姓名判断考:2007年06月10日
画数で運命が決まるのか?!
姓名判断で改名したら運が変るのかどうかの議論はひとまずおいといて、
新生児の命名については、できれば良い名前をつけたいと思うのが親心ではないでしょうか。
ひとくちに姓名判断といいましても、旧漢字でみるのか新漢字でみるのかによって画数が変るわけですからシロウトさんにとって、ここが一番頭を悩ますところです。
さらに流派もいっぱいあるからして、なにがなんだかわけのわからん状態。
これがわが国にっぽんの姓名判断事情なのです。
ある方からこのような質問をいただきました。
生まれた子供の名前を考えておりますが、ある思い入れがありまして、『英』という字を入れた名前をつけたいと思っております。しかし、参考にする本によって画数が色々と分かれていますので少し混乱しています。一体、どれを信じればよろしいのでしょうか?
〜ご回答〜
仰るとおり、その【画数問題】というのは誰もが感じている素朴で純粋な疑問ではないでしょうか。
さて、そういう場合は一度原点に帰って考えてみるのが一番賢明な思考法だと思います。そもそもわが国日本で、姓名判断とか姓名学と呼ばれているものは、御多分に漏れず中国から伝わってきたものです
これは、五術:『命・卜・相・医・山』の中では【相】にあたるものです。
手の皺で判断するのが手相、顔のつくりからその人となりを判断するのが人相、名前の画数から判断するのを名相といいます。
相術の原点は中国なのですから、字画のとりかたも漢字源流に従ってとるのが道理に適っているのではないだろうか、と私は思うのです。
ちなみに、【英】という漢字の意味はこのようなものです。
会意兼形声文字。
【英】とは中央がくぼんでいて、芯を含んだような形をしている花のことをいいます。
(類義語に【華】がある)
【央】というのは、大の字に立った人の首をわくでおさえた様子をあらわしている会意文字です。
つまり【英】という漢字は『艸+音符の央』で構成されていて、中央がおさえられたように窪んだまるい花のことを意味しているのです。
なので
艸
央
は、11画ととるのが本流だ、と私は思います。
*
それで、ジッサイ電話帳をめくって調べたらわかるのですけど、都内だけでも歴代首相と同姓同名の「吉田茂サン」「佐藤栄作サン」は400人以上もいるのです。
この人たちがみんな同じ運命、運勢なら、なんだか素敵でもあり、また怖くもありますよね。
まあ、ここのところはさすがの姓名判断大先生も姓名判断マニアも「画数が同じだと運命も同じになるんだよチミ」とはいわないでしょうな。小学生だって素朴な疑問を感じるもんね。
それと、あのエゲツナイ霊感商法の連中だって同じだとはいわないのですよ。
だーかーらー
その詭弁として、生年月日を持ち出すわけです。
「生年月日と画数が一緒の人はまずいないでしょ〜?」って。
蛇のような目でねめまわすのです。
そりゃそーだ。
生年月日と画数が一緒の人は滅多にいないわな、よく考えたトークだねまったく。
姓名判断紛いのトークをして、そして生年月日を聞いて、一白だの二黒だの五黄だの。日本人が好きな子供だましの九星占いをおまけ程度にやってあげて、「ああー、あなたはこの画数が悪いですねえー、改名するのは法的手続きが厄介ですから凶数を吉数に変えた判子つくったらいいんですよ〜」て。
それでもって脅かしトークで恐怖心を煽って、ン十万の判子セットを売りつけるって寸法なんです。
気をつけてくださいね皆さん。
もう占いなんか信じるのはやめましょう。
占いなんて信じなければ霊感商法にも騙されないのですからね。
四柱推命と姓名判断は基本的に別の占法
四柱推命(子平)は【命】(めい)をみるものであり、姓名判断は【相】にあたる、手相や人相の類であります。
たぐいと書いたのは、正確に分類できないからであります。
そもそも五術の【相】とは外形の観察であり、それらをを観察することで、その本質を究明するものであります。
目に見えるものだけを手がかりに、目に見えない内性を知ろうとする術なのであります。
姓名判断に関しては、目に見える(姓・名)から目に見えない内性を知ろうとするところまでは理論的に筋が通っているのですが、改名によって運命を操るという理屈になると、この時点で【相】には分類できないのであります。
たとえばこういうことです。
手相を例にとりましょう、生命線が短いから短命だといわたから手相整形までして生命線を刻む人がいるだろうかということなんです。(いやジッサイいるかも?)
人相に関しては、整形によって実際人生がバラ色になった人結構いるよという反証を出してくる人がいるかもしれません。
確かに、整形によってモテモテになった男女がいるでしょう、暗かった性格が明るくなった人もいるでしょう、それは否定しません。
しかし私が言いたいのは
【相】は、あくまで外形から無形の内性を知ろうとする術であって、主体と客体の関係は、手相を例にとると、手のシワが客体なのであって、決して主体ではないということです。因果関係でいえば手のシワが果ということなんです。
これはどういうことかというと、内性(心がけや運など)が変われば外形(手のシワ)も変わるということなんです。
心が変われば顔つきも変わるのは、経験的に皆さんは理解されていることとおもいます。
例えば風水(家相)などは住みやすい住居の為の知恵です。
採光、通風、動線計画、デザインなどが総合されたものです。
艮(うしとら)の方角、北東になにがあっちゃあいけないとかいう迷信ではないのです。いかに快適な住居空間を創るかということが問題なのです。
迷信的な家相の理屈や、表面的なデザインに惑わされた結果、暗い住みにくいじめじめした、不便で使いにくい家屋をつくるなんてのは本末転倒なのです。
住んでみて快適に感じる家屋のことを風水(家相)がいいというのです。
主体と客体の関係をあべこべにとらえてしまうとおかしなことになります。
姓名判断の基本理論は、字数からその人の内性を知ろうとする術であって、開運をするとしたら、そのご本人の心がけ、心の持ち方を変えるしかないのです。
改名したら不幸が去った、という体験をした人のことを私は否定しません。
しかしだからといって字数と運や幸不幸との間に因果関係があるとはいえないのです。
改名してもよくならなかった、かえって不幸になった、などという反証もたくさんあるのですから。
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