19.地澤臨(ちたくりん)【易経六十四卦】

易経
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地澤臨(迫り臨む/世に臨む)

development:発展/approach:接近
時期到来す。時はまさに今なり。
盛者必衰、心を引き締めるべし。

有事而後可大。故受之以臨。臨者大也。
事ありて而る後大なるべし。故にこれを受くるに臨を以てす。臨とは大いなり。
蠱があってこそ事業は大きくなるので、蠱卦のあとに臨卦が来る。臨とは大である。
いろんな出来事があり、それをうまく処置することができてその後にはじめて大きくなることができる。臨とは高いところから低いところを見下ろすこと。転じて支配と保護を及ぼすことである(君臨)あるものに臨むにはそのものよりも高いところにいるか、大きいことが必要であることから「大いなり」という。

物事が順調に滑り出して行く時で、希望は達成され、計画したことや仕事は大いに前向きに進展していく。だから運勢は頗る強大で、この卦が出たら何事も進んで効果のあがる時といえる。しかし、考え方を固執したり意地を張って時機を逃がしては何もならず、事々に素早い決断が大切である。要するに臨機応変の構えが絶えず必要と云え、そうすることによって事態が発展していくのである。
この卦のときは移転問題、模様替え、職場の配置換え、転業などが多く見られ、若い女性であると妊娠の兆候があったりする。これからグングンと運気の上昇していくときだから行く先々は楽しみだが、その為に下手な取り越し苦労や躊躇することは避けたほうが賢明というもの。
[嶋謙州]

余裕ができると、人も金もついてくる。すると悪い虫がつく。そこでこの悪い虫、すなわち障害や難事をよく排除するとまた新しい天地が開けて、喜ぶことができるという卦であります。
[安岡正篤]

臨。元亨利貞。至于八月有凶。

臨は、元いに亨る貞しきに利あり。八月に至りて凶あり。

臨は、上から下を臨み見る、見下ろす、また向かいすすむでもあり、能動的な意味の字である。上から下に臨むだけでなく、すべてこちらから対象のほうへ進んでいって、威圧的にせまる意味になる。

地が沢の淵に臨んでいる象。水が満々と湛えられた淵があれば、誰もが好奇心や警戒など、何らかの興味をもって観察しようとする。それが臨のあるがままの象で「のぞみ見る」という意のある所以である。
また、二つに分けて、地の側からと沢の側からと双方の関係を見れば、沢の水が地下に浸み込み、水はまた地中を潤し、そこに生気を与えているように、両者が相臨む象にもなる、
この卦は消息卦の一つ、旧暦十二月(新暦一月)に配当されている卦である。
陽がようやく成長して、下から進んで陰に通っている。進み逼る意味で臨と名づける。また上下に分けて見れば、下卦は兌、説ぶ。上卦は坤、順うしたが。卦に説び順う徳があることは、こちらの望みが大いに通ることを約束する。また九二は陽剛で下卦の「中」におり、上卦の六五に「応」じて、前進の可能性がある。よい意味の卦なので、元亨利貞の四徳がそろっている。占ってこの卦が出たら、占う人の運勢は元いに亨る。また貞しきに利あり正道を固守すれば利益があろう。
これから新しく陽気が大いに伸びゆく時期であるが、陽気盛んになればやがては衰える。それが、八月に至りて凶あり。旧暦の八月は新暦の九月。九月と言えば、やがて霜も下りるような陰の勢いが増して来る時期である。今、臨の時には陽が長じつつあるが、それが衰え逆に陰の勢いが増しはじめる時期になる。陽極まれば陰となるのが自然の摂理なのだから、何かあってから対処するのでは遅すぎる。伸びゆこうとする時には、すでに衰退に備えておかなくてはならないという戒め。

彖曰。臨。剛浸而長。説而順。剛中而應。大亨以正。天之道也。至于八月有凶。消不久也。

彖に曰く、臨は、剛ようやくにして長ず。よろこんでしたがう。剛中にして応ず。大いに亨るに正を以てす、天の道なり。八月に至りて凶あり、しょうすること久しからざるなり。

陽がだんだん伸びて陰に臨むのが、臨の卦名の由来である。説んで、順う。九二が「剛中」で六五と「応」ずる。これみなこの卦の善い要素である。されば、大いに亨り、しかも正道に沿う。ということは、天道に合致している。天道がそもそも大いに亭り、至って正しいものであるから。
陽の成長期にあたってこの善さがあるから、占断はかくもめでたい。ただし八月に至って凶がある。なぜならば、今でこそ陽が成長して陰を圧迫しているが、いつまでも陽が栄えてはいない。遠からずして陽の消える時が来るから。人間でいえば陽は君子、陰は小人。陽と陰、君子と小人の互いに消長することは、天の動きの当然とはいえ、君子の道盛んな時期に於て、やがて来る衰えの時を警戒せねばならない。

象曰。澤上有地臨。 君子以教思无窮。容保民无疆。

象に曰く、沢上に地あるは臨なり。君子以て教思きょうし窮まりなく、民を容れやすんずることかぎりなし。

沢の上に地があるということは、地が沢に臨んでいること。臨むというのは上から下を見おろすことである。岸は沢より高いから臨むという。君子はこの卦に法とって下なる民に臨む。すなわち民を教え導こうという、飽くなき意志をもち、民を、無限の広さにわたって包容保護する。この二つのことはいずれも上から下に臨む仕事である。

教思無窮とは、上の者が下の者を養い育てること。教思は、教え導き深く思いやる。無窮は、限りなく受け入れ導く。内卦兌に説ぶの徳があるのにより、民を容保すること無彊なのは、外卦坤、地の広大さにもとづく。

初九。咸臨。貞吉。 象曰。咸臨貞吉。志行正也。

初九は、かんじて臨む。貞にして吉なり。
象に曰く、咸じて臨む貞吉なるは、志しせいを行うなり。

 

咸は感と大体同じであるが、感のほうがやや精神的であり、咸は自然の成り行きで咸ずるのが当然だという天性の咸である。だから、自然と誰もが感ずる咸なのであって、これを「みな」あるいは「ことごとく」とも読むわけである。
咸臨とは、感動させることでもって相手に臨むこと。上に立つ者、下にいる者、君臣が心中で感じ合い、一致協力して事に臨み、それぞれ悦んで応じ合い、正しい道を行き、志を行う。
臨は陽が陰を圧迫する時であるが、初九は六四と「応」じている。感応しうる関係にある。あたかも男女が互いに感じ合うように相求め、相与えようとする状態。だから初九は力で臨まなくても徳で相手六四を感動させ、服従させることができる。
初九は剛毅(陽爻)で正しい(陽爻陽位)。当然それだけの徳がある。
貞吉には貞しければ吉という場合と、貞しくして吉という場合とがある。この爻辞は後者。その臨むところが正しいものでなくてはならない。元来、陽正のすすみ長ずるという性質の卦だから、陽爻はこの場合貞しいのである。貞しいから吉なのである。
占ってこのが出れば、美しいうえに結果も吉。象伝の意味は、この爻の貞吉なる理由は、初九の意志が正道を行なうにあるからである。

※万延元年(1860年)日本人初の太平洋横断を成し遂げた咸臨丸(艦長:勝海舟)の船名はここからとった。

 

九二。咸臨。吉无不利。 象曰。咸臨吉无不利。未順命也。

九二は、咸じて臨む。吉にして利あらざるなし。
象に曰く、咸じて臨む、吉にして利ありざるなきは、いまだ命にしたがわざるなり。

九二もまた六五と「応」じている。六五を徳で感動させることができる。六五は柔順(陰爻)、九二は剛(陽爻)で「中」(内卦の中は二)を得ている。昇り進むのに何の支障もない。無条件の吉、故に占断として、吉、利あらざるなしという。
この臨の世にあって、君主のもとめに応じ、民衆の要望に応えて、泰平の世を招くため、その先達となってゆく爻だからである。
象伝の意味は、九二が「不正」であるのに何故吉で、利あらざるなしであるかといえば、二は陰に身近く迫っている。四陰は上に集結してこちらの命令にあっさり従おうとはしない。そこで九二の「剛中」の徳で感動させて、始めて命令に従わせることができる。剛に過ぎても、それがかえってよい。そこで吉、利あらざるなし。占ってこの爻を得た人、剛と中庸の徳を以て進むとよい。

六三。甘臨。无攸利。既憂之。无咎。 象曰。甘臨。位不當也。既憂之。咎不長也。

六三は、甘んじて臨む。利するところなし。既にこれを憂うれば、咎なし。
象に曰く、甘んじて臨む、位当らざるなり。既にこれを憂う、咎はながからざるなり。

三は下卦の一番上である。臨というのは上から下に臨むこと、六三は人に臨む地位にある。しかるに性質は陰柔(柔爻)で、中正でない(内卦の中を得ず、陰爻陽位)。その正しからぬ臨み方が「甘く臨む」である。それに三は、下卦兌の主たる爻であるが、応じる爻がない。それだけに志も弱くカラ元気だけの爻なのである。兌は説ぶの意味を有する。つまり六三は、甘い悦びを餌にして民に臨む佞臣ねいしんである(=甘臨)。口先が甘く傲慢で、事を見下して臨むのでよろしきところがない。こうした態度は甚だ不徳義なこと。判断辞に利するところなしとあるのは当然である。しかしながら、自己の態度に危惧を覚えて、戒慎するうえは、咎を免れるであろう。その態度の不遜なことに気付いて憂い、改めて臨むなら救われる可能性はある。
この爻が変ずると地天泰となる。「既に之を憂うる」のであれば、その大なるべき咎も長いことなく治まるのである。臨の中では、この爻が一番良くない爻である。

六四。至臨。无咎。 象曰。至臨无咎。位當也。

六四は、至りて臨む。咎なし。
象に曰く、至りて臨む、咎なきは、位当ればなり。

至は最も優れたの意味。六四は陰で陰位におる。つまり正当な地位におる者(象伝)。しかも下に向かって初九と正しく「応」じている。いわば大臣(五の君のすぐ下だから大臣)が、身を正しく守り、下位の賢人に委任している形である。これこそ下に臨む態度の最高(=至臨)。自分を過信するような事もなく、賢人の助けをよく用いるので当然、咎はない。至りて臨むとは、低い位置にある応爻(初九)の許に、自ら至ってもとめるという意味で、そういう事ができるのも、この六三は世に処して行く正しい道を知っているからなのである。
占ってこの爻を得た人、有能な協力者に任せれば、過失はないであろう。

六五。知臨。大君之宜。吉。 象曰。大君之宜。行中之謂也。

六五は、知あって臨む。大君のなり。吉。
象に曰く、大君の宜は、ちゅうを行うのいなり。

知は智と同じ。六五は君である。臨の定卦主であり、臨の時、臨の性質、臨の成り行き、臨に処する方法をよくわきまえている。柔順の性(陰爻)を以て「中」(五は外卦の中)におり、下に向かっては九二の剛に「応」じている。九二の剛強な者を挙げ用いて、よくこの時に当たらせる。つまり自分は動かないで、実力ある臣下に事を任せるかたち、これこそ智慧のある臨みかたである。(=知臨)
この全ての事を良く知り弁えて臨む「知りて臨む」ということは、人材登用の道を素直に歩む者であり、大君のよろしくとるべき態度である(=大君之宜)。
占う人、このように智慧をもって下に臨めば、吉である。象伝、中を行なうとは、五二も「中」であるから、意気投合して中庸の徳を実行すること。

上六。敦臨。吉无咎。 象曰。敦臨之吉。志在内也。

上六は、臨むにあつし。吉にして咎なし。
象に曰く、敦臨とんりんの吉なるは、志し内にればなり。

敦は厚、手厚い。上六は卦の最上位におる。人に臨む立場にある。しかも臨の終りにあたる。臨も上六へ来ると、これ以上の臨み方はないというところまで来てしまう。下に臨む道の極致に至ったようなもの。
震為雷という卦は、初爻に百里を驚かせるような強い意味があり、上爻へ行くとおとなしくなってくる。上爻へ向かって極まって行くという点では、この卦と同じだが、その勢いの強弱からいうと真逆で、臨においては咸臨、至臨、知臨、敦臨と段々とその意が深くなってきている。
普通極点に登りつめることはよくないとされるが、この卦の場合は、下の二陽が昇り進んで来るのを、上六が柔順な態度で(陰爻だから)、手厚く待ち設けてやる。下に臨む態度が手厚い~敦臨~これは上に立つものとしてめでたいありかたである。
「敦く臨む」とは、篤く臨むことである。六三とは不応だから力にならない。また上六は、六三のように甘く臨んだりはせず、外卦坤の極にあるので慎重を期して臨む。そこでこの爻を得れば、吉、咎なしと判断する。
上六は、初九、九二と正規の「応」ではないが、臨卦にはほかに陽がないので、その気持ちとして内卦の二陽に応ぜざるを得ない。象伝はそのことを指す。

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