44.天風姤(てんぷうこう)【易経六十四卦】

易経
Sponsored Links
Sponsored Links

天風姤(遭う/マウント女・魔性の女)

encounter:出会い/encountering:遭遇
相手は剛頑に過ぎるものなり。
柔順を持って接すれば、事はなるべし。

決必有所遇。故受之以姤。姤者遇也。
決すれば必ず遇う所あり。故にこれを受くるに姤を以てす。姤とは遇なり。

裂け破れた者は、必ず、またどこかで遇って合同するものである。
姤とは、邂逅の逅と同じで、偶然の出会いのこと。
偶然の出会いは、美しい人間模様を生むこともあるが、43.澤天夬において、小人の勢力を駆逐し平和な時代が訪れたと思っていると、思いがけぬところで災禍に見舞われることを意味する。
卦の形は、一本の陰が、五本の陽を乗せている、つまり、ひとりの女が五人の男を相手にしている形。多くの男の中に忽然と一人の女が取り入って次第に勢力を伸ばしながらさまざまな悪影響をもたらすのである。


思いがけぬ人と出会ったり、予期せぬ出来事が起きたりするときで、良きにつけ悪しきにつけ、人生の流れを変えることにもなろうというもの。
運勢は決して強いとはいえず、結果はむしろ悪いほうに傾く可能性は大で、少しも油断できず、慎重を期せねばならぬときである。
特に男性は女性の色香に迷って人生を棒に振ったり、家庭を台無しにして終わったりする恐れがあるから充分注意せねばならぬ。
この人に出会ったばっかりに、またあの事に手を着けたばっかりに、人生が180度転回し、憂き目を見ねばならぬことになる。
この卦のときは、つまらぬ色気を出したり欲に突っ走ったりすると、とんでもないことになる。
無欲、無心で行けば案外正しい判断も出来、よしんば結果が悪くても損害は僅少に止められる。
[嶋謙州]

澤天夬の卦は初爻からずっと陽で上爻だけが陰、つまり一陰が上にとどまっておる卦であります。
易は循環しますからその一陰が上から下へ回り、初爻が陰で上が全部陽の五陽一陰の卦、これが天風姤の卦であります。
これは地雷復の卦の錯卦であります。
一陰が新たに下に生じて進んでいく、陰気上昇する卦でありますから、たとえば内閣を組織した、会社を設立した、その為に有能活発な同志を集めた、というのが陽爻であります。
そこへたまたま一人の変わったものがもぐり込んだ、というのが姤の卦であります。
必ずしも変な者に限りませんが、常ならぬ人間、陽性でなく陰性の人間が入ってきたというのがこの卦であります。
これはよほど注意しませんと、せっかくの組織、行動がこれによって乱れる、と教えておる卦であります。
[安岡正篤]

姤。女壯。勿用取女。

姤は、女壮じょさかんなり。もつじょめとるなかれ。

『姤』は邂逅の『逅』と同音同義、約束しないのにぱったりと出会う。陰と陽が思いがけなく遇う。ただし、逅が道で出会うに対し(辶は道)、姤は『女が男に出会う』字である(女扁だから)。
姤䷫はいわゆる消息卦。夬䷪の最後の一陰が陽に変われば乾䷀、これが四月の卦。五月に至り、にわかに一陰が現われて姤になる。望まないのに突然陰に遇う。突然遇うという意味で姤と名付ける。
姤の一陰は、五陽爻が引いてきたのではなく、自ら進んできたのだから、勢いの強い、進むことを専らとする爻である。内卦の巽は長女で女の壮なるもの。そのように陰の強い意味があり、消長卦からしても、陰の強くなって行く象がある。
一陰が五陽に遇う、ということは、一人の女が五人の男に遇うこと。不貞の女であり、また女として甚だ壮んといわねばならない。
男性社会に魔性を秘めた美しい女性が一人、入ってくる。男性は女性に圧倒されるが、決して重用してはならない。 楊貴妃をはじめ、古代中国には美しい女性が一国の滅亡の原因になった例が多い。陽気壮んな中に入り込んだ陰は、知らぬ間に勢力を増幅させ、国を傾かせるのである。
こんな女を娶ったら男(陽)の身に害がある。占う人、この卦でもって女を娶ってはならない。きっと夫を凌ぐような女だから。

彖曰。姤。遇也。柔遇剛也。勿用取女。不可與長也。天地相遇。品物咸章也。剛遇中正。天下大行也。之時義大矣哉。

彖に曰く、こうは、ぐうなり。じゅう剛に遇うなり。用て女を取るなかれ、ともに長くすべからざるなり。天地相い遇って、品物咸ひんぶつことごとあきらかなり。剛中正ちゅうせいに遇う、天下大いに行なわるるなり。姤の時義大じぎおおいなるかな。

『姤は遇なり』一陰が生じて陽に遇う卦だから、姤うと名付けた。判断辞に用て女を取るなかれというのは、女を娶るのは本来、その女とともに末長く家を保つためである。しかるにこの女(下の一陰)は、力を増して男(上の五陽)の領分を浸蝕しようとする。長く一緒に居れたものではないからである。嫁取りには悪い卦であるが、姤ということすべて悪い意味と受取ってはならない。陰が始めて生じて陽に遇う卦である。つまり天の陽気と地の陰気が遇うことである。天地陰陽相いわねば物は生まれない。姤卦に於て天地が相い遇うから、あらゆる種類の物(=品物)がことごとく章らかにそれぞれの姿を現わすのである。姤卦の示す時間と、姤うということの意義とその意味で偉大なものではないか。

象曰。天下有風姤。后以施命誥四方。

象に曰く、天の下に風あるはこうなり。きみ以てめいを施し四方にぐ。

后は后王、后妃でない。誥は上から下に告げる。この卦は天☰の下に風☴が吹いている象。風はあまねく行きわたるもの、物これに遇わぬはないから、姤と名付ける。王者はこの卦に象どって、命令を施行し、四方に告げる。姤の卦、本来は不貞の卦で、卦爻辞みなよくない。しかるに象伝象伝が良い解釈をしているのはなぜか。聖人は固定的な考え方をしない。悪しき時のなかにも、臨機応変の良い用途を見出だそうとするからである。

初六。繋于金柅。貞吉。有攸往。見凶。羸豕孚蹢躅。 象曰。繋于金柅。柔道牽也。

初六は、金柅きんじつなぐ。ただしくて吉。往くところあれば、凶を見る。羸豕孚るいしまこと蹢躅てきちょくたり。
象に曰く、金柅に繋ぐ、じゅうの道かるればなり。

『柅』は車輪の下に噛ませる車止め。『羸豕』痩せ細った豚。『蹢躅』はねまわるさま。この初六はは、成卦主爻である。初爻が主であり、二爻から上爻までの五陽爻が、賓客となる。それで、二~上爻までの各爻はみな、成卦主爻の初爻を対照して辞をかけてある。初六はは、夬で決断された上爻の一陰が、ここに戻って来て、下に位を得たと見るので、これが伸びて行けば坤為地初爻の辞『霜を履みて堅氷に至る』のような堅さになって行くので、あくまでも進ませないようにすべきだというのが『金柅に繋ぐ。貞吉』である。
初六は陽の下に始めて発生した一陰である。この一陰だけで止まれば、小人の勢いは阻止される。そこで金で作った強い車止めに繋ぎ止める。
こうして陰を止めれば、貞しくて吉。もし更に初六の前進を許せば、小人(陰爻)栄えて君子(陽)を害する。故に、往くところあれば凶を見るという。凶を見るは凶に遇うという程の意味。
以上は小人に対する戒め、君子を侵害させないようにである。しかし小人はじっと止まってはいない。僅か一陰だから痩せ細った豚に等しいが、この豚が実に(=孚)ぴょこぴょこと跳ね廻ってやまない(=蹢躅)。
隙があれば進んで来る。君子としては深く警戒し防備を整えなければいけない。占ってこの爻を得た人が小人ならば、止まれば正しくて吉、往けば凶に遇う。
占う人が君子ならば、防備を整えよ。象伝の意味は、柔は、剛に牽制されるのが正しい道、小人は君子に、婦は夫に牽制されるように。だから初六の陰が金に繋がれることを貞吉とするのだという。

九二。包有魚。无咎。不利賓。 象曰。包有魚。義不及賓也。

九二は、つつむにうおあり。咎なし。ひんに利あらず。
象に曰く、包に魚あり。賓に及ばざるなり。

『包』は茅で作ったつとに包む。『賓』は賓客。九二は初六と密接している。つまり初と姤っている。初六は九四という「応」があるが、姤の卦にあっては、「応」よりも遇うことを重視する。
九二は陽、初六は陰。進もうとする陰を九二は押し包んで動かさない。まるで茅の苞に魚を包んだように。
魚は水の物、陰に属する。このように包み止める限りにおいて、九二が陰(小人)と遇っても、なお咎はない。もしこの陰の前進を止めないで、さらに他の陽に遇わせるならば、小人の害が拡がってよくない。苞の中の魚がその陰に当たる。
初六の金柅は、剛中を得ているこの九二の事である。もし初六の勢いが長じて、この九二を犯せば、天山遯となり、続いて天地否となるので、あくまでも食い止めなくてはならない。この九二は、繋ぐべき金柅であり初六を包み込んで他に累を及ぼさないようにする任務を負っているのである。
魚を賓客(他の陽爻)にまで振舞ってはならないのである。で、賓に利あらずという。
占ってこの爻を得た人、小人と近しい関係にあっても、押えが利けば咎はない。ただ君子の仲間に紹介してはいけない。
『魚』は禍の要因となる陰を表す。うまい話を受け容れたとしても、包むようにして、それ以上、大きく広げない。つまり、外に影響を及ぼさない程度につきあう。そうであれば咎めは受けない。
勢いが盛んな時にも陰が忍び寄る。禍の要因への対処法を説く。たとえば、事業が好調な時は、『好事、魔多し』で、うまい儲け話に乗って失敗しやすい。こういう時ほど、慎重に判断し、的確に対処すべきである。

九三。臀无膚。其行次且。厲无大咎。 象曰。其行次且。行未牽也。

九三は、いさらいはだえなし。その行くこと次且ししょたり。厲けれど大なる咎なし。
象に曰く、その行くこと次且たり、いていまだ牽かれざるなり。

『臀无膚。其行次且』の句は前の夬卦䷪九四にも見えた。夬卦をひっくりかえすと、夬九四は姤九三に当たる。九三は剛剛位で剛に過ぎる。内卦の「中」を外れ、中庸を得ない。居心地はよくない。陽が陰に遇いたがるのは自然の欲求であるが、下の初六はすでに二と遇っている。遇うことはできない。上に「応」を求めても、上九は剛だから合わない。位置が不安定なので、尻の皮がむけたように、じっと坐ってもおれず、さりとて進もうにも、上に「応」がないから、ぎくしゃく(=次且)として進めない。しかし陰のどれにも遇えないということは、小人の悪に傷つくことがないことでもある。だから厲けれども大なる咎なし。占ってこの爻を得れば、現在の地位も不安、前進もできない。孤立無援で危ういが、大きな咎もない。象伝の意味、九三の行くこと次且として進みがたいが、行くことは行くので、下の陰に牽かれはしない。大きな咎次且なきゆえんである。

九四。包无魚。起凶。 象曰。无魚之凶。遠民也。

九四は、包に魚なし。てば凶。
象に曰く、魚なきの凶なるは、民に遠ざかればなり。

九四には初六という本来の「応」があった。しかるにその初六は、九二に遇ってそこに止まり、自分のところには来ない。初六は陰、魚に譬える。九四の苞には魚がない。魚がないというのは、民心が自分から離れることであり、それは自分が民に遠ざかることが招いた結果である。
この九四は初六と応爻だから、本来なら初六と最も密接な関係にあるべきだが、既に九二がそれを包んでしまっているので、九四の方は『包に魚なし』である。
この九四は大臣・宰相の地位なので、九五の君を補佐し庶政を治めるべきであり、初六のようなものは、まず第一に目を付けて処置しなくてはならないのに、九二にそれを行われているのは、いかにも遅鈍である。それというのも民情に疎く、注意が行き届かないからだ。
九二と九四は共に陽爻で、九二は比爻、九四は応爻になっているので、初六に対する関係はさして変わりはないはずだが、九二は魚を包み得て、九四は包み得ないのは、九二が中を得ているのに九四は不中だからである。
民は小人である(初六は陰、陰は小人)。これから遠ざかること自体は咎なき道である。ただいかにも包容性がない。だから包むに魚なし。じっとしている分には差支えないが、起てば凶、起は行動を起こす、民心が離反しているのに行動を起こせば凶。

九五。以杞包瓜。含章。有隕自天。 象曰。九五含章。中正也。有隕自天。志不舍命也。

九五は、を以てを包む。しょうを含む。天よりつることあり。
象に曰く、九五章を含むは、中正なればなり。天より隕つることあり、志しめいかざるなり。

『杞』は杞柳、カワヤナギ、材質柔軟で強く、編んで行李や籠にする。『含章』の字は坤六三にも見えた。内に美しい文を蔵す。
九五は陽剛で「中正」(外卦の中、陽爻陽位)、卦の主体として力と正義に満ち、下に僅かな小人(初六の陰)が発生しても恐れることはない。逆にそれをすっぽりと包容してやる。譬えば杞柳の籠で、瓜を包むように。瓜は地に匍うから陰に属する。甘美で潰れ易い点、巧みに媚びて潰乱を起こし易い小人に譬える。
杞柳の籠は丈夫で潰れ易い瓜を潰れさせない。つまり九五の徳と力が、初六の小人が惹き起こすであろう崩壊を未然に防ぐ。
しかし陰と陽、小人と君子が勝ったり負けたりするのは時運の常である。九五が驕ることなく、自分の美しい徳を包み蔵して(=含章)、平静に小人の伸長に備えるならば、姤すなわち陰の成長という良くない時の動きを一挙に逆転させるという奇蹟も可能である(=有隕自天)。
『天より隕つるあり』天の軌道から外れることから、忽然と意想外のことが起こる意味
になる。占ってこの爻を得た人、隠忍していれば、思わぬ福がやって来ることもあろう。象伝の前半分は、含章の章が中正の徳を指すことを明らかにした。
『志し命を舎かず』舎は放置、夫、乾のあと陰がまた生ずるのは自然の理、天命である。九五は陰を防ぐという志を立てて、天命のままに放っておかない。そこに天命を超えた奇蹟も起こる。それが天より隕つるありだという。

上九。姤其角。吝。无咎。 象曰。姤其角。上窮吝也。

上九は、そのつのう。りんなれど、咎なし。
象に曰く、その角に姤う、かみきわまって吝なり。

角は動物の体の最上の位置にあって剛なるもの。上九も卦の最上位で剛爻、角に似ている。上九はそれに無位の場所、自分から孤立している。
姤とは、陰と陽の姤うという時であるが、初六の陰が姤おうにも、余りに遠く、頑くなで、取りつくしまもない。角のような堅いものは触れるものを傷つける。角に姤うような感じである。ただ、陰に遇わないということは、小人と接触しないことである。偏狭で羞ずかしい(=吝)けれど、悪に染まる惧れもないので、咎はない。

コメント

タイトルとURLをコピーしました