往。利見大人。

巽は、小し亨る。往くところあるに利あり。大人を見るに利あり。

の卦は、一陰爻が二陽の下におとなしく伏している。順うかたちがある。順うが入るの意味になるのは、相手が順うから入り易いのと、自然の道理に順ってゆけば入り易いのと、両方の意味に於てである。巽に風の象があるのも、風はどこにでも入りこむからである。
は二陽一陰の卦で、卦の主体はその一陰にある。陰の小なるものが卦主である。しかもそれが上に現れているのでもなく、中位についているのでもなく、下のほうに入り込んでいる。自らが主となったり、重きを支えたり、遠きを慮ったりすることはできない。陰が主体だと大きく亨ることはない。陽が大なのに対し、陰は小だから、故に小し亨ると判断する。兌のように下から持ち上げられるのではなく、下の方へ入り込んで行くのだから、自ら努めて行って初めて亨る。

は一陰爻が二陽に従っている卦であり、下に入ることが出来たならば、あくまで巽順に、陰陽に従い往くのは自然なので、往くところあるに利ありという。
ただし従うといっても、従う相手が悪人であってはならない。相手を選ばなければいけない。己を立てずに大人に従ったほうが良い。そこで大人を見るに利ありという。
象の風から言っても、風は、坤土のように自ら草木を生じさせたりすることはできない。生じた草木に虫などが発生しないよう、虫害を刷新するなどに効果があるだけである。しかもそれは風が止まらずして行き回る事によって用を果たすのだから、その観点からしても小しく亨り、往く攸あるに利ありなのである。しかも強剛逞しくしたなら、たちまち草木など吹き倒してしまうのだから、己を立てずに従うことが大事なのである。
また、風が吹きまわる意味をこの卦に見て、それを命令が行きわたることにも喩えられる。これは一度命令を出したなら、それをきかないのは民の落ち度だなどとは言わず、その命令がくまなく行きわたるよう、丁寧を尽くすこととしている。
すなわち主卦の主爻である九五を中心として見る時は、爻そのものが剛健中正であるばかりでなく、卦の巽順の徳を見ることが出来るのである。
占ってこの爻を得た場合、小さな願いは通る。人に従って往くのによろしい。ただし偉大な人に会って従うがよい。

彖曰。重巽以申命。剛巽乎中正而志行。柔皆順乎剛。是以小亨。利有攸往。利見大人。

彖に曰く、重巽ちょうそん以てめいかさぬ。剛は中正にしたがって志しおこなわる。柔な剛にしたがう。ここを以て小し亨る。往くところあるに利あり。大人を見るに利あり。

『重』は重複。『命』は命令。『申』は丁寧反復の意味。この卦は巽を上下に重ねた卦である。巽は順であり、入である。理に順って従順な対象に入りこめば、必ず底の底まで入りこみうる。風がどこへでも入り得るように。底の底まで入りこむというのは、お上の命令に似ている。すなわち巽に命令のイメージがある。
この卦は巽を重ねたものだから、命令を丁寧に反復する意味を表現する。命令者たる九五は剛であり、上卦の「中」を得、陽位におるから「正」でもある。つまり剛なるものが中正の道に巽っているので、その志が世に行なわれ得る。そこで判断として、往くところあるに利ありという。つまり巽は陰が陽に巽うだけでなく、陽が道理に巽うことでもある。そしてこの卦の柔、初六と六四は、当然それぞれの上の陽に異っている。陰すなわち小なるものにこうした徳がある故に、判断として小し亨るといい、大人を見るに利ありという。

象曰。隨風巽。君子以申命行事。

象に曰く、随風ずいふうあるはそんなり。君子以て命をかさね事をおこなう。

『随風』随とは前のに後のが継続する意味。風に風が続くのが巽䷸である。風はすみずみまで行き届く点で命令に似ている。君子は、風に風が継いでいるこの卦に象どって、命令を何度も反復し、民に徹底させてから、事を実行に移す。
投げやりで倣慢な命令に人々は反発心を持つ。リーダーは命令を下す時、よく理解される言葉で丁寧に、何度も繰り返し話して、人々に行き渡らせなくてはいけない。
為政者の徳を風に、民を草に譬える発想は、『論語』顔淵篇にも見える。

君子之德風。小人之德草。草上之風、必偃。

くんとくかぜなり。しょうじんとくくさなり。くさこれかぜくわうれば、かならす。
上に立つ者の持前もちまえは風のごとく、下に在る者の持前は草のごとくでありまして、草は風があたればその方向にねるものであります。」(穂積重遠しげとお『新訳論語』

初六。進退。利武人之貞。 象曰。進退。志疑也。利武人之貞。志治也。

初六は、進み退く。武人の貞に利あり。
象に曰く、進み退くは、志し疑うなり。武人の貞に利あるは、志し治まるなり。

巽為風は『柔順に従う』を説いた卦である。従えないのは論外だが、逆に従い過ぎるのも良くない。バランスよく、正しさをもって従うべき者に従うのが良いのである。
巽にはへりくだる意味がある。初六は巽の主たる爻であるが、陰で、へりくだる卦の最下位に居るということは、過度に自己を卑下する性質である。故にその行動に自信がなく、進んだり退いたり、決断がつかない。
これは巽の主爻であっても、六四のように定位にいない。
また、巽の下にある巽で、卑下しすぎてかえって心中に狐疑を生じ風の行きつ戻りつするように、安んじて止まりかねる意味を見たものである。そのことを『進退す』と表現している。
もし武人のように果断な態度を持ち続ける(=貞)ことができれば、ふらふらしていた意志も一定して、優柔不断の欠点を補うことができよう。乾をもって武人とするで、武人が節を持して曲げないように貞正であるのがよろしいと教えたのである。
占ってこの爻を得れば、進退に惑うことがあろう。確固たる信念で進むがよい。

九二。巽在牀下。用史巫紛若。吉无咎。 象曰。紛若之吉。得中也。

九二は、したがって牀下しょうかに在り。史巫しふを用うること粉若ふんじゃくたれば、吉にして咎なし。
象に曰く、粉若たるの吉なるは、中を得ればなり。

『牀』は寝台。『史』はト筮、のりとを司どる官、『巫』は神おろしやお祓いをする巫女。『粉若』は多いさま。巽をもって縄とするが、その縄の乱れて入り組んだのを『粉』と言うのである。
九二は陽爻が陰位におる。ということはやはり自己を卑下する態度を示す。二という位も卦の下のほうである。謙遜の卦ではあるが、神の前にへりくだって寝台の下に平伏しているのは、やや行き過ぎであろう。
寝台は身を安んずる場所である。その下にあるのでは、却って不安である。畏怖あるいは阿諛あゆと見られる惧れがある。
本当に巽順なのか、それとも阿諛しているのか紛らわしいので、史巫しふを用いて神明の教示を乞うように、慎重で丁寧な手段を尽くして吉を得られ、咎なきに至ると言うのである。
しかしこの卦全体へりくだるべき時を示す以上、九二の態度は大きな誤りではない。寝台の下にへりくだるうえに、かんぬしみこを数多く用いて、神に対する誠意をことばで披瀝するならば、吉であり咎はない。
史巫を多く用いること、卑屈に過ぎるように見えようが、九二は剛で、内卦の「中」を得ているので、決して過度の卑屈に陥ることはない。
そのように紛らわしいところがあっても吉を得られることが出来るのはこの爻が中を得ているように、決して阿諛しているのではなく、中心より巽がっているからだとしている。占ってこの爻を得た人、ひたすら謙遜であり、上の人への誠意を言葉でねんごろに表現するならば、吉であり、咎はない。

九三。頻巽。吝。 象曰。頻巽之吝。志窮也。

九三は、しきりにしたがう。吝なり。
象に曰く、頻に巽うの吝なりは、志し窮まるなり。

内卦巽の極にいて、風の悪い面が出るところである。また、巽は順従を尊ぶのに、陽位の陽爻であるために巽順なること専らにはいられない。
さらに言えば、内卦巽の終わるところで、外卦に再び巽を見るので、『頻に巽う』と見る。頻りに巽うというのは、一つを守って巽がうことができず、あちらに巽がったり、こちらに巽がったり、あるいは巽がったり去ったりすることである。
九三は、剛爻剛位で剛に過ぎる。二の中位を過ぎ、下卦の最上位にある。本当に巽ることのできる者ではない。それなのに頻に巽るまねをしては、そのつど馬脚を露わす。羞恥すべきことである(=吝)。
柄にないことをしようとすれば必ず行き詰まるものである。占ってこの爻を得れば、恥をかくことがあろう。
復卦䷗の六三にも『頻りに復る』とあったのが、このようでは巽の道に吝することは言うまでもない。

六四。悔亡。田獲三品。 象曰。田獲三品。有功也。

六四は、悔亡ぶ。かりして三品さんぴんを獲たり。
象に曰く、田して三品を獲るは、功あるなり。

 

『田』は狩猟。三品、品は等級の意味、天子諸侯が狩りをしたときの獲物は、矢の中たり所で上殺、中殺、下殺の三段階に分ける。心臓を射抜いたのが最上で、乾してお供えの肉にする。股に中たったのがその次で、賓客に用いる。陽に中たったのは不味くなるので、自分の食膳に用いる。
この六四にも、また次の九五にも『悔い亡ぶ』とある。それは、いかなる『悔い』かと言えば、命令がなかなか、あまねく行きわたらない。また総てに喜んで迎えられるわけではないので、繰り返し繰り返し、徹底しなくてはならない憂いというものが、巽の卦における悔いなのである。元来、巽には、命ずることと巽がうこと。その両面を見るのである。それを内外卦に分けてみると、内卦の巽は巽うことを主眼とし、外卦の巽は命じて巽がわせることを主眼とすると見ることができる。

六四は尊位の九五に側近して下に命を施し、直接、庶政に当たる位におる。陰柔で力弱く、下に応援もない(初も陰で応じない)。力弱い身で上には剛を承け、下には剛に乗っている。当然悔いのあることが予想される。けれども陰爻陰位で「正」であり、上卦のなかでは最下位にへりくだっている。
そして巽の主であり風の善徳を備えているので、狩りをして失敗することなく狙う獲物を沢山取るように、その命令があまねく及ぼされ、悔いをなくすに止まらず、大いに実功を効することが出来ると言うのである。故に悔いは消えてしまう。
田して三品を獲とは、昔の人が狩猟を占ったときの判断の言葉であろう。占ってこの爻を得れば、悔いることはない。狩りをすれば沢山の獲物があろう。ということは、何か事をなせばよき結果が得られよう。

九五。貞吉悔亡。无不利。无初有終。先庚三日。後庚三日。吉。 象曰。九五之吉。位正中也。

九五は、貞しければ吉にして悔亡ぶ。利あらざるなし。初めなくして終わりあり。こうに先立つこと三日、庚におくるること三日。吉なり。
象に曰く、九五の吉なるは、位正中くらいせいちゅうなればなり。

九五は剛健の性格(陽爻)でもって巽の卦にある。巽は柔順の意味であるから、剛健なものは不適当である。後悔せねばならぬかも知れない。けれども九五は「中正」(外卦の中、陽爻陽位)である。貞しい。その貞しさによって吉を得、悔いも消滅するし、何事にも利益がある。初めなく終りありとは、最初は悔いあることが懸念されるが、終りには悔いが消えることを指す。
庚は十干のかのえの日、更と同音で、変更の意味がある。庚の前三日といえば丁である。丁には丁寧の意味がある。物事を変更する前には丁寧に民に告諭しておくことが必要である。庚の後三日といえば癸の日である。癸は揆と通ずる。揆ははかる。物事を変更したあと、当否をよく計らねばいけない。つまり先庚三日、後庚三日は、物事を変更しようとして占った場合の戒めであり、そのようにすれば吉だというのである。
占ってこの爻を得た人、正しければ吉、悔いはなくなる。何の不利もない。初めは心配だが終りはよい。物事を変更する場合、その前後に慎重ならば吉。

上九。巽在牀下。喪其資斧。貞凶。 象曰。巽在牀下。上窮也。喪其資斧。正乎凶也。

上九は、したがって牀下しょうかに在り。其の資斧しふを喪う。貞に凶。
象に曰く、巽って牀下にあり、上に窮まるなり。其の資斧を喪う、凶なるに正しきなり。

『巽在牀下』は九二にも見えた。寝台の下にへりくだる。『資斧』は鋭利な斧。『貞凶』ふつう、正しけれど凶の意味に用いるが、ここでは象伝がわざわざ『正乎凶』と解釈しているように、巽がうということが、いくら正しい事だと言っても、そのようにただ巽がう事のみに固執するのはまさしく凶、必ず凶の意味。
上九は、巽の卦の最上位にある。謙遜の極、寝台の下に平伏している。謙遜の度を過ぎて、もともと上九の持っていた陽剛の徳(上九は陽爻)を喪失してしまう。それはもう巽順ではなく卑順であり、阿諛である。その諂いのために、かえって財物と権力を喪う結果となる。そのことを『資斧を喪う』と象徴する。
寝台の下に伏すように身を低くして従うのは行き過ぎであり、媚び諂いになる。そのように諂い過ぎては、自分の資質と物事を判断する能力をなくし、自分というものを失ってしまう。
陽剛は果断なること、鋭利な斧に似ているから。高い位にありながら過度に卑下して、決断の力を失ったのでは、まさしく凶である。

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