15.地山謙(ちざんけん)【易経六十四卦】

易経
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地山謙(謙遜の徳/謙虚にして困難を逃れる・男子裸身の象)

concession:譲歩/modesty:謙遜,控えめ,つつましさ,上品
万事謙譲に徹せよ。時に利あらずなり。
慎み、恭敬の心で対すべし。しからば運気は昇らん。

有大者不可以盈。故受之以謙。
大を有する者は以て盈つるべからず。故にこれを受くるに謙を以てす。
火天大有の大いに栄えた富有は、ともすれば災いの因となる恐れがある。その大を永く有っていくためには謙譲をもってするしか道がない。謙は公平均分である。保有することが既に大きい者はその権能を充満させてはならない。満つれば必ず欠けることになるからである。富めば富むほど我が身を低くして謙遜してへりくだるようにすべきである。

事を行うに際し、人にへりくだり、自分が表立たないようにしなければならない時。したがって運気は弱く、普通以下の時といえる。
何事も積極的には出られず、出れば必ず敗北する。
焦って事を起こそうとすると今一歩のところで駄目になったり、一生懸命に働いても無駄骨で利益に繋がらず、つまりは中途半端に終わりがちである。
じり貧の体制であるから、すべてに現状維持が大切で、みだりに動いたり欲に走ったりしないようにせねばならぬ。
こんな世知辛い世の中に今更「謙譲の美徳」でもないと思う人も多々あろうが、この卦では鋭意一番実行して見てはどうだろうか。
案外譲歩したことが先々で逆に有利になることがあるやも知れぬ。
[嶋謙州]

一貫した勢力が行われ、発展隆盛しますと、のぼせるというか、つけあがるというか、いい気になります。その時によく反省をして謙遜でなければならぬ、と教えるのがこの謙の卦であります。
易の六十四卦は、それぞれ私達に戒めの言葉を与えてくれますが、中でも内外六爻を通じて、すべてよい言葉を連ねているのは謙の卦だけであります。
そういう意味でこの卦は、非常に美しい円満な卦であります。
人間も謙遜な人というのはゆかしいものです。ことに知能、才能、徳義のすぐれて立派な人程、謙遜であるとゆかしい。
少し才能とか能力あるいは金力があるとそれをひけらかす人がありますが、これぐらい浅ましいことはありません。反感と軽蔑を覚えます。
しかし、人間というものは情けないもので、ちょっと成功すると、すぐ偉そうになり、女房子供にまで威張り散らす。
そういうことが一番よくないと痛いほどの教えであります。
[安岡正篤]

謙。亨。君子有終。

謙は、亨る。君子は終わり有り。

謙とは、自分に何かよいところがありながら、それを自負しない意味。天澤履の礼儀が徳の基であるに対し、謙は、徳の幹。謙虚さは美徳だが、上辺だけ謙った態度を装うことではない。それを謙虚傲慢・謙遜傲慢という。
君子の最も高い徳が謙。謙虚、謙遜、謙譲、の徳。志が偉大であればあるほど、謙虚になる。
この卦、内卦は山であり、止まるの意味がある。外卦は坤、順の意味がある。内に自から止まり、外に柔順ということは、謙の態度を意味する。また、山が地の下にある。山は最も高いもの、地は最も低いもの。高い山が低い地の下に、身をおとしめて、止まっている(艮は止)。これは謙のイメージである。
優れた実質を持ちながら人の下に立ち、あるいは富んでも驕らないのは、やがてその実力を発揮し永くその富を保つことができる。それは徳の幹として、人が守るべきことである。
名声や権力のない時は謙虚になれるが、成功して高位に就くと知らぬ間に慢心が現れる。しかし自分は未だ事足りず未熟者だと自覚していれば、いつまでも謙虚さを失うことはない。終わり有りとは初心忘れず初志貫徹して物事を成し遂げ、終わりを全うする(有終)。
占ってこの卦を得た人、謙遜であれば、願うことは亨り、しかも終り有り~始めは運がよくないが最後には運が開ける。

彖曰。謙亨。天道下濟而光明。地道卑而上行。天道虧盈而益謙。地道變盈而流謙。鬼神害盈而福謙。人道惡盈而好謙。謙尊而光。卑而不可踰。君子之終也。

彖に曰く、謙は亨る。天道は下済かせいして光明なり。地道は卑くして上り行く。天道は盈てるを虧いて謙に益し、地道は盈てるを変じて謙にき、鬼神は盈てるを害して謙にさいわいし、人道は盈てるをにくんで謙を好む。謙は尊くして光り、卑けれどもゆべからず。君子の終りなり。

謙は亨る。なぜなら、陽気下降して万物を救済し、光り輝くのが天の道である。天道は九三の陽を指す。また地の道は、低いところに位置しながら、陰気は常に升り行く。
地は上卦に当たる。かく陰陽の気が交通する故に亨るという。そもそも天の動きは、盈ちたもの必ず欠け、不足(=謙)なるもの必ず益すのが原則である。月の盈ち欠け、陰陽の消長を見るがよい。地の形勢について言えば、高い山の頂きは、おのずと土砂を洗われ、低いところにある谷はあらゆる水が流れこんで大河となる。鬼神は驕りたかぶる人に禍いを、謙遜な人にさいわいを与える。
人情の常として驕慢な人を憎み、謙遜な人を好む。謙遜な人は、尊い地位におれば、その徳ますます輝き、たとえ低い地位におっても、その人格の高さ故に、その上に出る人はない。これが卦辞に、君子終りありというゆえんである。

彖伝のなかでも、この謙の彖の文章は特に調子が高い。作者が謙遜の徳をいかに重く見ているかが判る。謙遜を尊ぶのは儒家だけでない。老子の道徳はもっぱら謙遜を説くものである

象曰。地中有山謙。君子以裒多益寡。稱物平施。

象に曰く、地中に山あるは謙なり。君子以て多きをへらすくなきを益し、物をかなって施しをひとしくす。

この卦は地の中に山がある。至って低いもののなかに、至って高いものを包んでいる。ということは、低い姿勢のなかに高い徳を隠していること。謙を象徴する。君子はこの卦に法とって、多いものを減らし、少ないものを増して、物のあるべきさまにかなうようにし、その施しを平均にする。平の字は、平らにすると解しても通ずる。その場合は、高い(=多)ものを削り、低い(=寡)ものに増して、平らにするということになる。物事の全体を考えて施して均衡をはかる。

初六。謙謙君子。用渉大川。吉。 象曰。謙謙君子。卑以自牧也。

初六は、謙謙けんけんたる君子。以て大川を渉る。吉。
象に曰く、謙謙たる君子は、以て自らやしなうなり。

火天大有は『大いに有つ』の卦で、位が高く尊くなるほど有つものも大きくなり爻が上に進むほど吉の意が強くなっていたが、地山謙の卦は、爻が低ければ低いほど、余計にへりくだっていると見る。したがって、爻が高くなるほど謙の意味が次第に薄れていくので、大有とは反対に爻位が下にあるほど吉の意が強いと見る。
大抵の卦の場合、初爻を力弱く時を得ていないものとして見る。何か条件付きでなければ吉とはならないことが多いが、地山謙の場合は爻位が卑しければ卑しいほど謙遜となるので、無条件で吉とみる。
謙謙は謙遜なうえに謙遜なことを示す。初六は柔順な態度(陰爻)で、最下位に甘んじている。これこそ最も謙遜な君子の処世態度である。このような態度でゆけば、大川を渡っても、必ず渡り切れるであろう。占ってこの爻を得た場合、謙遜であれば、危険を冒しても乗り切れる。吉。象伝、卑以て自ら牧うは、卑下した態度で自分を養うこと。

六二。鳴謙。貞吉。 象曰。鳴謙貞吉。中心得也。

六二は、鳴謙めいけんす。貞にして吉なり。
象に曰く、鳴謙貞吉なるは、中心ればなり。

六二は柔順(陰)で「中正」(二は内卦の中、陰爻陰位で正)。謙徳が心中に蓄積されて外に発する。謙を以て鳴る~謙遜という点で名声がとどろいている。このような人は、正しくてそのうえ吉である。占ってこの爻を得た人、中に徳があれば、自然と名が聞こえ、正しくて吉。
象伝の中心は心中と同じ。中途が途中の意味であり、中流が流中の意味であるのと同様である。得ればなり得るところがある、徳(得と同音)があるからである。

九三。勞謙君子。有終吉。 象曰。勞謙君子。萬民服也。

九三は、労謙ろうけんたる君子。終あり吉。
象に曰く、労謙たる君子は、万民服するなり。

九三は、成卦主爻でありこの卦のなかで唯一の陽爻である。下卦の上位におる。つまり臣としては最高の、責任ある地位にある。剛毅で(陽爻)、正しい(陽爻陽位)。だから上下の者(五陰爻)ひとしく九三に心を寄せ、頼りにする。しかも九三は国家に大きな功労がありながら謙遜して誇らない。謙の徳を備えながら、自ら謙の道に励むだけでなく、他の爻も引き連れて謙を行うのは、責務が重くて骨が折れるものである。労謙たる君子とはそのことであり、万民は服従するであろう。

謙虚に労する。功労があっても誇らず、自分の地位や身分が高くなっても謙虚さを終わりまで全うすること。そのようであれば、最後には功労が報いられて、吉を得るであろう。繋辞伝にこの辞を解説して「労してほこらず、功ありて徳とせず、厚きの至りなり。その功を以て人に下る者を語るなり」とある。

六四。无不利。撝謙。 象曰。无不利撝謙。不違則也。

六四は、利あらざるなし、謙をふるえ。
象に曰く、利あらざるなし、謙を撝えとは、のりたがわざるなり。

撝は揮、手をふる意味から、発揮すること。六四は柔順(陰爻)にして、「正」(陰爻陰位)を得ている。上位(上卦)にありながら、人にへりくだる徳を有している。自分を立てず、へりくだって下位にいる才知を挙げ用いる。自分を軽んじ、他を引き立てる(謙を撝く)。だから占断としてはあらざるなしという。
しかし、問題は、この爻が、功労は九三に及ばないのに、爵位だけは九三の上にあるという点である。いやが上にも謙譲の徳を発揮して、決して身のほどを過ぎた地位にあぐらをかいているわけではない、ということを示すべきである(=撝謙)。
象伝、則に違わずは、分に過ぎたふるまいをしない意味。

六五。不富以其鄰。利用侵伐。无不利。 象曰。利用侵伐。征不服也。

六五は、富まず、そのとなりともにす。もちいて侵伐するに利あり。利あらざるなし。
象に曰く、用て侵伐するに利あり、服せざるを征するなり。

以は与と同じ(小畜九五、泰六四参照)。普通に隣人たちが集まって来るのは、自分に富があるからである。しかるに六五は柔順の徳(陰爻)をもって五の尊位におる。ということは、君主の位にありながら下の人にへりくだることのできる人。そのような君には天下が懐いて来る。あたかも富はもたないのに、隣人に親しまれる人と同じように、徳によって懐かれるのである(=不富以其鄰)。この六五に従う人は、恐らく天下のほとんど全部であろう。六五の謙の徳を以てして、なお服従しないものがあれば、それは人間ではない。武力で征伐するがよい。なお他の事に於ても利あらざるなしである。占ってこのを得た人、このような徳があれば、敵を征伐してよろしい。何事につけても利があろう。

上六。鳴謙。利用行師。征邑國。 象曰。鳴謙。志未得也。可用行師。征邑國也。

上六は、鳴謙めいけんす。以ていくさり、邑国ゆうこくを征するに利あり。
象に曰く、鳴謙す、こころざしいまだ得ざるなり。用て師を行るべし、邑国を征するなり。

邑国は私有の領地。上六は謙卦の極点におる。つまり謙遜の極度なもの。謙が極って不遜に変じようとする兆候がある。謙遜な人は知られることを好まないが、こうなると謙遜の名が四方に鳴り響く。人々が味方してくれるから、軍隊を動かすことも可能である。けれども上六は陰爻、体質柔弱で、しかも明確な地位がない(初と上は無位である)。だから他国を征伐するほどの力量はない。たかだか自分の領地の叛乱を征伐することができる程度である。
象伝の意味は、力も地位もないから、評判はよくても、意に満たない。そこで兵を動かすことにもなるが、せいぜい自領を征伐するだけのことである。
『朱子語類』(七〇)にいう。弟子が、謙遜の卦のなかに、六五、上六のような戦争肯定の句があることを疑問としたのに対し、朱子は答える。謙ということは兵法の極意でもある。一歩退くことが、次ぎの勝利を導く。『老子』が「大国以て小国に下れば小国を取り、小国以て大国に下れば大国を取る」といい、「孫子」が「始め処女の如くなれば、敵人戸を開く。後に脱兎の如くなれば、敵拒ぐに及ばず」という通りである。されば六五に、用て侵伐するに利ありという、と。

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