02.坤為地(こんいち)【易経六十四卦】

易経
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坤為地(地の包容性・臣下の道/母なる大地)

obedience:服従/receptive:受容・無事・誠実・生命・大地・安定受動
野心を抱かず、消極的に事に当たるべし。身辺難事多き時期なり。
目的控えめにすべし、されば達成されん。
良き助言者を得ることが肝要。物欲に走るべからず。

柔よく剛を制す道
地(坤)のはたらきは、万物を生み出し養い育てることであるが、地(坤)自体にその力があるのではなく、天(乾)の元気を受けてはじめて万物を生み出し養い育てることができるのである。
「坤」の卦は大地の象徴である。大地は静止しているが、しかも豊かな力を蓄えてあらゆるものを生み育てる。全部陰爻でできているこの卦は、「乾」の剛強、積極、男性的に対して、柔弱、消極、女性的を意味する。もちろん柔弱であるということは、剛強よりも劣っていることではない。天のエネルギーも地に受けとめられてこそ発現する。男性の精気も女性を得てはじめて新しい生命をつくる。
陰陽は対立しながら統一されているものである。
この卦は、消極を守ることによって積極をしのぎ、後れることによって先に立ち、柔よく剛を制する道を示している。

運勢から見れば最低の状態に見えるが、実際はそうでもなく案外平穏無事に見えることが多い。しかし、反面うだつの上がらぬことが多く、心は迷い勝ちで物事が優柔不断である。これから上向くか下向くかはその人の意志と努力次第で、ともすれば暖簾に腕押しのようなことになるから充分注意が肝要。
何事も控えめにして、人に従って自分が先立たないようにすること。現状維持を考えて深追いしたりしないことが大切。辛抱と忍耐はこの卦のモットーで、虚勢を張ったり不遜な態度をしたりして人に不快な思いをさせたりすることのないよう常に従順であるよう心掛けること。
運勢が弱いときには無理をせず流れが変わった時に進むことにしよう。
[嶋謙州]


乾の卦は各爻すべて陽であるのに対して、坤の卦はすべて陰である。
これを要約する言葉は『厚徳戴物こうとくさいぶつ』~徳を厚くし、物を戴す~
これは乾の徳、すなわち天地創造のエネルギー、力を受けて万物を生成しこれを包容すること。これが坤の特徴であり、本当の意味である。乾坤二つの卦で、天地万物の生成化育の実体と原則、本質が要約されている。
[安岡正篤]

坤。元亨。利牝馬之貞。君子有攸往。先迷後得主。利。西南得朋。東北喪朋。安貞吉。

坤は、元いに亨る。牝馬の貞に利あり。君子往くところあり。先んずれば迷い、後るれば主を得。西南には朋を得、東北には朋を喪うに利あり。貞に安んずれば吉なり。

ものごと大いに通る。ただし、牝馬のようにおとなしく健やかな生き方を正道として持続する場合にのみ利益がある。君子(=占う人)がとこかに出かけようとするとき、人の先に立とうとすれば迷い、人の後について行くようにすればしっかりした主人を得てうまくいく。西南に行けば友が得られる。反対に東北に行けば仲間を失うが、大体の傾向として正しい道に順い安らかで正しくあれば吉である。

陰陽の徳を象徴する生き物は、陽には天を翔る龍、陰には地を行く牝馬がいる。貞に利ありとは、牝馬は従順の象徴であり、信頼は従うべき時に堅く徹底的に従うことが大切である。

「元亨利、牝馬の貞」元は物事が始まる。亨は元で始まった物事がだんだんに成長して盛んになる。利は成長して盛んになった物事が引きしまって各々そのよろしきところ、その便利とするところを得るのである。こちらから他に働きかけることなく、向こうの働きかけて来るのに従順に従い、そして正しくかつ固いのである。絶対他力本願が坤の卦の徳である。
「君子有攸往。先迷。後得主」君子たるものがどこへか行こうとするときに、自分が先に立って行くときは、道に迷うて、とんでもないところへ行くことになる。人に後れて人のあとについて行くときは、主人とするところのものすなわち先達を得て、道に迷うことがなく、無事に目的地に達せられるのである。
「利西南得朋。東北喪朋。」西南におるときは自分の同類の仲間を得、後に東北にゆくときは自分の同類の仲間を失ってしまうがよろしい。若い時には、自分のおるところの陰の位置すなわち西南にあって、自分の同類の仲間の人たちと一緒になって、勉強修養するがよろしい。そうして、後に学問修養が成就して東北の方すなわち艮の山の高いところに登り、すなわちあるいは朝廷に仕えるなり、なんらかの高い位地に登ったときは、以前の自分の仲間を忘れて、公平に賢人を賢人とし、尊敬すべき人を尊敬し、用いるべき人を用いるようにしなければならぬのであり、そうするがよろしい。学閥をつくったり、党閥をつくったり、藩閥をつくったりせず、至極公平でなければならぬ。
「安貞吉。」貞すなわち正しくしてかつ固き徳におちついて動かず、正しい道を堅く操り守るときは吉である。
[安岡正篤]

おとなしい牝馬
形を見ると、全部が陰になっているでしょう。陰は女性の象徴です。牝馬のようにおとなしく自分の道を守っていれば、まもなく道が開けるのです。こういうときは、万事控えめに先を争わないほうがいいのです。満員のバスを一台見送れば、次にはすいたバスがやってくるということになるのです。この卦は、前の卦が男性の壮年期をあらわすのと反対に、典型的に女性の従順さをあらわします。
女性というものは、その外見はともあれ、心底では自分が従順につかえる男性を求めているのです。慈悲深い心豊かな父親を愛し、信頼できる夫を求め、力強いたくましい息子に希望を託しているのです。この卦は女性の従順になりたいという無意識の欲求を表します。
だからすべて、年長者の意見にしたがい、その教えを守ることが大事です。人に使われたり、命令を受けて行動する方がよいのです。結婚はお互いに見通しがつかず、迷いの多いときです。どちらもなよなよと積極性を欠いているからです。まず年長者に意見を聞くといいでしょう。
あなたが男性ならば、まじめですが、内向的で少し頼りにならないところがあります。女性ホルモンが多すぎるのです。あなたが女性ならば、やさしい世話女房で、子供にいい母親になれるのです。
[黄小娥/易入門]

この卦は前の「乾為天」とは反対に、六爻のすべてが陰からなり立っている。
ということは、万事受け身の立場に立っていることを表すものなのだが、それが決して悪いわけではない。
天上の太陽から熱と光を受け、万物を育むものが大地である。というのは、人間が最初に考えつく思想なのだ。聖書の天地創造の部分もその思想形式としては全く同じである。
牝馬の貞というのは従順の徳を説いていると見ればよい。女の心得、母の心得というようなものなのだ。
従順を何よりも尊ぶために、この卦を得た場合に、何よりも忌むのは「われ先に」という考え方である。女房役、番頭役という境遇に安んじて、自分の立場を守り、下手な謀叛気を起こさないという心掛けが大事である。
[高木彬光/易の効用]

彖伝

彖曰、至哉坤元、萬物資生。乃順承天。坤厚載物、徳合无疆、含弘光大、品物咸亨。牝馬地類、行地无疆。柔順利貞、君子攸行。先迷失道、後順得常。西南得朋、乃與類行。東北喪朋、乃終有慶。安貞之吉、應地无疆。
彖に曰く、至れるかな坤元、万物資りて生ず。乃ち天に順承す。坤厚くして物を載す、徳无疆むきょうに合う。含弘光大がんこうこうだいにして、品物ひんぶつことごとく亨る。牝馬は地の類、地を行くこと无疆なり。柔順利貞、君子の行うところなり。先んずれば迷いて道を失い、後るれば順って常を得。西南には朋を得、すなわち類と行くなり。東北に朋を喪う、乃ち終に慶びあるなり。安貞の吉は、地の无疆なるに応ず。

坤は天地の地であり、陰陽の中では陰を表します。太陽の光や雨など天の気が地上に注がれ、大地はそれを受け取り、ありとあらゆるものを育成します。陰の徳は受容力や包容力にあふれ、限りなく広がっています。順序正しく、受容して育成することを代表する女性や母、妻、臣下の徳は、陰徳と呼ばれます。化粧品メーカーの資生堂は、「資りて生ず」という言葉から社名をつけています。

坤元の元解釈_乾の彖伝には、「大いなるかな乾元、万物資りて始む」とあった。至るの語感は、大にくらべてやや狭い。地道の始め、坤元は、なんとすぐれたものであることよ。万物はこれをもとにして生じた。かかるすぐれたものでありながら(=乃)、坤(地)は、天にしたがい、天をうける。そうすることで坤は万物の母となる。乾には始といい、坤には生という、始は気の始め、生は形の始めをいう。
亨の徳_坤の徳は厚く、万物をその上にのせている。坤の徳は、限りなき(=无疆)乾の徳に配合している。包容力(=含)と、広さ(=弘)と輝かしさ(=光)と厚さ(=大)をそなえて、乾とともに、あらゆる種類の物を生長させる。

坤は地を表し、陰陽の中では陰を象徴します。无疆の无は無、疆は境界の古字で、境界のないことを表します。大地は陰の象徴であり、ありとあらゆるものを无疆として受容し、育成し、蓄えます。生命や物質も、一つひとつ丁寧に形作られ、豊かに発展していくのです。陰の力は限りなく広大であり、どんなものでも受け入れ、生かし、育てる力を持っているのです。

利貞の解釈_ふつう馬は乾の象徴に属するが、牝馬は牝であるから陰。また馬は地を行くという点で、牝馬は地の同類である。牝馬は柔順であるが、地上を行くこと限りない。つまり健でもある。健は乾の性質であるが、坤にも健の性質が含まれる。乾のはたらきに協調するためである。牝馬に代表される柔順利貞の徳こそ、坤の徳であり、人が行なうべきところである。

従うことが陰徳の特徴であり、従わないと道を失い、後れてついて行けば従うべき主を得ると説いています。新しい環境に入った場合は、まず環境に習い、従うことが大切であり、自分なりのやり方や考え方を捨てることで新たな自分を発見し、将来的には先頭に立つためにも従うことから始めるべきなのです。

陽が唱え陰が和するのがものの道理である。陰の道を失うから、陰が先に立つときは迷う。陰が後から和すのが順序であり、常道を得ている。陰の方角、西南にゆけば友を得るというのは、同類に従ってゆくからこそである。陽の方角、東北にゆけば友を失う。陽は大陰は小。陽は陰を包摂しうるが、陰は陽を包摂できない。そこで異類の方角にゆけば孤立する。そこでまた西南にひきかえすことによってはじめて、最後にはめでたいことがあろう。安らかで正しい態度が吉を招くというのは、そうした態度が無限なる地の徳にかなっているからである。

「西南」とは、温かく柔和な人間関係を表す言葉であり、陰陽の「陰」を意味します。一方、「東北」は「陽」を表し、厳しさや緊張感のある関係を表しています。
たとえば、「東北には朋を喪う」という表現は、女性が結婚して自分の親しい家族や友人と離れ、親しんだ環境や関係を断ち切って夫に従い、夫の家に入ることを表現しています。
新しい環境に身を投じる場合、女性に限らず、過去を一旦空っぽにして、真っ新な気持ちで飛び込まないと、学ぶことはできません。また、親しい者といつまでも徒党を組んでいてはいけません。慣れ親しんだ環境から別れることは辛いことですが、ぬるま湯のような環境にいても人間は育ちません。こうした環境から切り離すことで、結果的には、周囲の人も自分も喜びを得られることを教えています。

陰陽の「陰」の徳は、大地の活動に例えられます。天は広く、無限の恵みを地上に与えます。大地は天の無限の力を受け取り、地上にあるものすべてを形作り、育成し、生み出し、そして天に恩返しをします。この力もまた限りがないのです。
人間も同じように、広く受け容れることで、より多くのことを生み出し、育てる力を身につけることができます。

彖伝によると、坤の元の徳は至極のところに到達しておる。万物は皆坤の元の徳によって始めて形を生ずる。それは坤が極めて従順にして天の徳をすらすらと十分に承け入れることによって、この偉大なる力ができるのである。坤すなわち地の徳は極めて厚くしてあらゆる物を皆その上に載せておる。その徳の広大なることは、乾すなわち天の限りなき盛大なる徳と一体になっておる。そうして坤はあらゆる物を包容し、包容することが極めて広く、その徳は光り輝き、その光は広大にして、至らぬ隈もないのであり、これによって、いろいろさまざまの物が皆各々十分に伸びて盛んに成長するのである。坤の卦の徳は、万物をして各々その利を得しめ、そうして牝馬の貞、従順にして正しく堅き道に安んぜしめるのである。坤の道を学ぶところの君子はこれに則りて、従順にして利しくかつ正しき道を行うのである。坤の君子が人に先立って事を行うときは、必ず迷うて自分の道を失うことになり、すなわち坤の道を失うことになるのであって、後にはどうしたらよいかがわからなくなり、途方にくれるのである。坤が乾に後れ、乾に従って事を行うときは、従順であって、坤の常の道を得るのである。坤の道を体得したる君子が、西南の朋を得、自分が本来あるところの位地におるときは、自分の仲間を得ておるのは、これは自分の仲間とともに事を行うのであり、これはよろし。けれども、東北に朋を喪い、一旦、自分の従来の位地を離れて、東北の陽の卦のおるところに行ったならば、昔の自分の仲間を忘れるのは、初めには寂しいように感じるかも知れぬけれども、ついに大なる喜ぶべきことがあるのである。正しくして堅固なる徳におちついて安住しておるところの吉は広大なるものであり、その吉の広大なることは、地が限りなく広大なるに相応するほどである。
[安岡正篤]

大象伝

象曰。地勢坤。君子以厚徳戴物。
象に曰く、地勢は坤なり。君子以って厚徳もて物を戴す。

大地の態勢はすなおであって厚い。至高の徳ある人はこの卦に法とって、その厚い徳により、あらゆるものを受け入れる。

象伝によると、地の形勢は、坤の卦の象である。地の形勢は、地の上に地があり、その上にまた地があり、幾重にも重なって、極めて厚いのであり、天下のあらゆる万物を載せている。君子は、この地の勢を見、坤の徳を学んで、道徳を厚くし、手厚いが上にも手厚くして、万物を載せ、万民を包容するのである。
[安岡正篤]

小象伝

初爻の爻辞とそれを解釈する象伝(いわゆる小象)乾卦では大象少象をひとまとめにしていましたが、坤卦以下では各爻に小象を割り付けています。

初六。履霜。堅冰至。

象曰、履霜堅氷、陰始凝也。馴致其道、至堅氷也。
初六は、霜を履んで堅氷至る。
象に曰く、初六の霜を履むは、陰始めて凝るなり。その道を馴致して、堅氷に至るなり。

霜を踏むようになって、だんだんと寒くなり、堅い氷がやってくるであろう。
陰気が初めて凝った段階である。陰の動きをそのままに放置して馴れ馴れしくさせて、堅い氷にまでなる。

陰が始めて凝って霜となって目に見えるようになった。その道をだんだんに進んで行くといは、終いには陰のきわめて盛んなる堅い氷に至るのである。早く警戒しなければならぬ。

早朝の晩秋、庭に出ると霜が降りていることがあります。微かな霜が時間が経つにつれて厚い氷になり、身動きがとれなくなることがあります。この状態を「霜を履む」と表現し、悪い習慣に慣れ親しむことの危険性を説いています。

例えば、企業不祥事などの犯罪は、たいてい「霜を履む」ことから始まります。最初はいけないことだとわかっていても、些細なことなので「この程度なら問題ないだろう」と思い込んでしまいがちです。このような積み重ねが善悪の感覚を麻痺させ、悪習が慣習化していくと徐々にその悪習が悪化し、大きな問題に発展することになります。

恐ろしいことに、最初はいけないことだと認識していても、時間が経つにつれて、その認識が薄れ、悪いことを正当化してしまうことがあるのです。ですから、最初の霜の段階で対策を講じる必要があるのです。これは企業倫理や教育など、人生全般に通用する教訓です。

「桐一葉落ちて天下の秋を知る」と言いかえてもいいような言葉だろう。
冬の寒さは、人生ならば、一つの逆境とたとえてもいい。霜を見たなら、厳冬と思えということは、現在、きざし始めた凶兆をよく反省しなければ、たちまち、大変な災難がやってくると解釈していいだろう。人生における赤信号なのである。
[高木彬光/易の効用]

六爻を人体に当てはめた場合、初爻は足に当たるので、この彖辞に「履む」という言葉が含まれている。
霜は、陰の凝ったもの。元来、坤の卦は、陰の陰なるものだが、初爻は卦の初め、まだ力が弱くそれを消えやすい霜に喩えた。その霜も時が至れば、あるいはもっとその陰が増えていけば、ついには堅い氷(氷は本来は乾の象)となってしまう。
たとえば、臣がその君を殺したり、子がその父を殺したり、大逆無道な行いは、その場の成り行きや出来ごころなどで起きるわけではない。必ず原因があり、それが漸次積み重ねられてきた結果なのである。
陰邪姦悪というものは、その初めの芽生えは極めて微弱だから、注意して初期の段階から摘み取ってしまえば消えやすい霜を消すように簡単なこと。
しかし改めることなく見過ごしていれば、終いに堅い氷のようなシコリになって二進も三進もいかなくなる。だから事の初めにおいて、来るべき結果を予知し、慎重に対処すべきだと易は教えている。

六二。直方大。不習无不利。

象曰、六二之動、直以方也。不習无不利、地道光也。
六二は、直方大なり。習わざれども利あらざるなし。
象に曰く、六二の動は、直ににして方なり。習わざれども利あらざるなきは、地道おおいなればなり。

乾為天では、陽の徳が最も高く健やかである五爻が、その成卦主爻だったが、この坤為地では、この二爻が成卦主爻となる。なぜならこの二爻は、全陰の卦・坤為地において陰の位に陰で居り、なおかつ中正を得ており最も陰の道に適っているから。
※成卦の主爻とは、その卦の成り立つ因をなすもので、その卦全体の持つ性質を代表するように備えている爻のこと。
「直」というのは素直なこと、「方」はキチンとした正しさのこと、四角四面と言ったような意味。「大」は大きい。ということで、直方大とは坤の徳であり意であり象である。この爻は、改めて習慣づける必要もないほど、臣の道・妻の道にことごとくかなっている爻なのである。

「乾」の元気を充分に受け入れ、自分の意志を加えることなく、乾の元気に従って真っ直ぐに進みます。乾の元気が東西南北に広がるにつれて、坤の爻は真っ直ぐに進み、四角形になります。これにより、「方」という徳が生まれます。乾の爻の元気は、限りなく大きな徳を持っています。坤の卦の大の徳は、乾の卦の大の徳に順って、そのままに進んで行くところから出てくるのです。直と方と大との三つの徳を備えているので、格別にいろいろな学問をし練習をしなくても、いかなる場合にもうまく行かないことはないのです。

「直方大」の徳は、大地が天から受け取った恵みを、真っ直ぐに受け止めて育てる力を表しています。人間も、教えられたことや受け取ったものを素直に受け止め、自分自身や周囲の人々のために実践することが大切だとされています。そのような人は、知識や教えを受け取っただけでなく、自らの成長や周囲の繁栄につながる多くの恩恵を受けることができるでしょう。

これは、自分の現在の立場が、決して主役でないことを認識した人間が、脇役の立場に甘んじて、その本来の性質才能を十分に発揮している段階だといってよいだろう。女としては、一つの理想の姿ともいえるのである。
[高木彬光/易の効用]

六三。含章可貞。或從王事。无成有終。

象曰、含章可貞、以時発也。或従王事、知光大也。
六三は、あやを含みて貞にすべし。あるいは王事に従う。成すことなくして終わること有り。
象に曰く、章を含む、貞にすべし、時を以て発するなり。或いは王事に従う、知光大なり。

章は、文章あやの美しさ。六は陰爻、三は陽位(奇数位)。つまり人に従属すべきものが、積極的な能力を保有している。こういう場合は、うちにその美徳を含みかくして、臣下としての正道を固く守るべきである。しかし、三という位は下卦の一番上で、いつまでも能力を隠しておけない。時には発して、王者の命ずるしごとに従事しなければならないこともある。自分の功績を主張することなく、命ぜられるままに職務を守って仕事を終える。そういうことができるのは、その智慧が広大だからである。占ってこの爻を得たら、その徳をつつみかくせ、最後にはよいという戒めとなる。 

『章』は輝きを放つものであり、才能や才覚を指します。この言葉は、臣下や部下にとっての心得となるものです。「章を含む」とは、自分の優れた能力(明徳)を見せびらかさず、与えられた任務に忠実に従うことであり、それが部下としての真の姿勢だと教えています。
そんな才能と知恵ある部下たちは、時に才覚を発揮しても控えめであり、自分の功績が認められなくても不平不満を言わず、黙々と仕事に取り組んでいるものです。

王事に従うということは、本来内部にあるべき人間が、外部に出て働かなければならないようなこを指す。その場合、章とは自分の才能と解釈していいだろう。能ある鷹は爪をかくす。というたとえのように、出来るだけ、控えめ控えめに身を持し、自分の手柄を求めるなというのである。たとえ、自分が犠牲になっても、全体の事業がうまく成立すれば、それで満足すべしという教えである。
[高木彬光/易の効用]

六四。括嚢。无咎。无譽。

象曰、括嚢、无咎、愼不害也。
六四は、ふくろくくる。咎もなく、誉れもなし。
象に曰く、嚢を括る、咎なし、慎めば害あらざるなり。

坤にはもともと「嚢」や「布」という意味があり、中程にある三爻と、この四爻は、袋の中身に喩えられている。
『大賢は愚なるがごとし』嚢の口をくくって、才能の中身を隠しているのだから、咎もなく誉れもないのである。過ちを犯さない代わりに、格別に褒めたたえられることもない。しかし、この四爻は、君位である五爻の近くに居るのだから、特に慎んでいるのが良い。また慎まなくてはいけないと易は教えている。

「嚢を括る」とは、袋の口紐を堅く結び閉じること。自分の才能を外に表さず口を堅く閉ざして余計なことを言わなければ、名誉もなく認められることもありませんが、酷い咎めも受けることもありません。このようなスタンスでいれば人間関係や組織の中で、時に自分の才能を抑えることで、調和を保ち、トラブルを避けることができます。「嚢を括る」ことは、時に身を守るための手段であると同時に、より高いレベルで活躍するための準備期間でもあるのです。

財布の紐を固く締めて、積極的な態度をとるな……という段階なのだ。
たとえば株式ブーム時代に、この卦を得たとする。人がどれだけ儲けたという話を、しょっちゅう聞かされると、自分も……と思い立つのは人情だが、こんな卦を得たら目をつぶって、絶対手を出さないことである。
儲けられないかわりに、暴落相場にぶつかって、青くなることもない。資本をがっちり温存しておけば、間もなく絶好の買い場も出てくるだろう。
これは株だけではなく、たとえば縁談でも同じである。あせらず一人見送れば、間もなくほかにずっとすぐれた相手があらわれるだろう。
このように易経の本文はまことに簡単だが、それだけに類推はどれほどでも出来るのだ。読者諸君も、こういう風に原文の短い文章の精神を汲み、自分自身の問題にあてはめて活用して頂きたいのである。
真山青果氏の「元禄忠臣蔵」の中には、大石内蔵助がその子主税に、開城直前、優柔不断をなじられて「父は一生、昼行燈と呼ばれて送りたかった」ともらす場面がある。確かに昔の大名の家の国家老が、一大決心を固めなければならないような場面は、その家が興亡の土壇場に直面したときなのだ。昼行燈といわれた当時の内蔵助は、たとえばこの四爻の辞を自分の処世訓としていたのではないかと思われる。
[高木彬光/易の効用]

六五。黄裳。元吉。

象曰、黄裳元吉、文在中也。
六五は、黄裳こうしょう元吉げんきつなり。
象に曰く、黄裳元吉なるは、文中ぶんうちに在ればなり。

五爻というのは「君位」(=王・社長など)に当たり、君の位なのだから本来陽爻がふさわしい。しかし坤為地は全部が陰の卦。王なのに陰、だから「自分は力の弱い王」ということを良く自覚し、謙虚であることによって吉を得られるというのである。
『黄』は五行で地の色。
『裳』は衣裳の裳だが、『衣』は上衣で乾に当たり、下衣の『裳』は袴であり坤に当たる。
この爻は君位だが、これは坤の卦であり陰の爻だから、坤の徳の従順貞正を特に重んじ、君位にある者が目下の才能ある者(二爻のような臣)を登用し政をすべきであり、そうしてゆけば元いに吉だという意味。
また、自分は陰であり剛健強壮でない、正しい主ではないことをよく自覚し、自分のいる位置の恐れ多きを知り、敬虔な態度であれば吉だということ。
五爻は君位、しかも外卦で本来上衣を用いて辞をかけるべきだが、臣の道・妻の道説く坤の卦であればこそ、下衣の『裳』で辞がかけられている。

五行説では、物質の元素を木・火・土・金・水とする。色でいえばそれぞれ、青・赤・黄・白・黒、方位でいえばそれぞれ、東・南・中央・西・北にあたる。それで黄は大地の色であり、中央の色でもあることになる。
黄は中の色、裳(はかま)は下の飾り。六五は外卦の「中」を得ており黄の色にあたる。尊位におりながら陰爻であることは、へりくだった態度、下の飾りにあたる。つまり黄裳は、中庸柔順の徳が内に充満して、おのずと外に現われるような人の象徴である。したがってその占断は、最善の吉(=元吉)ということになる。象伝の、文中にあるなりは、美がうちにあればおのずと外に現われること。

古代中国では、「黄」は王位を表す色であり、「裳」は下着や下履きを意味します。王は元々、黄色の衣を上着として着用していましたが、それを下着として身につけることで、人の上位に立たないことを象徴していました。もし王が陰徳を自ら生み出し、民衆を重んじるなら、国は繁栄することになります。また、「文中」の「文」とは、権威や誠実さ、才能などを意味する言葉です。このような王は、「文」を用いて、適切な行いをすることで中庸を実現しているとされています。

黄色は地の色とされて、中国では非常に尊ばれる色だが、これを裳に使っているということは、謙譲の美徳で、まことにめでたいという意味である。
十分に主君たるべき資格を持った人間が主君の補佐役にまわっているという感じなのだ。たとえば、今度のアメリカの大統領選挙(1960年)で、ケネディ、ニクソンという候補者は、どちらも四十代だったので、副大統領の候補者には、両党ともに年長者を配したようなものである。
若い社長のおかげで、十分の睨みをきかし、社運を背負っている副社長、支配人、そのような心掛けで事に当たるべきである。
[高木彬光/易の効用]

上六。龍戰于野。其血玄黄。

象曰、龍野于戰、其道窮也。
上六は、竜野に戦う、その血玄黄。
象に曰く、竜野に戦うは、その道窮まればなり。

これは完全な下剋上、恐るべき状態といってよい。下にあって、統制に服すべき者が、上を侮っている状態なのだ。これを放置すればどういう事態になるか。それは5・15事件以来の日本軍閥の歴史を見れば明らかである。
[高木彬光/易の効用]

この爻は、初爻の辞『霜を履みて堅氷に至る』と合わせて考えると分かりやすい。
陰が初めて凝って霜となったのが、その道の上爻まで極まれば、堅氷(乾の象)にまでなってしまう。この上爻は、その堅氷になってしまった状態。
『龍』は、陰が極まり昇りつめて強い勢いとなったものを表し、坤が乾の龍と同じような勢いを得たということ。しかし全陽の卦である『乾の龍』は、元々強剛。一方、坤の龍は、陰の道が極まった結果強剛になった。それが対立することになれば、共に傷つき血を流すことになる。その血の色が『玄黄』。(玄は乾の色・天の色/黄は坤の色・地の色)
しかし坤の龍は、いくら強くなったとしても本性は陰のまま。陰も陽も、長じていけば互いに変化する。初爻は初めであり、上爻は他の事柄へと移りゆく。

陰は本来、陽に従うべきものであるが、この卦はずっと陰であり、しかも今、上まで陰がのぼりつめた。陰の盛んな極致である。ここに至っては、陽と争わずにはおかない。陰の力が陽に匹敵しているだけに、両者とも傷つく。そこで、竜と竜が野に戦って、黒い黄色い血を流しているかたちを表象とする。「野に」というのは、陰が坤卦の外へとび出して陽と争うから、そういう。説卦伝に「乾に戦う」とあるように、戦場はすでに坤を離れ、乾卦の領域に入っている『正義』。占ってこの卦が出たら、凶なること、いうまでもない。

陰陽で物事を分けると、天は陽であり、地は陰である。君主は陽であるのに対し、臣下は陰である。また、夫は陽であり、妻は陰である。さらに、黒色である玄は天を、黄色である黄は地を表す。
陰である臣下が龍(リーダー)のような勢力を持つと、玄と黄の激しい戦いが起こり、互いに傷つくことになる。陰の勢力が増大して自らの立場を忘れると、必ず物事の道は行き詰まる。

用六。利永貞。

象曰、用六永貞、以大終也。
用六は、永貞に利あり。
象に曰く、用六の永貞は、大を以て終わるなり。

用六は筮して坤の卦が出、六爻ともが変である場合の判断辞である。坤卦は全爻陰であった。陰は柔である。陰柔な生活態度というものは、いつまでも続けられるものでない。そこで陽剛に変ずることによって、はじめて永続的な正しさを獲得できるであろう。故に占者への判断として、永く正義を貫くためには陰柔を剛毅に切りかえるがよろしい、ということになる。坤の全が変じてしまうと乾になる。用六の永貞は乾卦の利貞に当たる。ただもとが坤であるから、本来の乾卦の元亨利貞までにはよくない。象伝に、大を以て終るというのは、各はじめ陰であったのが終りに陽になること。陰は小、陽は大である。

「用六の永貞」とは、陰徳を用いて永く正しく守り、偉大な功績を達成することを意味する。
「創業」と「守成」について陰陽に分けると、前者は陽であり、後者は陰となる。物事を永く維持するには、積極的に推進する「陽」の力だけでは不十分である。繁栄を維持するためには、従順柔和に従い受け入れる「陰」の力をリーダー自らが生み出すことが必要である。

文言伝

文言曰、坤至柔而動也剛。至靜而徳方。後得主而有常。含萬物而化光。坤道其順乎。承天而時行。
文言に曰く、坤は至柔にして動くや剛なり。至静にして徳方なり。後るれば主を得て常あり。万物を含んで化おおいなり。坤道はそれ順なるか。天を承けて時に行う。

文言によれば、坤の道は至って柔らかいが、その動きは力強い。至って静かであるが、その物を生むはたらき(=徳)には整然とした法則性(=方)がある。陰は陽に従うものであるから、人の後についてゆけば、陽剛なる主人を得る。それが陰の常道に沿うことである。坤は万物を包含し、その造化の力は広大である。坤は、陽剛なる主人、天の意図をうけて、その時を失せずに生々の作用を行う。坤の道はなんと柔順なものではないか。

積善之家必有餘慶。積不善之家必有餘殃。臣弑其君、子弑其父、非一朝一夕之故。其所由來者漸矣。由辨之不早辨也。易曰、履霜堅冰至。葢言順也。
積善の家には必ず余慶あり。積不善の家には必ず余殃あり。臣にしてその君をしいし、子にしてその父を弑するは、一朝一夕のことにあらず。その由って来るところのもの漸なり。これを弁じて早く弁ぜざるに由るなり。易に曰く、霜を履んで堅氷至ると。蓋し順なるを言えるなり。

この言葉は、「善を積む家には子々孫々の後まで喜びがあり、不善を積む家には後世まで災禍がある」という因果応報の意味で使われることがあります。しかし、本来は、日々小さな善を積み重ねていけば必ず幸せになり、日々悪い行いを積み重ねていれば必ず災難に見舞われるという意味です。
何事も積み重ねていくと、その層は厚くなります。だからこそ、何を積み重ねていくのか、層が薄いうちに細心の注意を払う必要があるという教えです。

臣下が君主を殺し、子供が親を殺すようなことは、ある日突然に起こるのではありません。その要因は長い年月をかけてゆっくり育ち、ある時、大きなわざわいになって現れるのです。
このような禍が起きる理由は、物事の道理を早い段階で明らかにせず、正さなかったからです。人的な禍の多くは、長い間見過ごし続けた結果となります。

直其正也、方其義也。君子敬以直内、義以方外。敬義立而徳不孤。直方大、不習无不利、則不疑其所行也。

直はそれ正なり、方はそれ義なり。君子は敬もって内を直くし、義をもって外を方にす。敬義立てば徳孤ならず。直方大なり、習わざれども利ありからざるなしとは、その行なうところを疑わざるなり。

「敬」とは、うやまうという意味ではなく、心を引き締め、慎重にすることを指します。 つつましくあることで心の内をまっすぐにし、正義に従って外に向かって行動する姿勢を身につけていくことです。 このような敬と義を備えている人は、その徳は一つに留まらず、自然に多くの徳が積み重なり、大きく盛大になっていきます。また、周囲にも良い影響を与えていくものとなるのです。

陰雖有美、含之以從王事、弗敢成也。地道也、妻道也、臣道也。地道無成、而代有終也。
陰は美ありといえども、これを含んでもって王事に従い、あえて成さざるなり。地の道なり、妻の道なり、臣の道なり。地の道は成すことなくして、代わって終わり有るなり。

地道、妻道、臣道は、陽に従う陰の道とされます。地は天に従い、妻は夫に従い、臣下は主君に従います。
地は天の恵みを受けて大地に万物を形作ります。同様に、妻や臣下は自己の才能を押し出さず、ただ従いながら物事を育て、形にする陰の力を示します。
誰もが、脇役や縁の下の力で終わりたくはないと考えるでしょうが、陰の力が育んだものは受け継がれていくのです。本当の意味で、終わりを全うできるのは陰の道なのです。

天地變化、草木蕃、天地閉、賢人隱。易曰、嚢括、无咎无譽。葢言謹也。
天地変化して、草木蕃く、天地閉じて、賢人隠る。易に曰く、嚢を括る、咎もなく誉れもなしと。蓋し謹むべきを言えるなり。

例えば、政府を天、国民を地とします。政府が国民の感情を無視し、国民が政府の指針に従わなければ、双方が意志疎通を図れず、国は混沌とします。これが「天地閉じて」という状態です。 賢明な人々は、このような時代には自分の能力を活かせないことを知り、口を堅く閉じ隠遁するのです。 初めは臆病に思われるかもしれませんが、時を待つ他に策がないこともあります。このような時は、耐え忍び、来るべき時代、未来に備えることが必要です。

君子黄中通理、正位居體。美在其中、而暢於四支、發於事業。美之至也。
君子は黄中にして理に通じ、正位にして体に居る。美その中に在って、四支に暢び、事業に発す。美の至りなり。

君子は、黄色が四方の色―青、赤、白、黒―の中心に位置し、それらの色との調和を通じて秩序を維持するように、心に中庸の徳を持ちつつ、その徳が自然に周囲に広がり秩序が保たれる。また、君子は高貴な位置である「五」にあっても、裳を下半身に当てるように、謙虚に振る舞う。

物事の情理に精通し、自ら従うべき立場を認識し、その地位に適した行動を取る。 これはたとえ才能や能力に恵まれて高い地位にいたとしても、現在の状況や情理に従って自己の分限をわきまえ役割を果たすことが重要であることを示唆しています。従順、受容、柔和の陰徳を示す言葉になります。

 

 

謙虚であり、柔和であり、柔順であり、受容的な心が、全身に行き渡るようになれば、美徳はその人の行動に表れるのではなく、その人の事業に表れることになります。それは美(徳)の至り。
美徳とは陰の徳であり、隠したもの、秘めたものが、光があふれ漏れ出すように外に表れるというのが、美徳の真髄なのです。

陰疑於陽必戰。爲其嫌於无陽也、故稱龍焉。猶未離其類也、故稱血焉。夫玄黄者、天地之雜也。天玄而地黄。
陰の陽に疑わしきときは必ず戦う。その陽なきに嫌わしきために、故に龍と称す。なおいまだその類を離れず、故に地と称す。それ玄黄は、天地の雑わりなり。天は玄にして地は黄なり。

臣下が強大な勢力を持ち、自分が君主のように振る舞えば、必ず戦いが起きます。下位の者が上位の者に物を言えば、上位者の逆鱗に触れます。従属的な立場の者が自分が主であると勘違いすると、戦いが始まる原因となります。
陽と陰では強さの質が異なります。陰が陽に勝るところは、加重にも易易と耐えることができ、徹底的に従い、慈愛を持って受け入れる精神力にあります。これらのことを決して忘れてはなりません。

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