01.乾為天(けんいてん)【易経六十四卦】

易経
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乾為天(偉大なる天・君たるの道/昇りすぎた龍・月盈つれば則ち虧く)

authority:権威/creative:創造
表面壮大なれど内容に難あり。倦まず弛まず日夜精進すべし。
進み過ぎれば即ち難あるべし。
昇り過ぎた龍は下るしかない。

有天地、然後萬物生焉。
天地有りて、然る後万物生ず。
天(乾)と地(坤)があってこそ、あらゆる万物(ヒトを含む)が生ずるのである(天・人・地)
天とは、宇宙に遍満する大元気のこと。人の世においては君主・指導者などに配当し、それを龍に仮託して説いている。

運勢が昇りつめた状態を現しており、今後運勢が上向くか下向くか全く油断のならないとき。昇り詰めたといっても決して絶好調という意味ではなく、その人の持つ運勢がぎりぎりのところまで来ているということで、はた目からみたらさほどでもない場合が多い。だからとかく心が落ち着かず焦り気味でいらいらさせられたりする。
下手に動いたり、自分の浅知恵に振り回されたりしてとんでもないことになりがちだろう。
できれば現状維持を考え、変な欲を出さないこと。
もしどうしても動かねばならない時は、必ず目上か上長に相談して事を計ることが賢明。
[嶋謙州]

は目に見える形に対する名、ははたらきについての名(周易正義孔穎達くようだつ

登りすぎた竜
この卦の形を見ただけでも、全部が陽だとはおわかりでしょう。陽は男性の象徴です。易経では、この卦を力にありふれた竜に例えています。
この卦は、「登りすぎた竜はくだるしかない」ということをしめします。位負けというところですね。ですからこの卦が出た時には万事にあせってはいけません。じっくりと時の来るのを待ちましょう。
また、この卦は、だいたい男性の壮年期、つまり登りつめた年齢の意味があります。だから社会的な立場からいっても責任が重いし、仕事も手一杯やっている年頃なのです。外での毎日がかなり緊張の連続であるうえに、くつろぐべき家庭に帰っても、家庭の生活の責任を考えなければならないのは中年の男性としてのつらさでしょう。また、緊張だけで実収入を伴わないところが、この卦の欠点です。
あなたが男性ならば、お気の毒ですが、浮気どころではないのです。まず仕事に精を出すこと。いや実際にもう忙しすぎて、それどころではないかもしれません。
あなたが女性ならば、典型的な男性気質です。忙しくて、外ばかり飛び歩いていて家庭に落着けない人です。
また、この卦は、また、堅いという意味があります。役所関係、法律関係、試験などにはたいへんいい卦です。
[黄小娥/易入門]

乾。元亨。利貞。

けんは、おおいにとおる、ただしきにあり。
春夏秋冬のごとく仁礼義智の四つの徳が繰り返し循環してやまない変化の原理原則が元亨利貞であり、これを『常態』という。この原理原則から外れているのを『変態』という。

これは、六つの爻のすべてが陽の組み合わせである。
元亨利貞……初めて易を学ぶようなひとにはわかり難く、その意味を解くには、おのおの爻の説明を読まなければならない。
この卦は龍にたとえられている。もちろん想像上の動物だが、古代の中国では、一つの理想の象徴と考えられていた存在である。
たとえば登龍門という言葉がある。鯉が瀧を上り切って、龍に化するという伝説もある。むかしの絵を見ると、鯉に翼がついたもの、龍に翼がついたものなどがあるが、これは翼のない鯉に翼が生え、それから体が龍にかわり、最後にもう一度、翼が退化して純粋の龍にかわる経過を示したものといわれる。一種の想像的な進化論で、動物学的には根拠のない話だが、人間進歩の一つの象徴、寓意としてみれば深い意義も認められる。
[高木彬光/易の効用]

乾の四徳

天地の間に存在して万物を化育する四つの自然の道。
春:仁にあたる(=太極。元の働きは無限の生成化育)
夏:礼にあたる(どこまでも進行して停滞休止することがない→亨る)
秋:義にあたる(鋭いという意味/稲作物+刃物)
冬:智にあたる(一貫して変わることのない不変性を持っている)

初九。潜龍。勿用。

初九は、潜龍せんりょうなり。用うもちるなかれ。
用うとは、はたらく、行動するの意。龍は未だ地に潜むような状態であるから自重し行動せずよく力を蓄えて時を待つべきである。

龍は、雲を得て、初めて空を飛ぶことが出来るといわれているが、人間の才能も、所を得なければ、真価を発揮できないのは、それと同じことである。
大才、大きな情熱を抱いていながら、ぜんぜん世に認められない状態なのだ。諸葛孔明が、草菴に隠棲し、自ら「臥龍」と称していたころの状態んいあたるのである。
豊臣秀吉の一生にたとえるならば、日吉丸の放浪時代にあたるといってもよいだろう。
[高木彬光/易の効用]

九二。見龍在田。利見大人。

九二は、見龍田けんりょうでんに在り、大人たいじんを見るに利あり。
地中に潜んでいた龍がや地上に現れた。なおも優れた人物の指導を仰ぐがよい。

これはそろそろ、その力が世に認められはじめた初期の段階といってよい。龍が首だけ、水面の上につき出した感じなのだ。
もちろん、その全貌はあらわれていない。しかし、名馬か駄馬かを見わけるとも、名伯楽でなければ出来ないのだ。自分の才能を知ってくれる知己を探し出し、その下で日夜精励して、次の飛躍をねらっている段階である。
豊臣秀吉の一生にたとえるなら、織田信長につかえて猿とよばれていた初期の時代にあたるだろう。
[高木彬光/易の効用]

九三。君子終日乾乾、夕惕若。厲无咎。

九三は、君子終日乾々けんけん、夕べまで惕若てきじゃくたり。厲うあやけれども咎なし。
乾乾とは繰り返し一生懸命努力すること。惕若とは畏れ慎むこと。終日克己努力し、夜には一日を振り返り過失がなかったかと微に入り細に入り反省するならば咎めを免れる。

これは一種の危険期なのだ。どういう世界にも競争意識はある。嫉妬はある。一人の人間が伸びようとするときには、かならず周囲の人間が、足をつかんでひきずりおとそうとするものだ。自分の地位ががっちりと固まってしまえば、何の問題にならないような非難や中傷でもそれ以前には命とりになることが多いのだ。
もうこの時期には、本人が龍-大器であることは、そろそろまわりの人間に認められかけている。しかし、それだけに妨害も恐ろしい。
昼は自分の全力を尽くして働き、夜はその行動を反省し、過失のないように、注意を重ねていけば、たとえ危険はあっても、重大な事態を生じることはないだろうという意味なのだ。
たとえば、豊臣秀吉が織田信長に仕えていて、抜群の出世をなしとげ、柴田勝家や佐久間盛政など重臣たちの警戒と嫉妬を買いはじめたころの段階である。
彼が木下藤吉郎から改名するとき、丹羽信秀の「羽」と柴田勝家の「柴」とを一時ずつ、もらいうけて「羽柴秀吉」と名のったも、こういう先輩たちの敵対意識を、いくらかでも緩和しようとした苦肉の策であったろう。現代の社会でも、このような局面は、随所にみられる。
[高木彬光/易の効用]

九四。或躍在淵。无咎。

九四は、あるいはおどりて淵にあり。咎なし。
或は同音の惑と似た意味で未だ定まらざる状態。躍は飛ぶところまではいかないが、足が地を離れた状態。龍が飛ぼうか飛ぶまいか、ちょっと跳び上がってはやめたりして決心がつかない。行きつ戻りつの進退が定まらない状態だが、然るべき時を見定めて進退するならば咎めはない。

これは昔からいろいろの説があるが、私は龍が全身を水面にあらわして、雲をねらいつつある状態と解釈する。
たとえば、羽柴秀吉が信長の片腕として、中国征伐に出陣したときのような段階なのだ。もちろん、彼はまだ織田家の一武将にすぎないが、長年の努力で勢力も養われ、人材も配下に集まってきている。わずかばかりの中傷や失策では、その地位はゆるがないというだけの地盤はがっちり固まったのだ。
この地位まで達した人間に、下手に手を出すことは主君のほうにも危険を伴うことになる。この時代において明智光秀は多少の差こそあっても秀吉と同じ位置にあった武将なのだ。この光秀に対する信長の不当な圧迫は、ついに本能寺の変となって、信長自身の命を失わせたのである。
[高木彬光/易の効用]

九五。飛龍在天。利見大人。

九五は、飛龍ひりょう天に在り、大人を見るに利あり。
龍が時と処を得て天に昇る。しかしなお優れた人物の指導を仰ぐがよい。

この段階でついに龍は雲に乗って、天を飛ぶところまで達したのだ。もう、その前途をさえぎるものをはないのである。
「大人を見るによろし」という言葉は、二爻の説明にも出てくるが、今度は本人の位が違うのである。二爻では、眼のある主君、将来性のある主君を、自分が探しだし、その力に惹かれて自分も伸びようという感じだし、五爻では、才能力量のある人物を、自分の配下、客分に集め、その力にささえられ、押し上げられて伸びて行こうという感じなのだ。これは前に、五爻は主君、社長の位だと説明したことから、おわかりだろうが、同じ言葉でも、その場その場で、変わった意味に解釈しなければならないところに、古典の深遠な含みがある。
信長の死後、誰がその跡を継いで天下を統一するか、これは織田家の武将たちにとっては、最大の問題だっただろう。
叛旗を翻して、主君信長、その子信秀の父子を殺した明智光秀のねらいも、力によってその地位を奪おうとしたものであることには疑いない。
もちろん、他動的に与えられたチャンスには違いないが、秀吉は天才的直観で、この一点の転機を活用する。
彼はまず毛利と和を謀って、二正面作戦の危険を回避する。これを味方にひきつけて、背後の不安を除くことも、一種の「大人を見るに利し」に違いない。
光秀の行動に怒りたった織田家の武将たちは、主君の仇を討つ-という旗印の下に、続々秀吉の下に集結する。これも「大人」たちなのだ。山崎の合戦の勝敗には、いろいろの原因もあるだろうが、その一つには、光秀が天下の支持をうしなったこと、直接彼を支援してくれる武将たち、大人たちがいなかったことも数え上げられるだろう。
この山崎合戦で、雲に乗った龍、秀吉はさえぎるものもない勢いで空を飛んで行く。彼と戦って引き分けにまで持ち込めたのは、わずかに徳川家康だけ。柴田勝家も、小田原の北条家も滅ぼされ、東北の伊達政宗も、四国の長曽我部家も、薩摩の島津家も、秀吉に対して臣下の礼をとらざるを得なくなったのだ。
[高木彬光/易の効用]

上九。亢龍有悔。

上九は、亢龍こうりょうなり。悔いあり。
亢は、昇りすぎて降りられない意。盈つれば欠くる世のならい。

昇りすぎた龍は、勢いを失っている。
これは、大小を問わず、あらゆる独裁者の最後にたどる悲劇なのだ。もちろん、年齢の問題もあるだろうが、豊臣秀吉の天下統一後の耄碌ぶりは、まるで人が変わったようなものだったといわれている。朝鮮征伐、秀次の成敗、千利休の成敗など歴史を読んで、これが山崎合戦の英雄と同じ人間のしたことだろうかと、溜息をつきたくなるのは、私一人の感慨ではあるまい。
ナポレオン、ヒットラー、こういう独裁者たちも最後は「亢龍悔有り」の悲運を避けられなかった。そのような例をひいたなら、おそらくきりはないだろう。
今、変爻の原理によって、「乾為天」の上爻の陰陽を変化してみると「沢天夬」 の卦が生まれてくる。

一口に言えば、これは堤防を決壊させるような勢いなのだ。
自分に有利な勢いが尽きてしまって、逆の勢いが力を増してきたならば、どのような名将でも敗戦の運命は避けられない。戦争科学では、自分の補給力の限界を「攻勢終末点」と称して、それ以上の進撃を戒めているが、勢いというものは、往々にして、その冷静な判断を無視してしまう。
ナポレオンも、ヒットラーのモスクワ攻撃は戦局が逆転した瞬間、その命とりになったのだ。大ナポレオン帝国も、千年の寿命を持つとヒットラーの呼号したドイツ第3帝国も、結局は一場の悪夢にすぎなかった。
いや、昭和16年から17年にかけて、日本が征服した大地域、それを今地図の上に現在の日本と比べるならば、誰でも「亢龍悔有り」 の感慨をおぼえずにはおられないだろう。
勢いに乗じすぎた龍は、九天の上から九地の底へ、たたきこまれなけれないではおられない。そして、その崩壊は、建設の勢いが大きかっただけに、また、物凄い勢いを持っている。これは、極端なたとえのようだが、もともと「乾為天」であらわされるような人間は、歴史の流れを変える雄なのだ。
一般の人間が、この卦を得た時には、位負けするといわれるのも当然のことだろう。
しかし、易占、六爻の変化による勢いの消長を、だれにもわかるように、平易に解説するには、この例が一番適切だと、私は思うのである。
[高木彬光/易の効用]

用九。見羣龍无首。吉。

用九は、羣龍ぐんりょうかしらなきを見る。吉なり。
群れなす龍が雲の中にその首を隠している。剛性強きものは意図して頭角を表さないようにすべきである。偉大な天の徳もそれを誇示することなく一歩へりくだってこそ吉である。

彖伝

彖曰、大哉乾元、萬物資始。乃統天。雲行雨施、品物流形。大明終始、六位時成。時乘六龍、以御天。乾道變化、各正性命、保合大和、乃利貞。首出庶物、萬國咸寧。
彖に曰く、大いなるかな乾元、万物りて始む。すなわち天をぶ。雲行き雨施し、品物ひんぶつ形をく。大いに終始を明らかにすれば、六位りくい時に成る。時に六龍りくりゅうに乗り、もって天をぎょす。乾道変化して、おのおの性命せいめいを正しくし、大和たいわを保合するは、すなわち利貞なり。庶物しょぶつに首出して、万国ことごとくやすし。

天道は万物の始まりと宇宙を司る大いなるエネルギー。天の生気が雲を巡らせ恵みの雨を降らし万物を生育しそれぞれの個性を発揮させる。この天の生意は遍く流通し拡散する(生意の発生展開)。
天道の始めから終わりまで(元亨利貞/春夏秋冬)を明らかにすれば、卦の六つの位(潜龍→亢龍)は、それぞれの然るべき時にしたがって完成する。時として六頭の龍(六陽爻)にひかせた車に乗って、天の軌道を自在に走らせる。刻々と変化する天道は万物を生育する。生まれながらに持つ天から授けられた『いのちのちから』は(天から受けた⇒性・天が与えた⇒命)各々の本質に従って造られているこの大調和を持続し(保)これに和する(合)これこそが利貞(生意の完成)である。
特出して優れた(首出)『いのちのちから』によって、営み、活かし活かされ、育み育まれことごとく安寧な世になるのである。

象伝

象曰、天行健。君子以自不息。
象に曰く、天行は健なり。君子もって自強してまず。
天の働きは健やかで止むことがない。それに倣って、自彊息じきょうやまず(=不息ふそく)自ら努め励んで休まない。修養努力することが大切である。

屁一発だって人と貸し借りでけんやないか。
誰でも自分は自分を生きるよりほかないんじゃ。
[澤木興道(さわきこうどう1880-1965)]

潜龍勿用、陽在下也。見龍在田、徳施普也。終日乾乾、反復道也。或躍在淵、進无咎也。飛龍在天、大人造也。亢龍有悔、盈不可久也。用九、天徳不可爲首也。
潜龍用うるなかれとは、陽にして下に在ればなり。見龍田に在りとは、徳の施し普きなり。終日乾乾すとは、道を反復するなり。あるいは躍りて淵に在りとは、進むも咎なきなり。飛龍天に在りとは、大人の造なるなり。亢龍悔ありとは、盈つれば久しかるべからざるなり。用九は、天徳首たるべからざるなり

初九:潜龍用うるなかれというのは、陽爻が一番下にあるからである。
九二:見龍田に在りとは、龍が地上に現われ徳の感化が遍く万物に施されること。
九三:終日乾々とは、朝に夕に反復し実践することがみな道にかなうこと。
九四:あるいは躍りて淵に在りとは、無理な前進をしないことが咎を免れる途である。
九五:飛龍天に在りとは、聖人だけの仕事である。
上九:亢龍悔い在りとは、盈ちれば久しからずに動けること。
用九:天徳首たるべからざるなりとは、天の徳は陽剛だが、陽剛でもって人の先頭に立つことはよくない、六陽が柔に変じうることで吉になるということである。⇒ 老子:三宝の徳に通じる。

我れに三宝有り、持してこれを保つ。
一に曰く慈、二に曰く倹、三に曰く敢えて天下の先と為らず
慈なるが故に能く勇、倹なるが故に能く広く、敢えて天下の先と為らざるが故に能く器の長を成す。

そのわたしの道には三つの宝があり、大切に守りつづけている。
その一つは「慈」――いつくしみの心であり、その二つは「倹」――つづまやかさであり、その三つは世の人の先に立たぬことである。慈しみの心をもつから真の勇者であることができ、倹やかであるから広く施すことができ、世の人の先に立たぬから器量をもつ人のかしらとなることができるのだ。
[老子:第六十七章三寳]

文言伝

文言伝:第一節(四徳)

文言曰、元者善之長也。亨者嘉之會也。利者義之和也。貞者事之幹也。
君子體仁足以長人。嘉會足以合禮、利物足以和義。貞固足以幹事。君子行此四徳者、故曰、乾元亨利貞。

文言に曰く、元は善の長なり。亨はかいなり。利は義の和なり。貞は事のかんなり。
君子は仁を体すればもって人に長たるに足り、会を嘉すればもって礼に合するに足り、物を利すればもって義を和するに足り、貞固ていこなればもって事に幹たるに足る。君子はこの四徳を行う者なり。故に曰く、乾は元亨利貞と。

元は万物の始まり(春)善の最たるもの(仁)
亨は草木が美しく生長する時(夏)嘉は悦び、会は集まる、美なるものの集まる時(礼)
利は実りの時(秋)私利私欲を断ち和を以て実りを得る(義)
貞は生々成就(冬)内面の充実、智慧知識は物事の根幹となる(智)

私心なく思いやり慈しむ仁愛の精神を体得すれば人々を善導できる者となる。
人々が悦び集まるように物事を進めていくことが全体の調和につながる。
私利私欲を果断し眼前の利に迷わずうことなく万人に幸福をもたらす利こそ『義を和するの利』である。
智慧が明らかであり貞正にして堅固であるからこそ物事が成就することができる。物事の根幹にあるのが智である。
君子とは、すぐれて健(=乾)なる四つの徳を実行できる者である。故に「乾は元亨利貞」という。

文言伝:第二節(人事)

初九曰、潛龍勿用、何謂也。
子曰。龍徳而隱者也。不易乎世、不成乎名、遯世无悶、不見是而无悶。樂則行之、憂則違之。確乎其不可拔、潛龍也。
初九に曰く、潜龍用うるなかれとは、何の謂いぞや。
子曰く、龍徳ありて隠れたる者なり。世にえず、名を成さず、世を遯れていきどおることなく、是とせられずして悶ることなし。楽しめばこれを行い、憂うればこれをる。確乎としてそれ抜くべからざるは、潜龍なり。

潜龍とは潜んでいる龍。才能を秘め聖人の徳がありながら、最下層に隠れている人のことである。世が移り変わっても主義を易えることもなく、名声欲もない。世に用いられず隠遁していても、悶え苦しむこともないし、誰にも正しいとされなくても、不平を抱くことがない。世の中がよく治って、泰平であるときは楽しむのであって、、乱世で我が身の汚される憂いがあるときは、世間に背を向けて去る。かようにその志は確乎として堅固であり、その志を抜き動かすことはできない。(確乎不抜)それが潜龍である。

九二曰、見龍在田、利見大人、何謂也。
子曰。龍徳而正中者也。庸言之信、庸行之謹、閑邪存其誠、善世而不伐、徳博而化。易曰、見龍在田、利見大人、君徳也。
九二に曰く、見龍田に在り、大人を見るに利ろしとは、何の謂いぞや。
子曰く、龍徳ありて正中なる者なり。庸言ようげんこれ信にし、庸行ようこうこれ謹み、邪をふせぎてその誠を存し、世に善くしてほこらず、徳ひろくして化す。易に曰く、見龍田に在り、大人を見るに利ろしとは、君徳あればなり。

龍のごとき徳があって、しかも潜むでもなく、躍るでもなく、ちょうど中庸を得た人のことである。日常のことばにいつわりがなく、日々の行いを謹しみ、邪念を防いで天成の誠を生かし続ける。かような人の徳はおのずと世の中を善くするであろうが、決してその功績を誇ることはない。その徳は広大で、世人を感化する。易に、見龍田に在り、大人を見るに利ろし、というのはまだ君主の位についていなくても、君主たるべき徳ある人をいうのである。

九三曰、君子終日乾乾、夕惕若、厲无咎、何謂也。
子曰、君子進徳脩業。忠信所以進徳也。脩辭立其誠、所以居業也。知至至之、可與幾也。知終終之、可與存義也。是故居上位而不驕、在下位而不憂。故乾乾。因其時而惕、雖危而无咎矣。
九三に曰く、君子終日乾乾し、夕べに惕若たり、厲けれども咎なしとは、何の謂いぞや。
子曰く、君子は徳に進みぎょうを修む。忠信は徳に進む所以なり。辞を修めその誠を立つるは、業に居る所以なり。至るを知りてこれに至る、ともに幾を言うべきなり。終わるを知りてこれを終わる、ともに義を存すべきなり。この故に上位に居りて驕らず、下位に在りて憂えず。故に乾乾す。その時に因りておそるれば、危うしといえども咎なきなり。

君子は日々道徳に進み、業を修めねばならぬ。忠信(まごころ)は内面的な、進徳(徳を進めて道を行く)の手段である。一言も虚偽のないようにして誠意を立てるのが、外交的な、修業の手段である。進徳にあたっては、まず徳の最高の到達点を見定めて、それに到達しようと努めるべきである。そうして初めて神秘の境地(=機)を論ずることができよう。修行においては、仕事の終着点を見定めてそこまでやり遂げることが肝要である。このたゆまぬ実践のうちにこそ、道義が存するであろう。このようであれば、上位にあって驕りたかぶることなく、下位にあっても煩悶することはない。故に、爻辞に乾乾す、その時によって惕るという。危うしといえども咎なしというのは、驕らず憂えずの態度による。

九四曰、或躍在淵、无咎、何謂也。
子曰、上下无常、非爲邪也。進退无恆、非離羣也。君子進徳脩業、欲及時也。故无咎。
九四に曰く、あるいは躍りて淵に在り、咎なしとは、何の謂いぞや。
子曰く、上下すること常になきも、邪をなすにはあらざるなり。進退することも恒なきも、群を離るるにはあらざるなり。君子徳に進み業を修むるは、時に及ばんことを欲するなり。故に咎なきなり。

跳躍したりしなかったり進んだり退いたりと行動が一定でないのは、よこしまなことをしようというのではない。世間と離れ他に頼らず自主的に歩を進めようとするのでもない。九三において、君子は十分に徳に進み業を修めた。だから今は進むべきときに遅れぬように進もうとするのである。故に、咎はない。

九五曰、飛龍在天、利見大人、何謂也。
子曰、同聲相應。同氣相求。水流濕、火就燥。雲從龍、風從虎、聖人作而萬物覩。本乎天者親上、本乎地者親下。則各從其類也。
九五に曰く、飛龍天に在り、大人を見るに利ろしとは、何の謂いぞや。
子曰く、同声相い応じ、同気相い求む。水は湿うるおえるに流れ、火はかわけるに就く。雲は龍に従い、風は虎に従う。聖人おこりて万物観る。天に本づく者はかみを親しみ、地に本づく者はしもを親しむ。すなわち各各その類に従うなり。

同じ音に調律した弦は互いに共鳴し、同気は、互いに感応し引きあうものである。水が流れるところは潤い、火が燃えるところは乾燥する。龍が唸れば雲が湧き起こり、虎が吠えれば風が巻き起こる。聖人がこの世に立ち上がれば、一切衆生・万物すべてこれを仰ぎ見て悦び従うであろう。すべて、生命源を天から受けるものは、その頭部が上を向いている。生命源を地から受けるものは、その根が下に向かう。これは物みなその類に従うという自然の法則による。

上九曰、亢龍有悔、何謂也。
子曰、貴而无位。高而无民。賢人在下位而无輔。是以動而有悔也。
上九に曰く、亢龍悔いありとは、何の謂いぞや。
子曰く、貴くして位なく、高くして民なく、賢人下位にあるもたすくるなし。ここをもって動けば悔あるなり。

『上』の位は貴いようであるが実質的には位がない(五が君位)。高すぎて、ついて来る民がいない。九五以下の賢人が下位におるけれども、上九の傲慢さの故に、誰も補佐しようとしない。このようなわけで、動けば後悔する結果になるのである。

文言伝:第三節(時と位)

潛龍勿用、下也。見龍在田、時舍也。終日乾乾、行事也。或躍在淵、自試也。飛龍在天、上治也。亢龍有悔、窮之災也。乾元用九、天下治也。
潜龍用うるなかれとは、下なればなり。見龍田に在りとは、時にとどまるなり。終日乾乾すとは、事を行うなり。あるいは躍りて淵に在りとは、みずから試みるなり。飛龍天に在りとは、上にして治むるなり。亢龍悔ありとは、窮まるの災いあるなり。乾元の用九は、天下治まるなり。

初九:潜龍用うるなかれというのは、下位にあってまだ行動すべきでないから。
九二:見龍田に在りは、時節いまだ到らぬままに臣位に止まっていること。
九三:終日乾乾は、たゆまず努力すること。
九四:或いは躍って淵にありは、まだ急に乗り出すわけにもゆかず自己の可能性を試している状態。
九五:飛龍天に在りは、上位にあって下々を治めること。
上九:亢龍悔有りは、行き詰まっての災い。
乾元の用九:君たるもの、剛でありながら柔でもありうるならば、天下は治まる。

文言伝:第四節(天道のはたらき)

潛龍勿用、陽氣潛藏。見龍在田、天下文明。終日乾乾、與時偕行。或躍在淵、乾道乃革。飛龍在天、乃位乎天徳。亢龍有悔、與時偕極。乾元用九、乃見天則。
潜龍用うるなかれとは、陽気潜蔵すればなり。見龍田に在りとは、天下文明なるなり。終日乾乾すとは、時とともに行うなり。あるいは躍りて淵に在りとは、乾道すなわち革まるなり。飛龍天に在りとは、すなわち天徳に位するなり。亢龍悔ありとは、時とともに極まるなり。乾元の用九は、すなわち天ののりを見る。

潜龍用うるなかれとは、陽気がなお微弱で地下に潜みかくれる時、君子も隠れて世に出ないがよい。見龍田に在るは、上位にはいないが、天下すでにその感化をこうむって栄える。終日乾乾すとは、危うい時であるから、進徳修業の努力を怠ってはならない。時とともにというは、時に先立たず、時に後れぬことである。あるいは躍りて淵に在りとは、下卦を離れて上卦に上ったところ、乾の道はここではじめて変革する。革命の時だから容易に身体を決しかねている。飛龍天に在り、ここではじめて天徳に位置する。その徳あって、はじめてこの位におることが許されるから天徳と名付けた。亢龍悔ありとは、時すでに行き詰まる故に、その時にある者も行き詰まると。乾元の用九は、剛にして柔なるべきことを説く。ここに至って天の法則が見られる。

文言伝:第五節(乾の偉大さ)

乾元者、始而亨者也。利貞者、性情也。乾始能以美利利天下。不言所利大矣哉。大哉乾乎。剛健中正、純粹精也。六爻發揮、旁通情也。時乘六龍、以御天也。雲行雨施、天下平也。
乾元は、始にして亨るものなり。利貞は性情なり。乾始は能く美利をもって天下を利し、利するところを言わず、大いなるかな。大いなるかな乾や、剛健中正、純粋にして精なり。六爻発揮して、旁く情を通ずるなり。時に六龍に乗じて、もって天を御するなり。雲行き雨施して、天下平らかなるなり。

乾元は天の徳の始めであった。天の生意の発動するとき、それは万物となってすくすく成長せずにおかない。利貞とは秋冬の結実の時。秋冬は生意の枯渇の時ではない。新たな創造のために種子の用意される時期である。利貞の利は、万物皆利を得、万物各々そのよろしきところを得るのであり、貞は正しくして堅固なることであり、正しいところに堅固に安住することである。それが乾の性質であり、はたらきであり、すなわち乾の心である。ここにこそ乾の本質が見られる。乾が天下の万物を始める力は、天下の万物を生成発達せしめ、天下の万物にこの上もなくよくして美しき利益を与え得る力を持っておる。その利益する対象は、普遍平等、とくにどれに利益するということはできない。ここに乾の大きさがある。

乾は偉大なるかな。乾の卦の徳は、剛であって強く、いかなるものにも屈服することがない。その作用は健であって、活動して息むこともなく、疲れることもないのである。中であって行き過ぎも足らぬこともなく一方に偏ることもなく、正であって極めて正しく、純であって雑り物なく、精であって、雑り物がなく極めて善美潔白であり、精であって極々の生粋である。六爻という象徴となってひろげられるとき、それは乾道の秘密をあますことなく明らかにしてくれるであろう。六爻は、龍の形をとる。聖人は時に応じて六爻の龍に乗って天を治めるのである。このように、雲が空中に運行し、雨が地上に降り注いで、万物みな生成発育し、天下泰平に治まるのである。

文言伝:第六節

君子以成徳爲行、日可見之行也。潛之爲言也、隱而未見、行而未成。是以君子弗用也。君子學以聚之。問以辨之。寛以居之。仁以行之。易曰、見龍在田、利見大人、君徳也。
君子は成徳をもって行ないを為し、日にこれを行ないに見わすべきなり。潜の言たる、隠れていまだ見われず、行ないていまだ成らざるなり。ここをもって君子は用いざるなり。
君子は学もってこれを聚め、問をもってこれを弁え、寛をもってこれに居り、仁をもってこれを行なう。易に曰く、見龍田に在り、大人を見るに利ろしとは、君徳あるなり。

初九の解釈。君子は、完成した徳をもって行為の基準とする。心の中だけでなく、日常の目に見える行為となったのが完成である。ところで潜ということばは、その身隠れて、いまだ世に現れず、その行ないがまだ目に見えたものにならないことを意味する。それで君子は、この時期には社会的活動に出てはいけないのである。

君子學以聚之。問以辨之。寛以居之。仁以行之。
「学問」という言葉の出典。「これ」とは徳のこと。
「学問」とは、学び、そして書物や師に問い、自問し、為すべきことを弁別すること。そして、学んだことを会得したら、「こうでなくてはいけない」と狭量にならず、人にも自分にも物事にも、寛容な心で思いやりをもって実行することが肝要である。
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君子(および君子を目指す者)は、
(1)学習→聚斂(収斂) まなぶ、おそわる→知識をあつめる
(2)疑問→思辯(思辨、思弁)、辨別(弁別)
「なぜ?」と考える→分ける、わかる、わきまえる、考える
(3)寛然→平居 ゆったり→日常
(4)仁愛→実行 思いやり→実行、実践
時系列的に見ると、(1)はインプット、(2)は咀嚼、(3)は消化、(4)はアウトプット。
世間的に見ると、(1)と(2)のプロセスは内省的で峻厳な「潜龍」で外の人からは見えにくいが、(3)と(4)は外向性に富むおおらかな「見龍」で外の人からも見える。

初九の爻の辞を説明する。君子たるものは、事を行うには、まず道徳を成就しなければならぬ。自分の道徳ができあがった上で事を行うのであって、道徳がどれだけできておるかということは、日々の行いの上でそれをみることができるのである。しかるにこの初九の潜龍の潜という言葉は、低い位地あるいは人から見られないところに隠れておってまだ人の眼にあらわれず、事を行ってもまだ道徳が十分に成就していない。それゆえに、君子は事を行わないのである。

九三、重剛而不中。上不在天、下不在田。故乾乾。因其時而惕。雖危无咎矣。
九三は重剛にして中ならず。上は天に在らず、下は田に在らず。故に乾乾す。その時に因りて惕る。危うしといえども咎なきなり。

九三は陽爻が陽位におる。剛の要素が重なって、しかも内卦の「中」(二の位)をはずれている。上を見ればまだ天(五)にはほど遠く、下を見ればすでに田(二)を離れてしまった。危うい地位である。故にあくせくと努力して、その時その時に戒懼かいくしなければならない。そうすることで、危ういながらも咎を免れるであろう。

九三の爻の辞を説明する。九三の爻は剛をもって剛のいくつも重なっておる上におり、剛に過ぎる恐れがあり、そうして中を得ておらず、中の徳にといて欠点があり、上は天の正しき位におるのでもなく、下は地上の田の位におるのでもあく、まことに危険なる位置である。それゆえに九三の君子は終日乾乾として勤勉して休息することなく、その時々によって、過ちがあってはならぬと、自ら戒め自ら恐れておる。その時によりてというは、いかなる時間にもという意味である。そうすることで、まことに危うい位地であるけれども、過失はなく、人から咎められることはない。

九四、重剛而不中。上不在天。下不在田、中不在人。故或之。或之者、疑之也。故无咎。
九四は重剛にして中ならず。上は天に在らず、下は田に在らず、中は人に在らず。故にこれを或す。これを或すとは、これを疑うなり。故に咎なきなり。

九四は剛爻である。下卦すべて剛爻だったのにかさねてこれまた剛爻、故に重剛という。(朱子はこの爻は剛爻で柔位におるから、重剛とはいえない重の字は衍文〈よけいにまぎれこんだ字〉だ、と。)五の「中」をはずれている。五の天にもとどかず、二の田にも遠い。六爻を天地人にあてると、初と二が地の位、三と四が人の位、五と天が天の位にあたるが、本当の人位は三である。三は地に近くて人の住むべきところ、四は天に近く人の住みかにふさわしくない。で、九四は人界にもいないわけである。かように不安定だから、爻辞に「或」(或躍在淵の或)といった。或というのは疑惑する意味である。遅疑して妄進しないから咎めがない。

九四の爻の辞を説明する。重剛は九三の重剛と同じく、陽爻がいくつも重なっておる上にまた陽爻があるので、剛が重なっておるのである。剛に過ぎる恐れがあり、これも危うい位地である。この爻は、上は天のくらいにおらず、下は田の位におらず、中は人の正しい位におらぬ。四爻目であるので、人の位の中であるけれども、人の正しい位ではない。それゆえに、人に在らず、人の正しい位におらぬという。九三よりも一層危うい位地である。それゆえに、この爻には或という字が用いてある。或というのは、どうすればよいかと疑うのである。どうすればよいかと疑いを起こし、事をなすのによく考慮し、その時に応じて、進むべきときには進み、退くべきときには退くので、それゆえに咎なく、過失はないのである。

夫大人者、與天地合其徳、與日月合其明。與四時合其序。與鬼神合其吉凶。先天而天弗違。後天而奉天時。天且弗違。而況於人乎、況於鬼神乎。
それ大人は、天地とその徳を合わせ、日月とその明を合わせ、四時とその序を合わせ、鬼神とその吉凶を合わす。天に先だちて天違わず、天に後れて天の時を奉ず。天すら且つ違わず、しかるをいわんや人をおいてをや、いわんや鬼神においてをや。

九五、大人を見るに利ありの解釈。人は本来、天地鬼神と同等なのであるが、我欲に蔽われ、肉体に縛られて、それらと通じ得ない。そもそも大人というのは、その徳は天地の徳と等しく、その聡明は日月の明るさに等しい。大人の布く秩序は四季のめぐりのように整然としており、大人の勧善懲悪は、鬼神が降す吉凶に等しい。大人が創意によって天の作らなかった文化を作った場合も、それは自然と天道に合致し、天理がかくかくであると知った場合は、もとより天の法則性(天時)を遵奉して外れることはない。天さえもが大人の行動と行き違うことがないのである。まして天より一段下る人や鬼神(陰陽の気の作用)が、この大人にそむきえようか。

九五の爻の辞を説明する。この爻は乾の主爻であるので、大人の徳を讃嘆してある。この大人が具えておる徳は、すべて、天理の公なるものであり、少しも人欲の私が雑っておらず、極めて公明、極めて正大である。もし少しでも人欲の私が雑っておるときは、天地・日月・四時・鬼神と一体になることはできないのである。日月が照らさぬ隈なきがごとく、大人の智慧は明らかにして照らさぬところはないのである。一年には春夏秋冬の四時があり、その順序はいささかも乱れ違うことはない。大人が事を行うには、それぞれ適当なる順序があり、適当なる時期に適当なることを行うのであり、四時の順序が乱れることなきがごとくである。大人は天地の陰陽の神霊である鬼神と吉凶禍福をともにする。大人にも鬼神にも元来吉凶禍福はない。けれども、天下の人々が苦しむときは、大人は鬼神とともにそれを苦しいで己の凶とし禍とする。天下の人々が楽しむときは、大人は鬼神とともにそれを悦んで己の吉とし福とする。それを鬼神とその吉凶を合わすという。大人が、天の時がまだ至らないのに、天に先だって事を行うときは、天はそれに違うことなく、大人の行うところに順応する。もし大人が天に後れて事を行うときは、天の時を奉じ、天の時に順って事を行うである。天でさえも、この大人のなすところに順応して、いささかも違うことはない。まして人間はなおさらそれに違うことはない。まして鬼神は、大人のなすところに違うことはない。

亢之爲言也、知進而不知退、知存而不知亡、知得而不知喪。其唯聖人乎。知進退存亡、而不失其正者、其唯聖人乎。
亢の言たる、進を知って退くを知らず、存するを知って亡ぶを知らず、得るを知って喪うを知らざるなり。それただ聖人か。進退存亡を知って、その正を失わざる者は、それただ聖人か。

上九亢龍の解説。亢ということば、進むことだけ知って退くことを知らず、生きながらえることだけを知って、亡ぶこともあるということを知らず、獲得することだけを知って喪失の可能性を知らない意である。極端ということの弊害を知り、後悔に至らないのは、聖人だけであろうか。そうだ。進むことがあれば必ず退くことがあり、存するものは亡ぶこともあるということを知って正しく対処しうる。それは聖人だけであろう。

上九の爻の辞を説明する。亢という言葉は、あまりに高くのぼることであり、上九は、ただ進むことのみを知っていて、退くことを知らない。ただ自分の位を存し保つことのみを知っていて、亡びることを知らない。物を得ることのみを知っていて、持っておる物を失うことを知らない。それただ聖人ばかりである、進むことを知り、それとともに退くことを知る、自分の位を保存することを知り、それとともに自分の位を失って亡びることもあるべきことを知り、善い方と悪い方と両方を知って、その正しき道を取り失うことのないものは、それただ聖人ばかりである。

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