09.風天小畜(ふうてんしょうちく)【易経六十四卦】

易経
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風天小畜(小さな停止・小さな蓄積/降りそうで降らない空模様・渋滞)

discontented:不満/mild restraint:束縛,拘束
障碍ありといえども小なり、着実に努力を重ねれば運は開くものなり。力は僅かなり。
力量いまだ不足なり。天機の熟すを待つべし。

比必有所畜。故受之以小畜。
比しめば必ずたくわうる所有り。故にこれを受くるに小畜を以てす。
小畜には、少し蓄える、少しとどめるという意味がある。
小なる者(ひとつの陰)が大(五つの陽)を止める。または貯える。
組織内部がよく和しているならば、物が貯えられ豊かになるだろうし、互いに離れがたくなり留まるようになる。
妻が夫を、部下が社長を止めるような小畜の象は、力で押さえて止めるのではなく、謙り柔和な態度を用いて止めるのである。(参考⇒大畜

何物かに止められている形がこの卦であるが、その為不平不満が充満してぶすぶすくすぶっており、今にも爆発しそうな雰囲気である。
運勢は強大とはいえないが、そうかといって決して弱いわけでもなく、出方によっては事態を切り開いていく力は充分持ち合わせている時といえよう。
少々の摩擦も余り神経質にならず、どんとぶつかって行くくらいの気構えが欲しい。
なまじっか小細工をしたり、小賢しく才能と策略で対抗しようとしたり、また分別臭いことはしない方がよさそう。
腹と腹でいいたいことは言って、後はさっぱりする方がうまく行きそうである。
物事に対しては行動を起こして後、先には多少危ぶまれたことも自然と歯車が廻りだしてくるものである。
[嶋謙州]


人間は自らの中に、いろいろな能力、つまり才能とか、情操とか、智恵というものを持ちませんと、外にばかり走って機械化、唯物化します。
そこで子供がある程度の年齢に達すると、内面生活、徳というものを蓄えるように指導しなければなりません。これが小畜であります。
[安岡正篤]

小畜亨。密雲不雨。自我西郊。

小畜は亨る。密雲して雨ふらず、わが西郊せいこうよりす。

空には黒い厚い雲が広がり、やがて雨が降るでしょう。しかしながら、風が吹いて雲の勢いが和らぎ、まだ雨は降りません。計画を実行していると、小さな障害に遭遇したときには、苛立ってしまいがちですが、障害がある場合には、一呼吸置いて、無理に進めずに時間をかけることが重要です。
この言葉は、心の柔軟性を持って、時間を静観しながら、適切なタイミングを見極めることが重要であることを教えています。また、力を蓄え直し、再びチャンスを見逃さないようにすることも重要です。

「畜」という字には、「とどめる」と「たくわえる」という二つの意味があります。物をとどめておくことは、貯えておくことを意味します。同様に、物を貯えておくことも、とどめておくことを意味します。「小畜」とは、小さなものが他の大きなものを止めることを指します。大きなものを完全に止めることはできず、わずかに抑えることしかできないということです。

小さなものが大きなものを止めることは、陰が陽を制御することを意味します。臣下が君主を止めること、妻が夫を止めること、子が親を止めること、身分の低い者が高い地位の者を止めることも同様です。また、「小畜」の卦では、小さな堤防で大きな川の氾濫を防ぐこともできます。しかし、大洪水には抵抗できず、堤防が決壊することがあります。

「小畜」の卦には、下に「乾」の卦があり、上に「巽」の卦があります。この卦は、純陽的な性質であり、非常に力強い勢力を表します。「巽」は陰の卦であり、風や長女を表します。下にある純陽の「乾」の卦が上に進もうとするのを、上にある陰の「巽」の卦が制止しようとします。臣下が柔和で順応的であり、君主の心を和らげ、君主の行動を制御することで、臣下の志が成功するということです。

彖曰。小畜。柔得位而上下應之。曰小畜。健而巽。剛中而志行。乃亨。密雲不雨。尚往也。自我西郊。施未行也。

彖に曰く、小畜は柔位を得て上下これに応ずるを、小畜と曰う。健にして巽、剛中にして志し行わる。すなわち亨る。密雲して雨ふらざるは、なお往くなり。わが西郊よりするは、施しいまだ行われざるなり。

彖伝によると、小畜卦は、六四の柔らかな陰爻がしかるべき地位を得て、上下の陽爻がそれに応じる形を成している。この形を小畜という。下半分は健かで、上半分は従うという意味。二爻と五爻が剛健で中庸を得て、終には志を実現する。
密雲雨ふらずわが西郊よりすとは、畜めることが十分でなく、陰陽の気が凝結することなく、なお昇り進む状態をいう。恵みの雨にはまだらない。つまり徳の施しがまだ行なわれない時である。

象曰。風行天上小畜。君子以懿文徳。

象に曰く、かぜ天上に行くは小畜なり。君子以て文徳をよくす。

この卦、風が天の上を行く象である。風は気の動き、実質がない。これを留めても長くは続かない。そこで小畜すこしとどむという。畜はまた畜積、蘊畜の意味になる。そこで君子は、この卦に法とって小し畜わえ、文徳を懿くする。懿は美。文徳は文章才芸。君子の蘊畜する物のなかでは小さい。まだ厚く徳を蘊畜して広く施す段階ではないのである。

物事が滞って思うように進まない時は、文徳を修め、従順温和につとめる。
文徳は、文武両道の武徳に対するもの。武は表面的に戦う力強さを表しますが、文徳は内面の精神性、芸術性、知性を表します。心を磨き高めることによって、打開の道が開けていくのです。

初九。復自道。何其咎。吉。 象曰。復自道。其義吉也。

初九は、かえること道よりす。何ぞそれ咎あらん。吉なり。
象に曰く、復ること道よりす、その義吉なり。

『小さきものが大きいものを止める』ことについて説いているのが風天小畜の卦である。初爻は、相手の言うことや状況などを察し、本来の進むという性質を捨て、止まるのである。

内卦の三爻は、進もうとする乾の意で表されるが、需では進みかねて止まって需つ自主的なものであったのに対し、小畜では進むのを畜められて引き返すといった他動的な畜止の働きを主にしている。初爻は卦の一番下にあって、自分は僻地にいるので進む意思がそれほど強くない。
それで畜止の主爻である応位の四爻に止められることを知って、自らその位置に戻ってくる。それは小畜の道に適うので、咎なく吉を得ることになる。

九二。牽復。吉。 象曰。牽復在中。亦不自失也。

九二は、牽いて復る。吉なり。
象に曰く、牽いて復る中に在り、また自ら失せざるなり。

九二は、初九と手を牽きあって畜められるのを振り切って本来の場所に復ることができる。正しいものと連れ立つようにして自分の守るべき道に戻る。初九は、中道を得ているので素直に立ち戻るのである。九二もまた自分を失わないものである。占う人この卦を得れば、正しい人と手をつないで、本来の道に帰るがよい。そうすれば結果は吉である。

九三。輿説輻。夫妻反目。 象曰。夫妻反目。不能正室也。

九三は、輿輻くるまふくを説く。夫妻目をそばむ。
象に曰く、夫妻目を反むるは、しつを正しくするあたわざればなり。

輿は、人を乗せる車。輻は、車の矢(スポーク)のこと。輻を説く(=脱く)は、車が壊れて用をなさなくなった。九三は乾の極で、ともすれば猛進しやすい。これを六四は畜めようとする。陽が突進し、陰で抑えようとすればそこに衝突が起こる。威勢良く進もうとしても進めない状態になったのを、車の輻が壊れた形に見立てている。

九三も健の一部、進み昇ろうとする。しかし「中」を得ていない。六四の陰に接近しているが、三と四はもともと正しい配偶関係にはいない。ただ、たまたま三が陽、四が陰で、身近く接しているところから、陰陽むつびあう。その結果、九三は六四につなぎとどめられて、もはや昇り進むことはできない。あたかも車のスポークが脱けてしまって動かないようなものである。しかし、九三は志剛毅な者。四の陰にとどめられたものの、その状態に満足せず、四と争うことになる。ここに夫婦反目の象が出てくる。占断としては、大事を行う途中で道ならぬ相手にかかずらわっていれば、前進はできないうえに、その相手と闘うことにもなろう。夫婦反目するというのは、自分の家庭を正しくできなかった九三自身の責任である。

六四。有孚。血去愓出。无咎。 象曰。有孚愓出。上合志也。

六四は、孚あり。いたみ去り愓出おそれいづ。咎なし。
象に曰く、孚あり血去り愓出ずるは、かみこころざしを合わせばなり。

愓出は、危険が去るという意味。成卦主爻である六四は一陰でもって五陽を畜めようとする。当然傷つきおそれることがある筈。しかし柔順(陰爻)で「正」(陰陰位)を得、の陰爻である。は入であるから、この爻は己れを虚しくして人をうけ入れる性格。その上の二陽も助けてくれる。傷害や憂懼ゆうくはおのずと遠ざかる。そこで孚ありといい、いたみが去り懼れも去るという表象が用いられる。占う人、このような誠があれば咎はない。象伝の上志しを合わすとは、六四の上の二陽が助けてくれることを指す。

九五。有孚攣如。富以其鄰。 象曰。有孚攣如。不獨富也。

九五は、孚あり攣如れんじょたり。とみそのとなりともにす。
象に曰く、孚ありて攣如とは、独りは富まざるなり。

攣は指をまげて握りしめる(痙攣など)。攣如は手を取り合う、手を握りあうさま。以は与と同じ(清の王夫之の説)。上卦☴の三爻が力を合わせて、下の☰が進んでくるのを畜めようとしている。鄰という表現が用いられるゆえんである。しかも九五は「中」(五は上卦の中)におり、尊位にある。
実力があって、両隣りの二爻をよく助けている。そこから爻辞の、手をつなぎあう孚があり、自分だけ富もうとせずに隣人をもともに富ませる(=富以其鄰)、というイメージが出てくる。占ってこのを得た人、まことがあれば、良き隣人の助けがあろう。

上九。既雨既處。尚徳載。婦貞厲。月幾望。君子征凶。 象曰。既雨既處。徳積載也。君子征凶。有所疑也。

上九は、既に雨ふり既にる、徳をたっとんでつ。婦貞なれどもあやうし。月望にちかし。君子征けば凶。
象に曰く、既に雨ふり既に処る、徳積み載つるなり。君子征けば凶、疑うところあるなり。

目的を達成しているにもかかわらず、まだ不満足でさらに進もうとしている場合は、欲張りすぎずに有終の美を飾りましょう。

載は満ちる、『詩経』に「その声路に載つ」とある(大雅、生民)。婦は妻。望は満月。征は行と同じ。雨は陰陽和合の象。処る(安んじ居る)は、畜まるの象。婦も月も陰に属する。そもそかたちも陰が陽を畜めるためには、和合せねば畜めえない。上九に至っては、畜めるの極点。四の陰が畜めるままにこれと和合して、止まる。すでに雨ふってやすらかにおるの象がある。それというのは、陽が陰の徳を尊んで、陰の徳が積まれ満ちるまでに至らしめたことによる。陰は陽に服従すべきものであるのに、今や陰が満ちて陽をしのぐ力をもって陽を留めている。人でいえば婦が夫を制しているかたち。婦のほうがリードする形で、和合して雨となったけれど、やはり婦が夫を制するのは順当でない。婦自身の意図は正しくても、結果は危うい。月も満月に近づけば太陽に匹敵するごとく、陰が盛んになって陽に対抗しうるようになれば、君子もまた行くところあってはならない。凶を招く。君子は陽、小人は陰。小人盛んなときは君子を害するからである。象伝の疑うところあるなり、は、君子としても、そのようなときは心配せねばならないということ。
朱子語類』七〇に、上九の辞はことに判断しにくく、このが出た場合、吉凶いずれともわからない。しかし占いかたには活きた見方をすべきで、この徳があってこの爻を得れば吉だが、この徳なくてこのを爻を得ても該当しない。このように見るのが活きた見方だ、といい、大体の意味は、占者が婦人ならば正しくても危うい。君子もこの際、静かにしているのがよく、動いてはならない、という占断だろう、と。

小畜の終わりにあって、これまで止め畜えていたものを、施し解き放つという意味の辞がかけられている。
これまで『密雲、雨降らず』だったのが、上爻変じて坎となり、既に雨が降る(徳の施しを済す)ところまできたということ。それが『既に雨ふり既に処る』雨が降り止んだように、既に施しが行き渡ったのである。
『徳を尚とんで載つ』は、その施しが大きい事を讃えたもので、一陰の柔の力をもって養い蓄えたものが、車に載せるほど大きなものになった。文徳も立派になっている。それは成卦主爻である四爻が行ったもの。
『婦貞けれども厲うし』次には、陰が極ったのだから陽が疑われるようになる。大臣の四爻が小畜の事を成功させたのだから、いくら正しさを守り努めても、勢いが増し君主をしのぎ危険な状況になる。
『月望に幾し』婦や臣が、十五夜満月に近い十四夜あたりの状態になるのは危険だから、『君子往けば凶』と戒めている。

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