39.水山蹇(すいざんけん)【易経六十四卦】

易経
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水山蹇(足なえ・進みにくい時/底なし沼にはまる・重なる困難に処する道)

distress:難渋/meeting an obstacle:障害に遭う
進退窮するときなり。
焦りて進めば、身の破滅、退守すべし。

乖必有難。故受之以蹇。蹇者難也。
乖けば必ず難あり。故にこれを受くるに蹇を以てす。蹇とは難なり。

互いに背きあっていれば、必ず困難なことに出遇って、苦しみ難むことになる。
蹇とは、歩行が困難なこと、行き悩んでいる。行く手に困難あって進み難い。八方塞がりで二進も三進もいかない。一難去ってまた一難、困難な状況が幾重にも重なっている。進むことも退くことも、共に困難である。まさに進退窮まった状況。


この卦は山で遭難したり、旅で道に迷ったりして難渋している状態を表しているが、日常及び社会生活に取れば、身動きの取れない二進も三進も行かぬときである。
運勢もどん底で、今はどんなにあがいても、どうなるものでもない。
助けを求めようとしてかえって深みにはまる危険性がある。
この際は損害を僅少に食い止め、じっと耐え忍ぶことが肝心。
山で遭難したとき、何とか脱出しようとして動き回り力尽きた例もあり、又出きるだけ体力を消耗させないようにして時間を稼いでいる間に助け出された例もある。
要するに現在我に利がないのだから、時期を待つより他に仕方がないのだ。
こういう時こそ己を磨く絶好の機会だ。
[嶋謙州]

一度にらみ合いをすると、仲直りするのに、なかなか時間がかかり、上手く行かないというのが蹇の卦であります。
上が水、水は坎といって悩みを表します。
家人の卦から蹇の卦となるととかくスムーズに行きません。
そこで蹇の字には、いざりという意味があり歩行困難であります。
つまりうまくいかないからそれをどうすればよいかということをこの卦は教えております。
そこで大象をみますと、君子反身修徳―君子身に反って徳を修む、とありまして、にらみ合いから始まって、ことごとにうまくいかないようなときには、腹を立てていてもどうにもならない。その解決方法は、わが身に反って徳を修めることだと教えます。
うまく足並みが揃わない、ということは、家庭ばかりでなく、会社でも役所でも同じであります。
社員、重役が、それぞれ歩調が揃わず、びっこになり、人間同志の悩みがおこるというのがこの蹇であります。これは反身修徳より他に解決方法がありません。
[安岡正篤]

蹇。利西南。不利東北。利見大人。貞吉。

蹇は、西南に利あり、東北に利あらず。大人を見るに利あり。貞しくして吉。

『蹇』は跛が原義、それから進みにくい、困難の意味になる。この卦は、下が艮、止まる。上が坎、つまり険。前に険があるのを見て止まるので、蹇~進みにくい~と名付ける。外卦の坎は陥険であり、内卦の艮は抑止である。険中に止まる象だから、ゆきなやむ意味を取ることが出来る。これが、同じく行き悩む卦でも『屯』は険中にあって進もうとする悩みに対し、『蹇』は険中に止まって動かないための難みである。あるいはまた、『屯』は進んで難みを脱しようとする難みに対し、『蹇』は止まって難みを耐え忍ぼうとする難みでもある。さらに、『屯』は気力があって時が未だ熟さない草昧の難であったのに対し、『蹇』は力足らずして自ら伸びざる跛行はこう(足をひきずって歩く)の難に当たる。
では、険難から脱するにはどのようにすべきか。
西南は坤で平地を意味し、理に適った無理のない道、方策である。東北は艮で山を意味し、険しく、危険がともなう道である。険難の時は、無理をせず、回り道と思われでも安全策を取ることが大事である。

彖曰。蹇。難也。險在前也。見險而能止。知矣哉。蹇利西南。往得中也。不利東北。其道窮也。利見大人。往有功也。當位貞吉。以正邦也。蹇之時用大矣哉。

彖に曰く、けんは、なんなり。険前けんまえに在るなり。険を見て能くとどまる、知ある哉。蹇は西南に利あり、往きてちゅうを得るなり。東北に利あらず、その道窮まるなり。大人を見るに利あり、往きて功あるなり。くらいに当って貞吉、以てくにを正しくするなり。蹇の時用大じようおおいなる哉。

『蹇』は寒くて足が凍え、前進が困難となる状況である。『蹇は難なり』蹇と難と、古くは母韻同じであったろう。同母韻(畳韻という)の字で卦名を解釈したのである。苦しみの渦中にあって平常心を失っているところ更に険しい雪山に道が遮断された状態である。このような過酷な状況下にあって、冷静さを欠いていると更なる進路の阻害に直面することになる。

難というのは険が前にあるからである。険を望み見て、自分から止まることができるというのは、なんと智慧ある態度ではないか。知は智と同じ。

この険難を見極めて止まることは、優れた知恵である。苦境に陥っても、動じない強靭な意志力が必要である。しかしながら、一旦腹を据えてしまえば、見えなかった脱出の道が見えてくるものである。

卦変でいえば、『小過』䷽の九四が六五と入れ換われば『蹇』䷦になる。四は往けば、上卦の「中」を得るし、退けば下卦止のなかにおちこんで行き詰まる。故に、西南に利あり(上卦はもと、西南の卦)、東北に利あらず(下卦は東北の卦)という。

大人を見るに利ありとは、『蹇』困難の時を救うには、大人の出現を必須の条件とする意味。大人にして始めて、進んで功績があげられる。
九五の大人が「正」を得ているのみならず、二、三、四、上すべて「正」を得ているので、貞しくして吉という。かかる正しさによってのみ邦を正し、時の難儀を救いうるのである。『蹇』の時は望ましいものではないが、場合によっては使い道がある(=時用)。その場合の効用は、また大きなものがある。

険を見て止まるは知なるかな:危険信号を察知して、まずは一旦停止する。無理に進もうとせず、なるべく易しい道、易しい方法を選び、見識ある人の意見に耳を傾けこの艱難を乗り切ることが賢明である。いたずらに進むことなく静かにわが身を振り返り、人徳を磨いて危難のときが過ぎるのを待つべきである。

 

象曰。山上有水蹇。君子以反身脩徳。

象に曰く、山上に水あるは蹇なり。君子以て身にかえりて徳をおさむ。

山の上に水がある。山は険しく、水は渡り難い。進み難いという点で、この卦を蹇と名付ける。君子はこの卦の象を見て、前途に困難のある時は、必ず一歩退いてわが身に至らぬところがないかと反省し、徳を修める。孟子が「行いて得ざる者あれば、皆反りてれを己れに求む。行有不得者、皆反求諸己」(離婁上)というのもこれである。

大いなる悩み苦しみの渦中あっては、乗り越えるのが不可能と思えることがある。心が荒み、人を責め、天を呪いたくもなる。しかし、そうした感情に身を任せていても問題は解決しない。むしろ、ますます問題が深刻化するだけである。そんな時に大切なのは、自分自身の力や成長の不足について猛省し、自分を高めるために努力することである。自分自身に厳しく接し、自分を鍛えることで、乗り越えられないと思われた困難にも立ち向かうことができるようになる。経験から学び、成長することで、今後同じような困難が訪れたとしても、それを乗り越える力を身につけることができる。

初六。往蹇來譽。 象曰。往蹇來譽。宜待也。

初六は、往くときはなやみあり来るときは誉れあり。
象に曰く、往くときは蹇みあり来るときは誉れあり、宜しく時を待つべきなり。

『往』は昇り進む意味であり、『来』は往の反対で進まないこと。己に反る。退いて止まること。『往くは利ろしからず』『来るに利ろし』というのが蹇に対応する道である。
初六は柔で力弱いうえ、上卦に「応」がない(四も陰爻)。強いて昇り進めば前方の険阻(上卦は険)に陥るだけである。故に往くときは蹇みありという。蹇は行きなやむこと。進めば険中に陥って苦しむこと必定。ゆえに険難の去るまで退き止まって、その身を傷つけないよう戒めることこそ緊要なのである。
形勢不可なるを知って、進まないで時を待つならば、最後には誉れがあろう。
といっても、止まることで譽を得るというような意味ではなく、譽を失わずに身を保つという消極的な安らかさを示したものである。

六二。王臣蹇蹇。匪躬之故。 象曰。王臣蹇蹇。終无尤也。

六二は、王臣蹇蹇おうしんけんけんたり。ことに匪ず。
象に曰く、王臣蹇蹇、ついとがなきなり。

『蹇蹇』は艱難辛苦するさま。『躬』はわが身。『故』は事。
六二は柔順(陰爻)中正(内卦の中、陰陰位)、しかも同様に中正なる九五の君(五は君位)と「応」じている。ところが九五は険の真ん中に陥っている。王の臣たる六二(二は臣位)としては、艱難辛苦してこの君を救い出そうとする。その苦労は決して自身の功名富貴のためではなく、公のためなのである。
この六二と九五だけ『往けば蹇み』とは言っていない。なぜかというと、九五は君位にあり、六二はそれに応じ、共に力を尽くし天下の蹇を解くことに努め『往きて功あり』の蹇難解散の効果を求めなくてはならない。進めば難あるからといって、初九のように手を拱いて時を待つようなことは許されない立場にあるからである。それを表現したのが『王臣蹇蹇。躬の故に匪ず』である。
国家の危機を救うため、王の臣下たちは自身の名誉や昇進、報償など顧みず、『蹇蹇』と労苦を重ねる。だが、彼らの実力が及ばず、苦境を脱する方法を持たなかった。このように、険難の時は努力しても報われないことがある。しかしながら、成果を求めず、最大限の尽力を行うことが肝要である。
吉凶の判断を下していないのは、この爻を得た者は、ただ献身的努力をすべきであって、事の成敗は問うところでないという意味からである。
象伝は、それを布衍していう、事が結局成らずとも、尤めるべきではない、と。
後世、忠臣の努力を『匪躬ひきゅう』と表現するのは、この句による。

九三。往蹇來反。 象曰。往蹇來反。内喜之也。

九三は、往くときはなやみありきたるときはかえる。
象に曰く、往くときは蹇みあり来るときは反る、うちこれを喜ぶなり。

『反』は『己の内に反る』すなわち止まって外に出ない意味。
『往くときは蹇みあり』は初六の時と同じ意味。進めば険に陥って蹇まねばならいけれど、退き止まれば安んずるところを得るばかりでなく、内卦の二陰も主爻たる陽剛のこの爻を頼りとしているので、内に止まることを喜ぶのである。
九三は内卦の最上位にあり、内卦の唯一の剛爻として、ほかの二陰爻に喜ばれ、寄りかかられている。しかるに九三としては、上に上六という「応」があるので、そちらへ昇り進もうとする。ところが上という位置は無官の地位、しかも上六は柔爻無力、頼りにならない。故に九三は進めば却って苦労する思い直してもとの三の位へ降って来れば(=来)、下の二陰に喜び迎えられ、本来居るべき場所に帰ったという安らぎを得る(=反)であろう。占ってこの爻を得れば、昇進しようとしても受け容れられない。もとの場所におるのが安泰である。

六四。往蹇來連。 象曰。往蹇來連。當位實也。

六四は、往くときはなやみあり来るときはつらなる。
象に曰く、往くときは蹇みあり来るときは連なる、くらいに当ってじつなればなり。

六四はすでに上卦☵険のなかに入っている。進もうにも困難である。故に『往蹇』という。この爻は位の「正」を得ている(陰爻陰位)。世の蹇(難儀)を救おうという正義感に燃える者。ところで下の九三もまた「正」(陽爻陽位)。同志である。そこで六四は下にいる九三と手をつなぐことで、世の艱難を救済しようとする。これが『来連』。来は下の方向を示す。占ってこの爻が出たら、独力で進もうとしても無理。同志の現われるのを待って、進むがよい。

九五。大蹇朋來。 象曰。大蹇朋來。以中節也。

九五は、大蹇朋来だいけんともきたる。
象に曰く、大蹇朋来る、ちゅうせつを以てなり。

『大蹇』は非常な艱難。五は君位であるが、それが☵険のまんなかに当たっている。蹇の主卦の主爻であり君位にあるので、その難みは単に一身に止まらず天下の上にある。故に大蹇という。しかし九五は陽爻、剛健な性格で、「中正」の徳を有する。『往くときは……』と進むを避ける戒めの辞がないのは、六二のところで述べたような理由からである。
艱難のなかにあって、中正なる節を守っているので、必ずや中正なる仲間が助けに来てくれる。六二がそれである。
また、坎の主爻でその中に陥り大いに蹇むところがあるわけだが、このように難局の道に当たっているうちに『王臣蹇蹇。躬の故に匪ず』の六二や『来れば連なる』の六四や『大人を見る』上六などが力を合わせて、蹇難打開に努めてくれる。それが『朋来る』である。
占う人この爻を得たら、剛健中正の徳を養うべきである。その徳が身につけば、必ず助けがあって大蹇を脱し得るであろう。

上六。往蹇來碩。吉。利見大人。 象曰。往蹇來碩。志在内也。利見大人。以從貴也。

上六は、往くときは蹇みあり来るときはおおいなり。きつ。大人を見るに利あり。
象に曰く、往くときは蹇みあり来るときは碩いなり、志しうちに在るなり。大人を見るに利あり、に従うを以てなり。

『碩』は大。上六は卦の終極である。いよいよ蹇難の極まるところに来た。昇って往こうにも、往くところはない。ますます行き悩むばかりである。そこで『往塞』という。
下へ降って九五に就いて、九五とともに時の艱難を救うときは、碩きな功績を挙げるであろう。九五はまだ艱難の中にあったので吉と言わないが、ここは卦の終わる時、はじめて吉と断される。卦の終わる所にあって、その転換が迫っており、蹇難打開の功を奏する機会に当たっているからである。
大人は九五の君を指す。九五という大徳の人に会えば、蹇難の世を救済するという大きな利益があろう。象伝、志し内に在りは、上六の意志がその下(=内)の九五に向かっていること。貴に従うの貴は、君位にある五を指す。上六が下の九三と「応」ずるだけに、大人が、九三であるかに誤解されそうなので、五を明示するために貴といった。占う人、この爻を得た場合、独力で進もうとすれば行き詰まる。大人物に出遇って、これに付き従い、これを援助するようにすれば、てがらがあり、吉。

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