26.山天大畜(さんてんたいちく)【易経六十四卦】

易経
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山天大畜(大きな停止・大きな蓄積/社会貢献)

cultivation:養成/building up power:力の構築
全て事を図るによし。
貯え養いてこそ広大に至らん。

有无妄然後可畜。故受之以大畜。
无妄ありて然る後にたくわうべし。故にこれを受くるに大畜を以てす。

无妄まことであってこそ物が蓄えられるが故に、无妄卦に大卦が続く。
妄念妄想がなく、至誠の徳があって、その後に蓄えることができる。
畜はとどめる、たくわえる、やしなう、という三つの意味を兼ねる。
大いに止める、大いに蓄える、大いに養う。
また、大なる者が止める、大なる者が蓄える、大なる者が養うという意味でもある。
大畜は、小畜と対比され、大が小をとどめやしなう、つまり偉大な王者が人材を擁すること。また大いにとどめ、やしなうこと、実力をたくわえることを意味する。
大豊作の穀物が倉庫に山と積まれ貯えられているイメージ。

身辺にエネルギーが充満している時でじっとしておれない。何か新しい事をはじめたり、外に出て活躍したくなくなったりする時である。
運気は上々で、何事も進んでよく、積極的に出て実を結ぶ時といえる。
運勢が強いと自ずとその人に勇気と活気を与え、みなぎるようなパワーがそれとなく滲み出て、相手をひるませたり、強く立ち向かって行けたりすることができる物で、こんな時こそ大いに永年に蓄積された知識や研鑚された経験を活かして行動すべきで、何か計画があればぐずぐずしたり躊躇したりせず堂々と邁進すべきである。
また人間を教育したり、養成したりすることは特によく、そういった種類の仕事を始めることはこの卦にぴったり合った運気といえよう。
[嶋謙州]

この卦は風天小畜と比較される卦であります。小畜に比べて、蓄え方が強くかつ積極的であるという卦であります。復して新たに活動するときには、できるだけ大きな内容と、蓄積がなければなりません。内容、蓄積に欠けますと活動を新たにすることができませんから、大いに蓄えなければならないという卦であります。
[安岡正篤]

大畜。利貞。不家食吉。利渉大川。

大畜は、貞しきに利あり。家食かしょくせずして、吉なり。大川を渉るに利あり。

山天大畜は、天雷无妄を反対にするとこの卦になる。乾下・艮上。小男艮が乾の老父を畜めている象。山の下に太陽が這い入っている象、これが大畜の名の出所である。畜の字は、止めると畜聚あつめると二つの意味を含む。
小畜』『大畜』の大小という対照で見ると、畜とは、止める、たくわえる、養うといった意味である。これを熟語にすると、畜止、貯蓄、養畜などである。
小畜は天の下に雲があって『密雲雨ふらず』、今にも雨を降らせそうで降らないで、しばし止めている象だったが、大畜のほうはしばしどころではなく、大いに止めてしまう。これを人の上に推して解すれば、巽は陰で長女、艮は陽で小男。巽は柔順な娘だが、小男は屈強な若者である。これが物を止める場合には、その力には大差あって結果も違ってくる。艮の卦徳は『止』で、もとから止める性質があるので、強力である。
また、小畜は同じ畜でも止めるという一面を主とし、大畜は養うという面を主に解す。畜は畜でも、小畜は防止。大畜は養育である。養育とは、若く充分な力を備えない者は、すぐに社会へ送り出しても荒波を乗り越えて行くことは難しい。その力、徳、知識など必要なものを与え、蓄えさせて行かなくてはならない。実らないものは実らせてから送り出す。その人の持っている正しい性質を導き育てなくてはならない(大畜は、貞しきに利あり)
卦変でいえば、蓄は需の九五が上位の陰爻と入れ換わった形である。つまり大蓄六五はもと需の最上位にあったのに、下位の賢者(五の陽爻)にへりくだり、賢者を自分の上に持ち挙げたのである。これは貞しい人でなければできないこと、それで貞しきに利ありという。
大畜はその知識、徳量を畜えて時を待っているのだが、立派に大畜でき内容が充実したならば、内に止まっていないで世に出て働くのが良い。家食というのは官にも仕えず、家にいて徒食することで、大畜の目的は畜わえることにあるわけではなく、育てたものを天下のために役立てるのが主眼である。したがって大畜は目的ではなく、ひとつの手段である。
六五は内卦の九二に「応」じている。内卦は天であるか六五の行為は天道に応じていることになる。どんな艱難でも乗り切れる。
蓄えが完成したなら、それは学問知識であっても、金銭財物であっても出でてもって天下のために役立てなくてはならない。家食などしてはならず、大川を渉る大事を行って良く功を奏すべきなのである。

彖曰。大畜。剛健篤實。輝光日新。其徳剛上而尚賢。能止健。大正也。不家食吉。養賢也。利渉大川。應矣天也

彖に曰く、大畜は剛健篤実ごうけんとくじつ輝光きこう日にその新たなり。その徳剛のぼりてけんたっとぶ。能く健を止む。大正なり。家食せずして吉なるは、賢を養えばなり。大川を渉るに利あるは、天に応ずればなり。

大蓄は下卦が乾、剛健の徳がある。上卦艮は止まる、止まるべきところに止まるから、篤実の徳がある。
『剛健篤実』とは障害があっても粘り強く、日々前進し、何事にもも手厚く取り組み、中味と実質を蓄えること。
『輝光』とは力強い光。精進を重ね、日々新たに成長するならば、圧力や障害があっても、必ずその光(徳)は外に輝き出す。
剛健篤実の美徳ある故に、その徳の輝きは日に日に新たとなる。それで大畜と名づける。卦の徳としては、もと五にいた陽剛が上位に昇って上九となったもので、これは六五の君が賢者を尊んでいることを示す。外卦は止(とど)む。
下卦が健で、過度な勢いで昇進して来るのを、しかと止めることができる。これも賢を尊ぶのも、皆な大いに正しい道である。

象曰。天在山中大畜。君子以多識前言往行。以畜其徳。

象に曰く、天やまの中に在るは大畜なり。君子以て多く前言往行ぜんげんおうこうを識りて、以てその徳を畜う。

が山の中に包蔵される。実際にないことであるが印象として受けとるがよい。大きなもの中に蓄える感じである。君子はこの卦に法とって自己の蘊蓄を大きくしようとする。そのために昔の聖賢の言行を多く記憶するのである。
『前言往行』とは古人、昔の人たちのいった言葉や行いのこと。君子はそれらを読み、学んで思索し、徳を養うものである。大畜は社会に大きく貢献できる徳を蓄えることを教える卦。先人の蓄えてきたものを読み、何を語り、どう行動したかを学んで現在生きている自分にすり合わせ、再体験し、徳を積み蓄えるのである。これは『知の工夫』の大切さを示している。

初九。有厲。利已。 象曰。有厲利已。不犯災也。

初九は、あやうきことあり。むに利あり。
象に曰く、厲きことあり已むに利あり、わあざわいを犯さざるなり。

初九は、進んでなすこと有らんとする爻である。卦の始めにあって経験が浅く、下位にあって位が低く、例えれば乾の初爻「潜龍用うる勿れ」に当たる。
まだ、今すぐに進んでも上手く行かないばかりでなく、かえって我が身を傷つけて、せっかくの資質を失う恐れがある。
内卦乾は健、だから三陽爻とも進もうとして、外卦艮(止)に畜められる。故に内卦三爻は『畜められる』の意味が、外卦三爻は『畜める』の意味がある。
初九は、それに対応する六四に止められる。故に爻辞は、占う人に対して警告する、「往けば危ういことがあるぞ(=有厲)。やめたほうがよい(=利已)」。

九二。輿説輹。 象曰。輿説輹。中无尤也。

九二は、輿くるまとこしばりを説く。
象に曰く、輿、輹を説く、ちゅうにしてとがめなきなり。

九二は初九より一段上だが、まだ天の時に応じず、大川を渉ることができない。
『輹』は車台と車軸を連結している重要なパーツ(縛りつける革ひも)。
『説』は脱と音義とも同じ。『輿、輹を説く』の辞は、風天小畜九三にもあったが、小畜は『輻』大畜は『輹』である。これが外れてしまっては進めない。
九二はそれと対応する六五に畜められる。しかし二は内卦の「中」である。中庸を守って自分から止まって進まない。あたかも軸受けのとれた車が進まないように。わるいように見えるが、中庸をふんで自分で止まったのだから、とがめはない(象伝)。占ってこの爻を得れば、ふみとどまって進まぬがよい。

九三。良馬逐。利艱貞。日閑輿衞。利有攸往。 象曰。利有攸往。上合志也。

九三は、良馬逐えり。艱貞かんていに利あり。日に輿衞よえいならえば、往くところあるに利あり。
象に曰く、往くところあるに利あるは、上志しを合するなり。

曰はここにの意。興衛、は十段階の身分のうち、低いものの一つ、車をあつかう。衛は車について歩く護衛兵。閑は習と同じ、訓練。
九三は陽爻で健の極点におる。対応する上九も陽爻で畜めるの極点におる。畜めること極まって通ずる時である。三も上も陽爻だから畜めようとはしない。ともに進む。良い馬(三)が逃げる敵(上)を追って疾走する象がある。しかし三は剛に過ぎる。気負って深入りする惧れがある。そこで艱貞~困難を自覚して正道を固く守るようにという警告が発せられる。
具体的には、敵を追う一方、車ひきや護衛兵を訓練して、自分の車を固く守ることである。このようにすれば前進しても敗れることはない。占ってこの爻が出たら、軽々しく突進してはならない。事を困難と見做して自己を守るべきである。そうすれば進んでもよい。象伝の意味は、三の進むのに対し、上が同意している、つまり止める気がない。そこで、往くところあるに利ありというのである、と。

六四。童牛之牿。元吉。 象曰。六四元吉。有喜也。

六四は、童牛どうぎゅうさえ。元吉なり。
象に曰く、六四の元吉なるは、喜びあるなり。

童牛はまだ角の出ていない牛。牿は、牛の角にあてがう横木。人を突くことを警戒してである。子牛の角が出始めた頃、その辺りが痒くなるので、ちょうど赤児に歯が出始めると手を噛んだり物を噛んだりしたくなるように、角を方々へ擦りつけて研磨する。しかし幼いために柔らかい角を強く打ち当てたりして傷つく恐れがあるから、子牛がやたら角で突きかかったりしないよう、角に横木を縛り付けてこれを予防する。子牛自身を守ることにもなるし、また強暴な性質を和らげることにもつながるのである。
六四は初九を畜める側である。初は最下位でまだ力が弱い。その段階で畜める。角のない子牛のうちに横木をあてるようなもの。それは初九の陽を六四が柔らかく締め抑える様子。何の苦労もなく畜められる。
こうした喩えによって、若い者・未熟な者が人格が修養される前に社会に出て、軽挙妄動しないよう、とどめ養うことの大切さを説いている。
倫理についていえば、悪のまだ形をなさぬうちに止めれば、止め易い。『礼記』学記に「いまだ発せざるに禁ずるを豫という」とある。占ってこのを得た人、悪を未然に防ぐようにせよ。そうすれば元吉~大善にして吉。

六五。豶豕之牙。吉。 象曰。六五之吉。有慶也。

六五は、豶豕ふんしきば。吉なり。
象に曰く、六五の吉なるは、慶びあるなり。

豶豕は去勢した猪。六五は九二を畜める。九二になると陽の力が強くなっていて、初九ほど簡単には止められない。初九が角のない子牛なら九二は牙のある豕(いのこ)である。しかし六五は柔順の性(陰爻)、中庸をふみ(五は外卦の中)、尊位におる。無理に豕(九二)の牙をつかんで押えようとはせず、機会を見てこの豕を去勢してしまう。すると豕の性質がおとなしくなり、牙はあっても人を突くことはなくなる。(去勢とは、生殖器の除去ではなく情的に温順になったと見るべきであろう)
政治の道もそれで、民の悪は、いくら厳刑でおどかしてもやむことはないが、かれらの生活を豊かにしてやれば、盗めといっても盗まなくなる。
この爻は吉ではあるが、元吉とはいわない。いわば悪が現われてから、その根源を止めようというので、未然に止める場合ほど大善でないからである。

上九。何天之衢。亨。 象曰。何天之衢。道大行也。

上九は、天のうのみち。亨る。
象に曰く、天の何うの衢とは、道大いに行わるるなり。

衢は四方に通ずる路、十字路。ちまたとも読むが、四通八達しつうはったつ、どこへでも通ずる要所となっている道である。
上九は畜めるの窮極点にある。もはや下卦の乾を留めることもせず、自在に道は通ずる(象伝)。いわば空中に浮かんで蒼天を背に負う四通八達の大通り。広大無辺な天の十字路をその背に負う。つまり、蓄積したものの完成を意味し、縦横自在に大きな働きを為すことを表している。能力を縦横自在に発揮できるのは、大きな蓄積があればこそ。天才は努力によって引き出されるのである。
この爻が出たら願うこと通る。

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