01.乾為天(けんいてん)【易経六十四卦】

易経
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乾為天(偉大なる天・君たるの道/昇りすぎた龍・月満つれば則ち虧かく)

authority:権威/creative:創造
表面壮大なれど内容に難あり。倦まず弛まず日夜精進すべし。
進み過ぎれば即ち難あるべし。
昇り過ぎた龍は下るしかない。

有天地、然後萬物生焉。
天地有りて、然る後万物生ず。
天(乾)と地(坤)があってこそ、あらゆる万物(ヒトを含む)が生ずるのである(天・人・地)
天とは、宇宙に遍満する大元気のこと。人の世においては君主・指導者などに配当し、それを龍に仮託して説いている。

運勢が昇りつめた状態を現しており、今後運勢が上向くか下向くか全く油断のならないとき。昇り詰めたといっても決して絶好調という意味ではなく、その人の持つ運勢がぎりぎりのところまで来ているということで、はた目からみたらさほどでもない場合が多い。だからとかく心が落ち着かず焦り気味でいらいらさせられたりする。
下手に動いたり、自分の浅知恵に振り回されたりしてとんでもないことになりがちだろう。
できれば現状維持を考え、変な欲を出さないこと。
もしどうしても動かねばならない時は、必ず目上か上長に相談して事を計ることが賢明。
[嶋謙州]

は目に見える形に対する名、ははたらきについての名(周易正義孔穎達くようだつ


乾。元亨。利貞。
けんは、おおいにとおる、ただしきにあり。
春夏秋冬のごとく仁礼義智の四つの徳が繰り返し循環してやまない変化の原理原則が元亨利貞であり、これを『常態』という。この原理原則から外れているのを『変態』という。

乾の四徳
天地の間に存在して万物を化育する四つの自然の道。
春:仁にあたる(=太極。元の働きは無限の生成化育)
夏:礼にあたる(どこまでも進行して停滞休止することがない→亨る)
秋:義にあたる(鋭いという意味/稲作物+刃物)
冬:智にあたる(一貫して変わることのない不変性を持っている)

初九。潜龍。勿用。
初九は、潜龍せんりょうなり。用うもちるなかれ。
用うとは、はたらく、行動するの意。龍は未だ地に潜むような状態であるから自重し行動せずよく力を蓄えて時を待つべきである。

九二。見龍在田。利見大人。
九二は、見龍田けんりょうでんに在り、大人たいじんを見るに利あり。
地中に潜んでいた龍がや地上に現れた。なおも優れた人物の指導を仰ぐがよい。

九三。君子終日乾乾、夕惕若。厲无咎。
九三は、君子終日乾々けんけん、夕べまで惕若てきじゃくたり。厲うあやけれども咎なし。
乾乾とは繰り返し一生懸命努力すること。惕若とは畏れ慎むこと。終日克己努力し、夜には一日を振り返り過失がなかったかと微に入り細に入り反省するならば咎めを免れる。

九四。或躍在淵。无咎。
九四は、あるいはおどりて淵にあり。咎なし。
或は同音の惑と似た意味で未だ定まらざる状態。躍は飛ぶところまではいかないが、足が地を離れた状態。龍が飛ぼうか飛ぶまいか、ちょっと跳び上がってはやめたりして決心がつかない。行きつ戻りつの進退が定まらない状態だが、然るべき時を見定めて進退するならば咎めはない。

九五。飛龍在天。利見大人。
九五は、飛龍ひりょう天に在り、大人を見るに利あり。
龍が時と処を得て天に昇る。しかしなお優れた人物の指導を仰ぐがよい。

上九。亢龍有悔。
上九は、亢龍こうりょうなり。悔いあり。
亢は、昇りすぎて降りられない意。盈つれば欠くる世のならい。

用九。見羣龍无首。吉。
用九は、羣龍ぐんりょうかしらなきを見る。吉なり。
群れなす龍が雲の中にその首を隠している。剛性強きものは意図して頭角を表さないようにすべきである。偉大な天の徳もそれを誇示することなく一歩へりくだってこそ吉である。

彖伝

彖曰、大哉乾元、萬物資始。乃統天。雲行雨施、品物流形。大明終始、六位時成。時乘六龍、以御天。乾道變化、各正性命、保合大和、乃利貞。首出庶物、萬國咸寧。
彖に曰く、大いなるかな乾元、万物りて始む。すなわち天をぶ。雲行き雨施し、品物ひんぶつ形をく。大いに終始を明らかにすれば、六位りくい時に成る。時に六龍りくりゅうに乗り、もって天をぎょす。乾道変化して、おのおの性命せいめいを正しくし、大和たいわを保合するは、すなわち利貞なり。庶物しょぶつに首出して、万国ことごとくやすし。

天道は万物の始まりと宇宙を司る大いなるエネルギー。天の生気が雲を巡らせ恵みの雨を降らし万物を生育しそれぞれの個性を発揮させる。この天の生意は遍く流通し拡散する(生意の発生展開)。
天道の始めから終わりまで(元亨利貞/春夏秋冬)を明らかにすれば、卦の六つの位(潜龍→亢龍)は、それぞれの然るべき時にしたがって完成する。時として六頭の龍(六陽爻)にひかせた車に乗って、天の軌道を自在に走らせる。刻々と変化する天道は万物を生育する。生まれながらに持つ天から授けられた『いのちのちから』は(天から受けた⇒性・天が与えた⇒命)各々の本質に従って造られているこの大調和を持続し(保)これに和する(合)これこそが利貞(生意の完成)である。
特出して優れた(首出)『いのちのちから』によって、営み、活かし活かされ、育み育まれことごとく安寧な世になるのである。

象伝

象曰、天行健。君子以自不息。
象に曰く、天行は健なり。君子もって自強してまず。
天の働きは健やかで止むことがない。それに倣って、自彊息じきょうやまず(=不息ふそく)自ら努め励んで休まない。修養努力することが大切である。

屁一発だって人と貸し借りでけんやないか。
誰でも自分は自分を生きるよりほかないんじゃ。
[澤木興道(さわきこうどう1880-1965)]

潜龍勿用、陽在下也。見龍在田、徳施普也。終日乾乾、反復道也。或躍在淵、進无咎也。飛龍在天、大人造也。亢龍有悔、盈不可久也。用九、天徳不可爲首也。
潜龍用うるなかれとは、陽にして下に在ればなり。見龍田に在りとは、徳の施し普きなり。終日乾乾すとは、道を反復するなり。あるいは躍りて淵に在りとは、進むも咎なきなり。飛龍天に在りとは、大人の造なるなり。亢龍悔ありとは、盈つれば久しかるべからざるなり。用九は、天徳首たるべからざるなり

初九:潜龍用うるなかれというのは、陽爻が一番下にあるからである。
九二:見龍田に在りとは、龍が地上に現われ徳の感化が遍く万物に施されること。
九三:終日乾々とは、朝に夕に反復し実践することがみな道にかなうこと。
九四:あるいは躍りて淵に在りとは、無理な前進をしないことが咎を免れる途である。
九五:飛龍天に在りとは、聖人だけの仕事である。
上九:亢龍悔い在りとは、盈ちれば久しからずに動けること。
用九:天徳首たるべからざるなりとは、天の徳は陽剛だが、陽剛でもって人の先頭に立つことはよくない、六陽が柔に変じうることで吉になるということである。⇒ 老子:三宝の徳に通じる。

我れに三宝有り、持してこれを保つ。
一に曰く慈、二に曰く倹、三に曰く敢えて天下の先と為らず
慈なるが故に能く勇、倹なるが故に能く広く、敢えて天下の先と為らざるが故に能く器の長を成す。

そのわたしの道には三つの宝があり、大切に守りつづけている。
その一つは「慈」――いつくしみの心であり、その二つは「倹」――つづまやかさであり、その三つは世の人の先に立たぬことである。慈しみの心をもつから真の勇者であることができ、倹やかであるから広く施すことができ、世の人の先に立たぬから器量をもつ人のかしらとなることができるのだ。
[老子:第六十七章三寳]

文言伝

文言伝:第一節(四徳)

文言曰、元者善之長也。亨者嘉之會也。利者義之和也。貞者事之幹也。
君子體仁足以長人。嘉會足以合禮、利物足以和義。貞固足以幹事。君子行此四徳者、故曰、乾元亨利貞。

文言に曰く、元は善の長なり。亨はかいなり。利は義の和なり。貞は事のかんなり。
君子は仁を体すればもって人に長たるに足り、会を嘉すればもって礼に合するに足り、物を利すればもって義を和するに足り、貞固ていこなればもって事に幹たるに足る。君子はこの四徳を行う者なり。故に曰く、乾は元亨利貞と。

元は万物の始まり(春)善の最たるもの(仁)
亨は草木が美しく生長する時(夏)嘉は悦び、会は集まる、美なるものの集まる時(礼)
利は実りの時(秋)私利私欲を断ち和を以て実りを得る(義)
貞は生々成就(冬)内面の充実、智慧知識は物事の根幹となる(智)

私心なく思いやり慈しむ仁愛の精神を体得すれば人々を善導できる者となる。
人々が悦び集まるように物事を進めていくことが全体の調和につながる。
私利私欲を果断し眼前の利に迷わずうことなく万人に幸福をもたらす利こそ『義を和するの利』である。
智慧が明らかであり貞正にして堅固であるからこそ物事が成就することができる。物事の根幹にあるのが智である。
君子とは、すぐれて健(=乾)なる四つの徳を実行できる者である。故に「乾は元亨利貞」という。

文言伝:第二節(人事)

初九曰、潛龍勿用、何謂也。
子曰。龍徳而隱者也。不易乎世、不成乎名、遯世无悶、不見是而无悶。樂則行之、憂則違之。確乎其不可拔、潛龍也。
初九に曰く、潜龍用うるなかれとは、何の謂いぞや。
子曰く、龍徳ありて隠れたる者なり。世にえず、名を成さず、世を遯れていきどおることなく、是とせられずして悶ることなし。楽しめばこれを行い、憂うればこれをる。確乎としてそれ抜くべからざるは、潜龍なり。

潜龍とは潜んでいる龍。才能を秘め聖人の徳がありながら、最下層に隠れている人のことである。世が移り変わっても主義を易えることもなく、名声欲もない。世に用いられず隠遁していても、悶え苦しむこともないし、誰にも正しいとされなくても、不平を抱くことがない。世の中がよく治って、泰平であるときは楽しむのであって、、乱世で我が身の汚される憂いがあるときは、世間に背を向けて去る。かようにその志は確乎として堅固であり、その志を抜き動かすことはできない。(確乎不抜)それが潜龍である。

九二曰、見龍在田、利見大人、何謂也。
子曰。龍徳而正中者也。庸言之信、庸行之謹、閑邪存其誠、善世而不伐、徳博而化。易曰、見龍在田、利見大人、君徳也。
九二に曰く、見龍田に在り、大人を見るに利ろしとは、何の謂いぞや。
子曰く、龍徳ありて正中なる者なり。庸言ようげんこれ信にし、庸行ようこうこれ謹み、邪をふせぎてその誠を存し、世に善くしてほこらず、徳ひろくして化す。易に曰く、見龍田に在り、大人を見るに利ろしとは、君徳あればなり。

龍のごとき徳があって、しかも潜むでもなく、躍るでもなく、ちょうど中庸を得た人のことである。日常のことばにいつわりがなく、日々の行いを謹しみ、邪念を防いで天成の誠を生かし続ける。かような人の徳はおのずと世の中を善くするであろうが、決してその功績を誇ることはない。その徳は広大で、世人を感化する。易に、見龍田に在り、大人を見るに利ろし、というのはまだ君主の位についていなくても、君主たるべき徳ある人をいうのである。

九三曰、君子終日乾乾、夕惕若、厲无咎、何謂也。
子曰、君子進徳脩業。忠信所以進徳也。脩辭立其誠、所以居業也。知至至之、可與幾也。知終終之、可與存義也。是故居上位而不驕、在下位而不憂。故乾乾。因其時而惕、雖危而无咎矣。
九三に曰く、君子終日乾乾し、夕べに惕若たり、厲けれども咎なしとは、何の謂いぞや。
子曰く、君子は徳に進みぎょうを修む。忠信は徳に進む所以なり。辞を修めその誠を立つるは、業に居る所以なり。至るを知りてこれに至る、ともに幾を言うべきなり。終わるを知りてこれを終わる、ともに義を存すべきなり。この故に上位に居りて驕らず、下位に在りて憂えず。故に乾乾す。その時に因りておそるれば、危うしといえども咎なきなり。

君子は日々道徳に進み、業を修めねばならぬ。忠信(まごころ)は内面的な、進徳(徳を進めて道を行く)の手段である。一言も虚偽のないようにして誠意を立てるのが、外交的な、修業の手段である。進徳にあたっては、まず徳の最高の到達点を見定めて、それに到達しようと努めるべきである。そうして初めて神秘の境地(=機)を論ずることができよう。修行においては、仕事の終着点を見定めてそこまでやり遂げることが肝要である。このたゆまぬ実践のうちにこそ、道義が存するであろう。このようであれば、上位にあって驕りたかぶることなく、下位にあっても煩悶することはない。故に、爻辞に乾乾す、その時によって惕るという。危うしといえども咎なしというのは、驕らず憂えずの態度による。

九四曰、或躍在淵、无咎、何謂也。
子曰、上下无常、非爲邪也。進退无恆、非離羣也。君子進徳脩業、欲及時也。故无咎。
九四に曰く、あるいは躍りて淵に在り、咎なしとは、何の謂いぞや。
子曰く、上下すること常になきも、邪をなすにはあらざるなり。進退することも恒なきも、群を離るるにはあらざるなり。君子徳に進み業を修むるは、時に及ばんことを欲するなり。故に咎なきなり。

跳躍したりしなかったり進んだり退いたりと行動が一定でないのは、よこしまなことをしようというのではない。世間と離れ他に頼らず自主的に歩を進めようとするのでもない。九三において、君子は十分に徳に進み業を修めた。だから今は進むべきときに遅れぬように進もうとするのである。故に、咎はない。

九五曰、飛龍在天、利見大人、何謂也。
子曰、同聲相應。同氣相求。水流濕、火就燥。雲從龍、風從虎、聖人作而萬物覩。本乎天者親上、本乎地者親下。則各從其類也。
九五に曰く、飛龍天に在り、大人を見るに利ろしとは、何の謂いぞや。
子曰く、同声相い応じ、同気相い求む。水は湿うるおえるに流れ、火はかわけるに就く。雲は龍に従い、風は虎に従う。聖人おこりて万物観る。天に本づく者はかみを親しみ、地に本づく者はしもを親しむ。すなわち各各その類に従うなり。

同じ音に調律した弦は互いに共鳴し、同気は、互いに感応し引きあうものである。水が流れるところは潤い、火が燃えるところは乾燥する。龍が唸れば雲が湧き起こり、虎が吠えれば風が巻き起こる。聖人がこの世に立ち上がれば、一切衆生・万物すべてこれを仰ぎ見て悦び従うであろう。すべて、生命源を天から受けるものは、その頭部が上を向いている。生命源を地から受けるものは、その根が下に向かう。これは物みなその類に従うという自然の法則による。

上九曰、亢龍有悔、何謂也。
子曰、貴而无位。高而无民。賢人在下位而无輔。是以動而有悔也。
上九に曰く、亢龍悔いありとは、何の謂いぞや。
子曰く、貴くして位なく、高くして民なく、賢人下位にあるもたすくるなし。ここをもって動けば悔あるなり。

『上』の位は貴いようであるが実質的には位がない(五が君位)。高すぎて、ついて来る民がいない。九五以下の賢人が下位におるけれども、上九の傲慢さの故に、誰も補佐しようとしない。このようなわけで、動けば後悔する結果になるのである。

文言伝:第三節(時と位)

潛龍勿用、下也。見龍在田、時舍也。終日乾乾、行事也。或躍在淵、自試也。飛龍在天、上治也。亢龍有悔、窮之災也。乾元用九、天下治也。
潜龍用うるなかれとは、下なればなり。見龍田に在りとは、時にとどまるなり。終日乾乾すとは、事を行うなり。あるいは躍りて淵に在りとは、みずから試みるなり。飛龍天に在りとは、上にして治むるなり。亢龍悔ありとは、窮まるの災いあるなり。乾元の用九は、天下治まるなり。

初九:潜龍用うるなかれというのは、下位にあってまだ行動すべきでないから。
九二:見龍田に在りは、時節いまだ到らぬままに臣位に止まっていること。
九三:終日乾乾は、たゆまず努力すること。
九四:或いは躍って淵にありは、まだ急に乗り出すわけにもゆかず自己の可能性を試している状態。
九五:飛龍天に在りは、上位にあって下々を治めること。
上九:亢龍悔有りは、行き詰まっての災い。
乾元の用九:君たるもの、剛でありながら柔でもありうるならば、天下は治まる。

文言伝:第四節(天道のはたらき)

潛龍勿用、陽氣潛藏。見龍在田、天下文明。終日乾乾、與時偕行。或躍在淵、乾道乃革。飛龍在天、乃位乎天徳。亢龍有悔、與時偕極。乾元用九、乃見天則。
潜龍用うるなかれとは、陽気潜蔵すればなり。見龍田に在りとは、天下文明なるなり。終日乾乾すとは、時とともに行うなり。あるいは躍りて淵に在りとは、乾道すなわち革まるなり。飛龍天に在りとは、すなわち天徳に位するなり。亢龍悔ありとは、時とともに極まるなり。乾元の用九は、すなわち天ののりを見る。

潜龍用うるなかれとは、陽気がなお微弱で地下に潜みかくれる時、君子も隠れて世に出ないがよい。見龍田に在るは、上位にはいないが、天下すでにその感化をこうむって栄える。終日乾乾すとは、危うい時であるから、進徳修業の努力を怠ってはならない。時とともにというは、時に先立たず、時に後れぬことである。あるいは躍りて淵に在りとは、下卦を離れて上卦に上ったところ、乾の道はここではじめて変革する。革命の時だから容易に身体を決しかねている。飛龍天に在り、ここではじめて天徳に位置する。その徳あって、はじめてこの位におることが許されるから天徳と名付けた。亢龍悔ありとは、時すでに行き詰まる故に、その時にある者も行き詰まると。乾元の用九は、剛にして柔なるべきことを説く。ここに至って天の法則が見られる。

文言伝:第五節(乾の偉大さ)

乾元者、始而亨者也。利貞者、性情也。乾始能以美利利天下。不言所利大矣哉。大哉乾乎。剛健中正、純粹精也。六爻發揮、旁通情也。時乘六龍、以御天也。雲行雨施、天下平也。
乾元は、始にして亨るものなり。利貞は性情なり。乾始は能く美利をもって天下を利し、利するところを言わず、大いなるかな。大いなるかな乾や、剛健中正、純粋にして精なり。六爻発揮して、旁く情を通ずるなり。時に六龍に乗じて、もって天を御するなり。雲行き雨施して、天下平らかなるなり。

君子以成徳爲行、日可見之行也。潛之爲言也、隱而未見、行而未成。是以君子弗用也。君子學以聚之。問以辨之。寛以居之。仁以行之。易曰、見龍在田、利見大人、君徳也。
君子は成徳をもって行ないを為し、日にこれを行ないに見わすべきなり。潜の言たる、隠れていまだ見われず、行ないていまだ成らざるなり。ここをもって君子は用いざるなり。
君子は学もってこれを聚め、問をもってこれを辨ち、寛をもってこれに居り、仁をもってこれを行なう。易に曰く、見龍田に在り、大人を見るに利ろしとは、君徳あるなり。

九三、重剛而不中。上不在天、下不在田。故乾乾。因其時而惕。雖危无咎矣。
九三は重剛にして中ならず。上は天に在らず、下は田に在らず。故に乾乾す。その時に因りて惕る。危うしといえども咎なきなり。

九四、重剛而不中。上不在天。下不在田、中不在人。故或之。或之者、疑之也。故无咎。
九四は重剛にして中ならず。上は天に在らず、下は田に在らず、中は人に在らず。故にこれを或す。これを或すとは、これを疑うなり。故に咎なきなり。

夫大人者、與天地合其徳、與日月合其明。與四時合其序。與鬼神合其吉凶。先天而天弗違。後天而奉天時。天且弗違。而況於人乎、況於鬼神乎。
それ大人は、天地とその徳を合わせ、日月とその明を合わせ、四時とその序を合わせ、鬼神とその吉凶を合わす。天に先だちて天違わず、天に後れて天の時を奉ず。天すら且つ違わず、しかるをいわんや人をおいてをや、いわんや鬼神においてをや。

亢之爲言也、知進而不知退、知存而不知亡、知得而不知喪。其唯聖人乎。知進退存亡、而不失其正者、其唯聖人乎。
亢の言たる、進を知って退くを知らず、存するを知って亡ぶを知らず、得るを知って喪うを知らざるなり。それただ聖人か。進退存亡を知って、その正を失わざる者は、それただ聖人か

 

 

 

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