51.震為雷(しんらいい)【易経六十四卦】

易経
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震為雷(地震・雷・戒懼の時/霹靂)

movement:移動/thunder:雷
発奮して志を遂げるべき時なり。
始めありて終わりなき怕れあり。

主器者莫若長子。故受之以震。震者動也。
器を主どる者は長子に若くは莫し。故にこれを受くるに震を以てす。震とは動くなり。

天を祀るための大切な宝物である鼎を取り扱う者は、天子の長子である皇太子以上の適任者はいない。前の鼎は祭器である。先祖の祭りは長男の役割りだから長男の卦震が鼎に続く。
震は雷鳴、動くことなどを表わす。この卦は、それがふたつ重なっており、天地の間に雷鳴がとどろきわたっているのである。古代人にとって、雷鳴は天の怒りの声であり、強い畏怖の念をかきたてるものであった。しかしそれが案外、実害を起こすことは少ないということもまた、かれらは経験の上からよく知っていたのである。


何か心が落ち着かず、そわそわしてじっとして居れない。
胸騒ぎがしたり、突然びっくりするようなことが起きたりするのではないかと思う。
そんな状態がこの卦の時で、運勢は格別悪くはないが、多少不安定さはある。
急に身辺の移動が起きたりする。例えば転勤とか、引越しせねばならぬことになるとか、物を移し替えたりするようなことにもなろう。
事態が発生すれば何事も悪びれず、実行すること。下手に逆らったり、移動を拒もうとしたりすると、結果はよくない。しかし、内面的には心を落ち着けて時の流れを静観しながら動くように。金儲けや欲に走ることは不可で、物質的にはすべてに余り期待しない方がよい。
[嶋謙州]

雷がふたつ重なった卦であります。
震は天にあっては雷、地にあっては地震であります。
改革とか革命とかいうものは、円滑にいくものではなく、いろな問題や、困難が起こるので、事に当たっては、それを恐れ慎み、一層徳を修め、反省するように戒めておる卦であります。
[安岡正篤]

震。亨。震來虩虩。笑言啞啞。震驚百里。不喪匕鬯。

震は、亨る。震の来るとき虩虩げきげきたり。笑言啞啞あくあくたり。震は百里を驚かす。匕鬯ひちょううしわず。

『虩』は恐れてあたりを見廻すさま。『啞啞』は笑う声。『匕』は鼎のなかみを掬う匙。『鬯』は黍で作った酒に鬱金草を漬けたもの、神前の地面に注いで、香りによって神を降す。どちらも重大なもの、大切なものを表す。
火風鼎䷱の次に、この震の重卦が置かれたのは、震が長男を示すからである。火風鼎で位が定まることを意味したが、その定まった位を継承して行くのは長男なので、ここに配された。
『震』は震動、地震である。
震卦は一陽が始めて二陰の下に生じた形、地の震い動き、或いは母体の妊娠(娠=震)を暗示するものがある。震動から震の象を雷とする。または父と母の最初の交わりによって生まれた男子を示す。長男である。卦辞の震来の震は地震、震驚の震は雷。全部雷とする説もある。それでも通る。
『震は亨る』卦に何らかの動き、進みがあるとき、亨るの徳が生ずるが、これは震動という卦だから、自ずから願いごと亨る性質を具えている。
地震のやって来るとき、人は恐れてきょろきょろするが、それを過ぎればワハハワハハと笑いさざめく平穏の時が来る。
ということは、恐懼して身を慎しんでいれば、後に福が来るということ。
『震驚百里云々……』雷は百里四方を驚かすが、一心に神を祭る人は、雷に恐れて匙と酒を取り落すことはしない。前の二句は、恐懼自省することが福を招くことを意味した。これはそれに続けて、そのように平生戒慎している人は、いざという時も自分を失わないことを意味する。
雷は遠くても稲妻が光り雷鳴が響くが、大切な祭祀の儀式の最中であれば、君主は祭器と酒を放り出して逃げたりしない。突発的な事が起こっても、パニックに陥って大事なものを投げ出さず、状況をよく見て冷静に判断することを教える。
『匕鬯』は祭りに関係した語、震つまり長男が祭りを司どるから、この語が用いられる。
占ってこの卦を得れば、恐懼自戒せよ。後には福があろう。

彖曰。震。亨。震來虩虩。恐致福也。笑言啞啞。後有則也。震驚百里。驚遠而懼邇也。出可以守宗廟社稷。以爲祭主也。

彖に曰く、震は亨る。震の来るときに虩虩げきげきたり、恐れて福を致すなり。笑言啞啞あくあくたり、後にはのりあるなり。震は百里を驚かす、遠きを驚かしてちかきを懼れしむなり。出でては以て、宗廟社稷そうびょうしゃしょくを守って、以て祭主とるべきなり。

『出』とは先代のあとをつぐこと。『震は亨る』卦辞と同じ句であるが、震ということに自ずから亨る徳が伴なっているので、卦の形などから説明する必要はないことを示す。『震の来るときに虩虩たり』とは、地震が来たとき恐懼するように、恐懼自戒していれば福を招くということ。
『笑言啞啞たり』とは、恐懼戒慎することによって、その後の自分の身の処しかた自ずから法則ができること。
『震は百里を驚かす』とは、雷が遠い者を驚かし、近い者を懼れさせる大きな威力あること。
『匕鬯を喪わず』とは、雷が鳴っても匙や酒を取り落さないほど、神への敬虔が強ければ、父のあとを継いで、先祖の霊廟や天地を祭る祭壇を守って、司祭の役割りを果たし得るであろう。

象曰。洊雷震。君子以恐懼脩省。

象に曰く、しきりにらいあるは震なり。君子以て恐懼きょうくして修省しゅうせいす。

『洊』は重ねての意。雷と雷と重なった形が震卦である。頻りに雷が鳴る。雷は天の怒りであるから、君子はこの卦の象を見て、わが身に過ち無きやと恐懼して、わが身を修め反省する。孔子は迅雷や烈風のときには必ず居ずまいを正したという(『論語』郷党第十)。
震為雷の卦は、突発的な出来事、ハプニング、トラブルへの対処を教える。地震や激しい雷鳴と稲妻には驚かされるが過ぎてしまえば、あの時は驚いてパニクったと笑い話にもできる。同じく、突発的なハプニングが起きた時はパニックを惹き起こすが、被害がなければ驚いただけで忘れてしまう。しかし、そうであっても恐れ戒め反省し、次に起こった場合に備えて対処すべきだというのである。

初九。震來虩虩。後笑言啞啞。吉。 象曰。震來虩虩。恐致福也。笑言啞啞。後有則也。

初九は、震の来るときに虩虩たり。後に笑言啞啞たり。吉。
象に曰く、震の来るときに虩虩たり、恐れて福を致すなり。笑言啞啞たり、後に則あるなり。

この爻辞、後の一字が多いだけで、あとは卦辞と全く同じ。象伝も彖伝と全く同じ。
初九は震☳の主たるだから、この卦の主体、故に卦辞そのままを用いる。また震卦の始め、震の来るときに当たるから震来云々という。占ってこの爻を得た人、戒懼すれば福が来る。吉である。

六二。震來厲。億喪貝。躋于九陵。勿逐七日得。 象曰。震來厲。乘剛也。

六二は、震きたあやうし。おおいにたからうしなって、九陵きゅうりょうのぼる。うなかれ七日にして得ん。
象に曰く、震の来る厲し、剛に乗ればなり。

貝は昔の貨幣。九陵の九は数の多いこと、九重、九天のように用いる。九陵は九重にかさなる高い丘。離れた郊外の高い丘が連なっている辺鄙な処。
震為雷䷲は『勢いよく動く』ということについて、雷に喩えて説かれた卦である。
雷が激しく鳴る(=恐れ驚くような事が起こる)とき、どのように対処すればよいかを各爻、それぞれのケースで示している。そんな中この六二は、雷(事件など)のもっとも近くにいる者で、大変危険である。
六二は柔でありながら、初九という剛の上に乗っている。激しく震い動いて人を驚かせる成卦主爻・初九の上に乗っている。初九が地震の主体なので、地震が来たとき、そのすぐ上に乗った六二は最も危うい(=震来厲)。
地震などの災害にあって多くの財を喪いながらも、その財宝への執着を捨て、遠く離れた遠い所。九陵へ逃れるのである。
このような目にあうが、六二は陰で柔順、それに「中正」(内卦の中、陰爻陰位)の徳があるから、地震の際に喪失した財貨も、逐わずとも七日たてばひとりでに戻って来るであろう。
喪った財宝などは思い諦めるのが良い。心惹かれていつまでも煩っていなくても、命さえあれば、この卦が坤の純陰の下に陽を生じて震を成し、春が巡るとするように、財物のごときは自ずと戻って来る日があるのである。

六三。震蘇蘇。震行无眚。 象曰。震蘇蘇。位不當也。

六三は、ふるいて蘇蘇そそたり。震いて行くときはわざわいなし。
象に曰く、震いて蘇蘇たるは、位当たらざればなり。

『蘇蘇』は茫然自失。恐れたり心配したりして心も定かでないことで、勢いが疲れているさま。
六三は位が不当、つまり「不正」である(陰爻陽位)。震の主爻である初九から、六二より遥かに遠のいた位置にいるので、震の勢いとしては弱まってきているのである。地震は人間の不正に対する天譴てんけんだから、地震の時にあたって(=震いて)六三は恐怖のあまり茫然自失する(=蘇々)。占ってこの爻を得た場合、『震いて行くときは眚なし』地震によって戒懼し、前進して自分の悪を改めるならば、わざわいはないであろう。

九四。震遂泥。 象曰。震遂泥。未光也。

九四は、震いて遂になずむ。
象に曰く、震いて遂に泥む、いまだおおいならざるなり。

『泥』は、滞おり溺れる。九四は陽だから雷に当たる。しかるに剛柔位で「不正」、また五の「中」を外れ、上下とも二陰爻が重なって陽の力を衰えさせる。雷は鳴らない。
九四は外卦震☳の主爻。成卦主爻は初九なので、震の性質は有るが、その力がないので泥に逐つるのである。大地は震動しようとして(=震)、そのままずるずると(=遂)煮え切らずに消えてしまう。陽の力がまだ広大(=光)でないからである。占ってこの爻を得たら、願いごと停滞して通らない。

六五。震往來厲。億无喪有事。 象曰。震往來厲。危行也。其事在中。大无喪也。

六五は、震いて往くもきたるも厲し。おおいに有事ゆうじうしなうことなし。
象に曰く、震いて往くも来るも厲しとは、行くことを危うしとするなり。其の事ちゅうに在り、大いにうしなうなきなり。

 

『有事』の有は接頭語、家を有家(家人䷤初九)、廟を有廟(䷬卦辞)という例が前に見えた。象伝の其事は有事を解釈する。『億』は、象伝の大の字がその意味を示す。

六五は、陰爻陽位、「不正」である。大地の震動するとき、それは天譴なるが故に、不正な者ほど危うい。『往くも来るも』とは、内卦の震が来て去ったかと思えばまた外卦の震が来る、ひとつの事では済まずに行ったり来たりする。上に往けば震の極点に突き当たり、下へ降れば震の主体、剛爻に衝突するからどちらへ行っても危うい。しかし六五は上卦の「中」を得ている故に、『億いに有事を喪うなし』~その事をしくじらない公算が大きい。
往来する震の上に乗っている事では、六二に似ている。しかし九四に乗っているこの爻は、六二のように『貝を喪う』かと言えばそうではなく『有事を喪うことなし』である。
六二も六五も共に「中」を得ているわけだが、六五のほうは『泥に逐つ』という弱い震の上にあるばかりでなく、主卦の主爻、すなわち君位についている爻だからである。
柔順の爻であるから、その変動や奮動するものに対して争ったり強く拒んだりせず、巧みに処しつつ自分の為すべきことを守り通すのである。
六二は、財産などを捨てて、生命あっての物種ととばかり、九陵に逃げ、命だけは全うしたのだが、この九五は自分の仕事を投げ出さずにやり抜く。危ない所を柔徳によって切り抜けて行くのである。
占ってこの爻を得た人、危ういけれど、中庸を得ていれば、幸いに損失はないであろう。

 

上六。震索索。視矍矍。征凶。震不于其躬。于其鄰。无咎。婚媾有言。 象曰。震索索。中未得也。雖凶无咎。畏鄰戒也。

上六は、ふるいて策策さくさくたり。ること矍矍かくかくたり。征けば凶。震うことそのおいてせず、そのとなりにおいてするときは、咎なし。婚媾言こんこうものいうことあり。
象に曰く、震いて策策たるは、ちゅういまだ得ざればなり。凶といえども咎なし、鄰りの戒めをおそるればなり。

上六は、六三に匹敵する爻である。この卦においては全て、『初九と九四』、『六二と六五』、『六三と上六』というように応爻を対照して爻辞を見て行くと理解しやすい。
『索索』は意気沮喪いきそそうするさま。『震蘇蘇たり』の蘇蘇と同じく、勢いが衰えて物のまばらなことであり、ビクビクした様子も乱れたまま定まらない様子。『矍矍』は目の不安定なさま(目が泳ぐ)。『婚婧』は結婚。『言』は叱責の言葉。

上六は陰柔の身で以て震の極点におる。五の「中」を過ぎ、中道を得ていない。地震に遇ってしおしおと意気沮喪し、きょろきょろと目が泳いでいる。ここで妄りに進もうとすれば凶である。
しかし地震がその隣りを襲って、まだその身に及ばないうちに、隣りの被害を自分の戒めとして、畏れ慎しみ、身を修めるならば、咎を免れることができる。
しかし上六は震卦の最上位にあり、他の動こうとする爻の首領であった。今それが隣りの被害を見て自分から踏み止まった。
上六の婚姻相手、つまり仲間の爻から、物言いがつくことはやむを得ない。『婚構言あり』はまた占断の辞でもある。占ってこの爻を得た場合、進めば凶。人のふりを見てわがふりを直せば咎なし。縁談に於ては物言いがつく。

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