37.風火家人(ふうかかじん)【易経六十四卦】

易経
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風火家人(家庭の道徳/一家)

home:家庭/the family
まず家を治めるべし。
未だ、力量足らざるものとす。他に手を出すべからず。

傷於外者必反其家。故受之以家人。
外にやぶるる者は必ずその家に反る。故にこれを受くるに家人を以てす。
外において傷つき敗れた者は、必ずその本拠である自分の家に帰って来るものである。

家人とは、文字どおり家庭の人、家族である。この卦は、家を治める道を説いている。
家庭が常に和やかであるためには、主婦の温かい心づかいが必要である。この卦は、夫を慰め、子を慈しむ良妻賢母を表わしている。
卦の形は、上陽を除いてすべて正位にあり、しかも、上下が正応している。家庭内での持場を守り、親子兄弟夫婦が水入らずに親しみあっているのである。
この卦は上の長女に中女が従っており、こうあってこそ、万事まるく治まるのである。
家庭の不和は、嫁と姑・小姑など。往々にして女同士のいさかいから起こる。
家庭を治めるには、女が正しい道を守ることだ。“女が内を治め、男が外ではたらく、天地がそうであるように、男女それぞれの持場を正しく守ることは不変の大義である。家が治まれば天下も安定する。まず内部を調えよ、ということが基本である。
「内から外へ」という方向が、この卦を読み解く上での重要な視点である。


すべてに現状維持で、内部を固め、もう一度自分の身の回りを眺めて落ち度がないか、気の緩みがないか反省しなければならないとき。
この卦のときはとかく平和な中にあきらめや惰性が見えたり、物事をいい加減に考えてなおざりにしたりする。今はよいが将来にとんでもないつまづきが起きる前兆を知らず知らずのうちに作るようなことになる。
運勢は悪くないのだが、そうかといって決して積極的にでてはいけない。
内も守らず強く進取すれば、所詮失敗することは火を見るよりも明らか。
この際、充分心して自分の本分を確認し、わきまえて、先ず守りの態勢に入ることが大切で、そうすることによって更に次の段階への足掛かりを強めることになる。
[嶋謙州]

昼働き、夜あかりをつけて勉強をすると、その熱意に初めて人が敬服します。これが家人の卦であります。そこで家人の卦の大象によりますと、君子以言有物、而行有恒―君子以って言に物有り、行に恒有り、とありまして、晉から明夷、すなわち昼夜を通じて正しい生活をしたので、家人が敬服するのであります。
大象の―言に物有り、というこの物の解釈に随分昔から学者が苦しみました。
ところが音を調べて初めて分かったのですが、同音の場合にはいろいろの文字を仮借といって仮に使っております。
そこで「物」をさかのぼって調べてみますと、音も意味も「法」と同じであります。
つまり言に物有りは、言に法有り、ということだと考古学的研究、説文学的研究によってはっきり確認することが出来ました。
晉から明夷と、このように修行、修養してまいりますと、でたらめなことはいえない、なぜかというとそこにはちゃんと法がある。
そして行動も、行き当たりばったりの欲望や感覚のままに動くのではなく、そこに一つの恒、すなわち不変のものをもつ、これが家庭生活の原則であるということであります。
従って家人の卦を玩味しますと、私たちの家庭生活と、それから応用する集団生活、つまりひとつの会社、ひとつの役所の中の共同生活も皆家人の卦でありまして、たいへんよい卦であります。[安岡正篤]

家人。利女貞。

家人は、じょただしきに利あり。

家人とは一家の人の意味。家庭内の人倫道徳を説く卦である。この卦、外卦では九五、内卦では六二がそれぞれ「正」を得ている。つまり家の外に働く男と、家の内にある女と、各々正しい道をふんでいる。そこでこの卦を家人と名付ける。
家というのは、そもそも、古代人に当ててみれば、最も大切な火種を絶やさないように守っているところである。それを更に推し進めて考えてみると、外へ出て働いたり戦ったりしている男たちを、火が温かいのと同様、温かな心で迎え、慰めと憩いの巣でなくてはならない。また、その火の明るいように、そこに住む者の気持ちを明朗にさせる歓びの場でなくてはならない。
それには昔の女たちが火種を守ることに専念し、心を外に向けなかったように、女が家を守ることに忠実であるかどうかが、第一番の要件となる。
特に女の貞しきに利ありというのは、家は婦人が重要なので、女が正しくあることを先ず要請するのである。女が正しければ家庭内が正しくなる。家の内が正しければ、ひいて家の外も正しくなるであろう。それとともに女の貞をもって家道をととのえることが、いかに至難であるかをも、反語として受け取らなくてはならない。

彖曰。家人。女正位乎内。男正位乎外。男女正。天地之大義也。家人有嚴君焉。父母之謂也。父父子子兄兄弟弟夫夫婦婦。而家道正。正家而天下定矣。

彖に曰く、家人は、女くらいを内に正し、男くらいを外に正す。男女正しきは、天地の大義なり。家人 に厳君ありとは、父母のいなり、ちち父たり、子たり、あに兄たり、おとうと弟たり、おっと夫たり、つま婦たり、しかして家道かどう正し。家を正しくして天下定まる。

すべての物事は、内から外に及ぶ。家庭を正しく治めたならば、それが社会全体に波及していく。家庭生活のあり方が天下国家に反映するのである。
家を安らかにするには、自分の心を安らかにして身を修めることが第一。家を安らかにして、一家が和やかに睦み合い、譲り合えば、その気風や美風が天下に満ち満ちていく。
これは四書五経の『大学』八条目にも反映されている考え方である。
[易経一日一言/竹村亞希子]

家人の卦は、六二の女が内に正位を得、九五の男が外に正位を得ている。男女がそれぞれ家の内外に正しい場所を得るということは、まさに天地陰陽の大義に合致している(そのうち家の内を正すのが第一歩なので女貞に利ありという)。
一家の人いかにも小さい団体ではあるが、その中に尊厳なる君主というものはある(焉は語調を整える助字)、それは父(九五)母(六二)のことを指す。尊厳な君主がなければ、孝敬の徳も家の規律も成り立たない。父(=上爻)は父らしく、子(=初爻)は子らしく、兄(=五)は兄らしく、弟(=三)は弟らしく、夫(=五、三)は夫らしく、妻(=四、二)は妻らしくあってこそ、家の道は正しくなる。家を正しくすれば天下もきちんと治まるであろう。
すべての存在には区別役割がある。家庭が円満であるためには、親子、兄弟、夫婦が各々の持ち場を守ることである。父は父らしく、子は子らしく、兄は兄らしく、弟は弟らしく、夫は夫らしく、妻は妻らしくあるのがよい。家族一人ひとりがその役割を果たすことで、家が定まり調和する。

象曰。風自火出家人。君子以言有物。而行有恒。

象に曰く、風火よりずるは家人なり。君子以て言物ことものあって、おこなつねあり。

『物』は事実。恆は法則。この卦は内卦が火、外卦が風。たとえば炉を焚くと熱風が吹き上がる。風は火から出る。この卦はそれを示す。君子は、風が火の内から外へ出る形を見て、すべての物事は内から外に及ぶことを知る。そこで先ずわが身を修めることでもって、家を始めようとする。身を修めるにはどうするか。一言一行をおろそかにしないこと。言うことには必ず事実があり、行ないには法則性があるようにと努める。
家庭において、事実にもとづく言葉を使い、行いには一貫性がなければならない。
家族は情に溺れやすい。家庭は気を許せる場所だが、それだけに他人にはいわない暴言を吐くこともある。しかし、家庭は社会生活の根本であると自省し、言葉と行いを慎むことだ。自分で自分を欺くような真似はしてはならない。親しき仲にも礼儀あり。

初九。閑有家。悔亡。 象曰。閑有家。志未變也。

初九は、有家ゆうかふせぐ。悔亡ぶ。
象に曰く、有家に閑ぐは、志しいまだ変ぜざるなり。

『閑』は防。門の中に木を書いて、門を閉ざして入るのを防ぐから内は閑寂である。単に防ぐという意味ではない。
初九は家人の卦の始めにおる。家人の初めにあって、家をたもつ最初である。
初九は陽剛毅果断だから、よく其の家の乱れを未然に防止しうる~有家に閑ぐ。家を治めることの初めには正しい規律を定め、過ちを事前に防ぐことが肝心。
嫁に夫婦の愛情などに馴れ驕らないうちに、出しゃばらずに家事に専念することが女の道であるということを教え習わせる。進んで手柄を立てるより、過ちを防いで家を保つことを心掛けさせる。そうでなければ、女が慎ましやかに家を有っているということは難しいから、初めに良く仕込むことにより後に悔いを生ぜずに済む。
誰しも嫁いで間もない頃は、過ちを防ごうと注意深く努める。その心根を、いつまでも変えないようにしなくてはならないのである。
大家族同居しておれば、後悔するような事が起こり勝ちだが、初九の努力によって、その悔いも未然に消滅する~悔い亡ぶ。家族の者がまだ初心を忘れていないうちに、怠りを予防することである。

六二。无攸遂。在中饋。貞吉。 象曰。六二之吉。順以巽也。

六二は、ぐるところなし。中饋ちゅうきに在るときは、貞しくて吉。
象に曰く、六二の吉なるは、じゅんにして以てそんなればなり。

『遂』は成就する。『饋』は食物を贈る。厨房の仕事、飲食をととのえ神に供し人を養うこと。『以』は而と同じ。『巽』は従う。

妻たる者、外へ出て事を成し遂げるようなことはせず、家の中で厨房の仕事をしているものである。そのように正しい妻の役割に徹しているのが吉である。
六二は陰柔のが柔位におる。柔順なばかりで、主体となって物事をなしとげることはできない。ただしこの爻は柔順なうえに「中正」(内卦の中、陰爻陰位)である。これは婦人にとっては望ましい徳である。女は位を内に正すとはこのに当たる。そこで中饋に在るときは貞吉という。中饋とは家の中にあって神に供える食物を作ること。中は、むろん内卦の「中」に関係する。主婦としてのしごとを果たす限りに於て、貞しくて吉。占ってこの爻が出たら、事は成就しない。女にあっては、女の正道を得て吉。

九三。家人嗃嗃。悔厲吉。婦子嘻嘻。終吝。 象曰。家人嗃嗃。未失也。婦子嘻嘻。失家節也。

九三は、家人嗃嗃かくかくたり。はげしきをいあれど吉。婦子嘻嘻ききたり。終に吝。
象に曰く、家人嗃嗃たるは、いまだ失せざるなり。婦子嘻嘻たるは、家のせつを失するなり。

『嗃嗃』熱さに苦しむさま。火の勢い激しい『熇々』を言葉の上に推したもので、口やかましく厳格なことの形容。『嘻嘻』は喜び笑う声。和悦笑楽の形容。『厲』はふつう危の意味に用いるが、ここでは厳厲の意味。
九三は内卦の一番上、家の内を治める立場。剛爻が剛位におる。剛に過ぎる。
内卦の極にあって、火の激しい面の表れる処だが、卦が家人だけに兵を用ることはない。一家を司る厳君について言えば、厳格さを通り越して少し酷烈のきらいを生じる。また家内の側は、華やかさ・騒がしさが少し度を超えて乱れが生ずるというのが、家人における極火のかたちである。
そこで家人は、あまりに厳しく取り締られて、ふうふう(=嗃嗃)と悲鳴を挙げる。
厲し過ぎて後悔せねばならぬことも多少あるけれども(=悔厲)、結果は吉である。家を治めるには厳し過ぎるくらいが丁度よい。家人が悲鳴をあげても、家を治める道を失したとはいえない。
逆に九三の取り締りがゆるくて、妻子がいつもきゃっきゃっ(=嘻嘻)と笑っているような、節度のないことでは、ついには恥じること(=吝)があろう。占う人それぞれ性格がちがうから、作者は両面のイメージを示して戒めているのである。
この九三は、家の治め方が厳格すぎて、家族から不満が出たりして危うさがあるが、逆に寛容がすぎ、家の女や子供らが一日中、嬉々とし楽しんでいるようでは最終的には恥ずべきことになる。なので、家の治め方は寛容すぎるよりは、やや厳しすぎるくらいのほうが良い。

六四。富家。大吉。 象曰。富家大吉。順在位也。

六四は、家を富ます。大吉だいきつなり。
象に曰く、家を富ます大吉なるは、順にしてくらいに在ればなり。

六四は陰爻陰位で、正を得ている。また巽の一部、巽はおとなしく従う。
六二の妻は、家の台所仕事を専らにする柔順な妻で家がよく斉い吉だったが、家を有つ閨室の如きに対し、六四の妻もまた九五と比し夫に対し柔順であることには変わらないが、巽がってその働きを助ける家政の道に通じ自らも家を富ませる力を持っている。正道をふみながら仕事におとなしく精出しているから、当然家を富ますことができる。
占ってこのを得れば、家は富んで大吉。象伝の意味、順は巽の徳、柔順で「正」の位を得ているから富家大吉。

九五。王假有家。勿恤吉。 象曰。王假有家。交相愛也。

九五は、王有家ゆうかいたる。うるうる勿くして吉なり。
象に曰く、王有家に仮る、交々こもごも相い愛するなり。

『有家』はその家。『仮』は格と音義とも同じ、至る。『恤』は憂。
九五は剛健(陽爻)で「中正」、下に向かっては、六二という柔順(陰爻)で「中正」な相手が「応」じている。王者がよく其の家を治めて道に至り、夫婦相和し相応ずる象。家を斉えるのは治国平天下の本であるからこのようであれば何も恤うべきことがなく吉。
五の王者が二の女性の家に至るときは、互いに愛し合って、何も心配しなくても結果は吉。おそらく古代の王者が后妃をめとるときに、占って吉を得た、その判断であろう。占ってこの爻を得た人、徳があれば、何事につけても吉。象伝、交相愛也、五と二とが「正」で「応」ずる、楽しんでせざる交わりをいう。

上九。有孚威如。終吉。 象曰。威如之吉。反身之謂也。

上九は、まことあり威如いじょたり。終に吉なり。
象に曰く、威如たるの吉なりは、身にかえるのいなり。

『孚』は信、『威如』は威厳あるさま。『身』は自身。『反』は反省。
上九は剛が家人の卦の最上位にある。家長である。また家人卦の終りだから、家を正す久遠の道をここで示そうとする。家を治めるには誠がなければいけない。家長が誠を以て臨めば家人皆感化されて善くなる。これは家の後見役・御隠居さんで、非常にやかましい人である。しかし、その厳格さも、ただ威張るだけのやかましさではなく、家を本当に良くしようする誠意から出発しているのである。
家を治める道は妻子への愛情のなかにあるが、慈しみが過ぎれば威厳が欠ける。家にあって憂うべきは、とかく礼儀が不足して放漫になること。故に孚に加えて、威厳というものが、家長に望まれるのである。
占ってこの爻を得た人、誠あり威厳あれば、最後には吉。象伝の意味、威如たりといっても、親の威光を振り廻すのではない、わが身にふりかえって自己を正しく律することにより、家人が畏敬して服従する意味である。

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