62.雷山小過(らいざんしょうか)【易経六十四卦】

易経
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雷山小過(小事に於ける行き過ぎ/知足)

isolation:孤立/small excess:少しの超過
妄りに進むべからず。
慎んで守る秋なり。

有其信者必行之。故受之以小過。
その信ある者は必ずこれを行う。故にこれを受くるに小過を以てす。
人に信用がある者は、必ず人より過ぎた事業を行うものである。

『小過』とは、小なる者が多過ぎること、また少し過ぎること。『大過』と対になる卦である。小とは陰のこと、陰爻が陽爻にくらべて多すぎる。つまり小粒な人間が幅をきかせているのである。
卦の形は、飛んでいる鳥の形をしている。卦の真ん中の三爻と四爻の陽爻の胴体であり、初爻・二爻・五爻・上爻の四つの陰が鳥の翼に当たる。
さて、鳥が空を上っていくことには限界がある。この卦は、小さな鳥が、空高く上り過ぎてしまった象である。またこの卦は、上下が背きあっており、二爻ずつまとめれば☵(危難)になる。分裂や食い違いによって困難に直面している時期にある。こんなときには、無理に大問題に取り組もうとせず、日常の事務をてきぱき片づけることが大切である。消極的すぎるという非難を受けるほど低姿勢で事にあたるならば、大吉となる。

四面楚歌という言葉があるが、誰からも相手にされないような、孤独の淋しさがにじみ出ている時である。
孤立無援というか、こちらから働きかけても相手は乗ってもくれないし、なんの援助もない。
運勢も弱衰運だから下手に焦ったり、事態を挽回しようとして余計な手出しや小細工をしようものなら火傷をしたり、とばっちりを喰ったりでろくなことはない。
世の中には自分一人で成功したと思っている者も居るが、自分一人で何も出来るはずはなく、そこには隠れた人の力や、才能を見出してくれたり成功に導いてくれた周囲の人間のあったことも忘れてはならない。
それだけ人の力は大切で、それが得られない時は静かに反省して時節到来まで日々の努力や勉強を片時も怠らないことが肝要だ。
[嶋謙州]

小過とは、分に安んじ、足るを知るという意味であります。
日常生活をやっていくうえにおいては、常に陰徳をもって、控え目にしなければならない。
あまり派手に行動することは、よくないという戒めの卦であります。
[安岡正篤]

小過。亨。利貞。可小事。不可大事。飛鳥遺之音。不宜上宜下。大吉。

小過は、亨る。貞しきに利あり。小事しょうじには可なるも大事には可ならず。飛鳥ひちょうこれがのこす。のぼるによろしからずくだるに宜し。大いに吉。

飛ぶ鳥の鳴き声はするが、姿は見えない。高く飛び過ぎてばかりで止まる場所を得ないのでは、疲れてしまう。飛び過ぎたな、無茶をしたなと思ったら、速やかに力を抜いて地上に降りて休むのがよい。
これはやりすぎを戒める、日常のあらゆる事柄における教訓である。
雷山小過の卦名「小過」は、少しく過ぎる。日常的な事柄に関して少しずつ行き過ぎや過ちがある時を説く。

中孚䷼の陰陽を逆にした卦。小過とは小なる者が過度である意味。この卦は四陰二陽で、陰が過度である。陽は大で、陰は小だから小過。大過䷛の卦が陽の過度であるのに対する。
小過が中孚の裏卦だとういうことは、この卦を理解する一つの鍵となっている。中孚は大離の卦であり、離をもって雉とし、それを飛鳥の象とする。その裏卦である小過では大離の形が隠されてしまって飛鳥の姿がもう見えないので、卦辞でも『飛鳥之が音を遺す』と言っているのである。
大過䷛の卦は、陽の『大なるもの』が過ぎていたのに対し、この卦は陰の『小なるもの』が過ぎている象である。それとともに、大過は『大いに過ぎる』意だったが、小過は『小しく過ぎる』意がある。では『過ぎる』ということが悪いことかと言えば、決してそうばかりではない。大抵の事は少し過ぎるくらいでないと、かえって上手く行かないと言ってもいいくらいである。例えば、八時に電車に乗る場合、ちょうど八時に着くよりは、少し早すぎるくらいに行ってちょうど良い、といった具合である。
それは、正しいことに対して、又どうしてもやらなくてはならに事に対して、そのようにすべきであるのは言うまでもない。
清の王引之は、小過とは陰が行きちがって思わない意味で、過度の意味でないといい、王夫之『稗疏』はその逆である。爻辞には通り過ぎらしいのもあるが、大象は明らかに過度の意味に解しているので、一概には言えない。日本語のすぎるにPass byと Excessと両義があるように、過の字はある地点を通り越えることで、それが同時に過度ということでもある。どちらかに固定する必要はあるまい。
さてこの卦は陰が行き過ぎているという点で、亨るの徳が具わる。占ってこの卦を得れば、願いは通る。しかし正しい道を守らねばいけない(=利貞)。小過という卦だから、小さい事ならしてもよいが、大きな事には不可である。
またこの卦の形䷽は飛ぶ鳥に似ている。真ん中の二陽が鳥の胴体、上下の各二陰は左右の羽翼である。大体、前の中孚卦の孚が鳥が卵を孵す意味だった。それに続くこの卦に鳥が出て来て不思議はない。
『飛鳥これが音を遺す』鳥が飛び過ぎつつ、耳に尾を引いて、鳴き声を残すであろう。その声を良く聞けば「不宜上宜下」と言っている。
鳥に於ても上に昇れば止まる処がなく、下に降れば安らかに棲る場所を得るから、そう戒め合っているのだろうが、その声はまさに人間への神託でもある。
大卦の離が伏して見えないところから来ているが『小しく過ぎた』という卦意から、その飛び去った鳥の音はまだ聞こえる程度なのである。しかし、それが更に高く飛んだならば、もう其の音も聞こえなくなってしまう。だから『上るに宜しからず、下るに宜しくして大いに吉なり』なのである。
それと同様に、傲慢さから自らを高しとすることに過ぎるのはよろしくないだが、『謙恭』などのように自らを低くすることに過ぎるのは、かえって吉を得るという意も含んでいる。それは、小過の卦そのもが大坎の象であることから来ている。
坎は下るという性を持っているので、下るのはその性に順であり、上ることはそれに逆らうことであるのである。
占う人、昇ってはよろしくない。下に降るようにすべきで、そうすれば大吉。

彖曰。小過。小者過而亨也。過以利貞。與時行也。柔得中。是以小事吉也。 剛失位而不中。是以不可大事也。有飛鳥之象焉。飛鳥遺之音。不宜上宜下。大吉。上逆而下順也。

彖に曰く、小過は、小なる者過ぎて亨るなり。過ぎて以て貞しきに利あるは、時と行うなり。柔ちゅう。ここを以て小事には吉なり。剛くらいしつしてちゅうならず。ここを以て大事に可ならざるなり。飛鳥の象あり。飛鳥これがのこす、のぼるに宜しからず、くだるに宜し、大吉とは、上ることは逆にして下ることは順なればなり。

小過とは、小なる者つまり陰爻が行き過ぎている意味で、行き過ぎることによって願いが通るのである。行き過ぎであっても(以=而)、利貞の徳が具わっているのは、行き過ぎることが時宜に叶った行動である場合があり、そのような場合の行き過ぎは貞しいとされるからである。
上下卦とも柔が「中」(二、五)を得ている。だから小事には吉。この卦に剛爻が二つあるが、四は位が「不正」、三は「不中」なので、大事に可ならずという。大事をなすには、力強い陽爻が中心に居なければならないからである。
この卦には飛鳥の形がある。そこで卦辞に飛鳥云々の語が出て来る。上るに宜しからず下るに宜し、大吉とは、鳥が下から上に昇るのは逆であって難かしく、上から下に降るのは順当なように、過ぎた行為をする場合、上昇すなわち積極の方向に過ぎるのは危険であるが、下降つまり消極の方向に過ぎるのはよい。倹約に過ぎるなどがそれである。
飛ぶ鳥の鳴き声はするが、姿は見えない。高く飛ぴ過ぎてばかりで止まる場所を得ないのでは、疲れてしまう。飛び過ぎたな、無茶をしたなと思ったら、速やかに力を抜いて地上に降りて休むのがよい。これはやりすぎを戒める、日常のあらゆる事柄における教訓である。

象曰。山上有雷小過。君子以行過乎恭。喪過乎哀。用過乎儉。

象に曰く、山の上にらいあるは小過なり。君子以て行いはきょうに過ぎ、そうあいに過ぎ、ようは倹に過ぐ。

この卦は山の上に雷のある形。雷は地中に震うのが常であるが、今山の上で轟く。その声は常より小し過ぎている。そこで小過と名付ける。

『恭』は丁寧で慎み深いこと。行いは慎重丁寧に過ぎるくらいが良い。
喪の際には、儀式よりも哀悼を中心に、少し哀しみの情に過ぎるくらいが良い。
物を用いる時は、とかく贅沢に流れやすいので、少し倹約気味にして丁度良い。
君子はこの卦に象どって行動は恭順に過ぎるくらいにし、服喪には哀悼に過ぎるくらい、用度は倹約に過ぎるくらいにする。この三つは小事に於ける行き過ぎであり、小の方向すなわち消極の方向への行き過ぎである。それも小し過ぎる程度に止めるべく、大きく過ぎてはならない。そうした点で、この三つは小過の卦名に適合する。

なお『論語』に

「恭礼に近ければ、恥辱に遠ざかる」(学而第一

「礼は其れ奢らんよりは寧ろ倹喪は其れかろがろしからんよりは寧ろいため」(八佾第三

とあるのは、この象伝の発想と揆を一にする。

初六。飛鳥以凶。 象曰。飛鳥以凶。不可如何也。

初六は、飛鳥以て凶。
象に曰く、飛鳥以て凶なるは、如何いかんともすべからざるなり。

朱子は小過の爻辞は最も不可解だという。初六は陰柔の小人で、上には九四の「応」があるものだから、心騒がしく飛び上ろうとする。小し過ぎるの時なのに、過度に高く飛び過ぎること、鳥のようである。
小過䷽の全形を鳥と見れば、初と上はひろげた翼端に当たるので、初と上に飛鳥の語が用いられる。小人の身で、昇ることだけを知って降ることを知らない。卦辞の戒め、上るに宜しからずに背いている。当然、結果は凶であり、どうすることもできない。以て凶の以ては、飛ぶを以ての故にの意味。

この『飛鳥』とは、まだ実力も経験もない者が縁故を使って一足飛びに立身しようとすることの喩え。少し才能を認められただけで、高みまで行けると勘違いをする。そして欲に駆られ、時に逆らい、分限を忘れてしまうと、結果として凶になる。

六二。過其祖。遇其妣。不及其君。遇其臣。无咎。 象曰。不及其君。臣不可過也。

六二は、其の祖を過ぎて、其のに遇う。其の君に及ばず、其の臣に遇う。咎なし。
象に曰く、其の君に及ばず、臣過ぐるべからざるなり。

『祖』は祖父、『妣』は祖母。六二に応ずべき爻は五である。ただし五が陽でなければ「応」じない。五がもし陽爻ならば、祖父、君に当たるが、ここでの五は陰爻なので、祖母、臣に当たる。
六二は「中正」なのでずんずん昇り進むけれども、一向に九五の「応」には行き遇わず、自分と同じ陰爻の六五に出遇う。つまり祖父を通り過ぎて、祖母に遇い、君の処には行き着けずに、臣に出遇うようなものである。
象伝の臣過ぐるべからずとは、爻辞の其の臣に遇うを解釈する。六五が君(陽爻)でなくて臣(陰爻)だったにしても、五は本来二に対応する位なので、ここを通り過ぎるわけにゆかない。
五はふつう君位を指すが、この爻辞に関する限り、位に拘わらず、陽を君、陰を臣と表象したので、六五爻辞に君主のイメージがあるのと矛盾しない。
占ってこの爻を得た人、進んでも頼りになる援助者と行き遇わないが、中正の道を守れば、咎はない。

九三。弗過防之。從或戕之。凶。 象曰。從或戕之。凶如何也。

九三は、過ぎずしてこれを防ぐ。従って或いはこれをそこなう。凶。
象に曰く、従って或いはこれを戕う、凶なること如何ぞや。

『戕』は害、他国の者に殺された場合。
九三は陽剛の君子であり、「正」(陽爻陽位)である。陰、小人の過度な時に当たり、自分の剛直さを恃んで突進するのであるが、三と「応」ずる上の位には、陰爻、小人が待ちかまえて居り、九三をやり過ごそうとはせずに、これを防ぎ止める。おまけに(=従)これを殺害しようとすることさえ有(=或)る。いかばかり凶であることか。占ってこの爻を得れば、悪人に邪魔され、殺されることあり、凶。
陰の過ぎる小過においては、陽は過ぎるどころか足りないわけだから、この九三と九四には、どちらも『過ぎず』と言っている。すなわち自分が過ぎるのではなく、過ぎたるものの災いが身に及ぶのを防がなくてはならない立場である。ところが陰の小をもって、はなはだ高ぶる上六とは陰陽相応じているため、これに従って凶の身に及ぶ危険が強く見られる。

九四。无咎。弗過遇之。往厲必戒。勿用永貞。 象曰。弗過遇之。位不當也。往厲必戒。終不可長也。

九四は、咎なし。過ぎずしてこれに遇う。往けば厲し必ず戒めよ。永貞に用うるなかれ。
象に曰く、過ぎずしてこれに遇う、くらい当らざるなり。往けば厲し必ず戒めよ、ついながかるべからざるなり。

九四は剛ながら柔位で、剛に過ぎることはない。故に咎なし。初六は妄りに高く昇る小人であったが、九四はまさに陰に対する陽で相い「応」ずる。ために、やり過ごすこともならず、初六とぱったり遇う。自分は陽で君子、相手は小人。進んで討つべきところであるが、何分陰の過度な時。進んで行動しようとすれば厲い。是非とも気を付けよ。
『勿用永貞』永貞は永遠に道を固守すること、いつまでも自分だけの正義を固執する方向にこの爻を用いてはいけない。九四が剛爻で頑固なのに対する戒めである。
占ってこの爻を得れば、静かにしている分には咎はない。悪人に遇うが、進み討っては危うい。時の勢いに順応して、杓子定規であってはいけない。
象伝、位不当とは、九四が陽爻陰位なばかりに、初六と「応」じ、従ってこれに遇わねばならない。もし陰爻陰位なら、やり過ごせるかも知れないのだがという意味。
『終不可長』は本文の勿用永貞を解釈している。頑固な態度を固執しても長くは続かない。

六五。密雲不雨。自我西郊。公弋取彼在穴。 象曰。密雲不雨。已上也。

六五は、密雲あれど雨ふらず。我が西郊せいこうよりす。公よくしての穴に在るを取る。
象に曰く、密雲あれど雨ふらず、はなはたかければなり。

『密雲不雨自我西郊』は小畜䷈卦辞にも見えた。我が西の郊外より密雲あれど雨ふらず『弋』は『いぐるみ』と読む。紐を矢につないで飛鳥を射る方法のこと、ひいては猟をすること、探し求める意味になる。
『已』は甚と同じ。『上』は平声、高い意味。六五は尊位にあるが、陰爻で力弱い。また小人の過度な時であるから、積極的に事業をしようとしてもし切れない。意欲があっても実行に移せなさまを、密雲雨ふらず云々という。そこでこの君はいぐるみによって穴にもぐっている六二を捕え、これを自分の補佐として用いる。
小畜䷈の時は、陰が陽を畜めて、陰陽相和さなかったために密雲をなしながらも雨が降らなかったのである。だがここでは、雷気が山上にあり、あまりにも高すぎる象と、陰が過ぎて陽との調和を欠くために、雨を降らせることが出来ないのである。
つまり六五は君位に在りながら、陰柔であるために、その徳が膏沢となって民を潤すことができないのに喩えたのである。
それでその滞りを打開するために、応位にある恭謙の六二を挙げ用いなくてはならないと言うのである。
穴は陰に属する。六二も陰だから在穴という。吉凶の占断は付していないが、弱い陰が二人寄っても大事をなすに足りないことは明らかである。
象伝の意味は、陽が降り陰が昇って交わるとき雨になるので、五の陰は高過ぎて陽と交わらぬから雨にならぬ。

上六。弗遇過之。飛鳥離之凶。是謂災眚。 象曰。弗遇過之。已亢也。

上六は、遇わずこれを過ぐ。飛鳥これが凶にかかる。これを災眚さいせいう。
象に曰く、遇わずこれを過、すできわまればなり。

『災』は天から降る災、『眚』は人の招いた災。『亢』は昇りつめる。
九四には『過ぎずして之に遇う』とあったが、上六はこれとは反対に『遇わずして之に過ぐ』とある。遇うというのは応じることだが、九三はその災いが及ぶのを嫌って防いだので『之に遇わず』なのである。そうして小の過ぎたる卦の極にいて、いよいよ過ぎたるのたかぶりをもって驕り、飛鳥が網に離かるような凶を招くというのである。
上六は陰爻、小人である。小過、すなわち陰の過盛な卦の窮極点におる。つまり小人のくせに高みに昇りつめたものであり、もはや遮るべき何者にも出遇うことなく、高く飛び過ぎて行く。小人の身で昇りつめれば法網にかかる。飛鳥も天に昇りつめれば、身を安んずる処がなく、射落されたりする凶運にかかる。自分の分限も時勢も知らずにいれば、災いが及ぶこととなる。わかりきったことのようだが、このような理由で失墜する人は今も後を絶たない。
上爻は初爻と同じく鳥の翼端に当たるから飛鳥という。
占ってこの爻を得れば、高く飛ぶ鳥が矢にかかるような凶運にかかる。それも自から招いたもので、これを天災にして人災という。

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