60.水澤節(すいたくせつ)【易経六十四卦】

易経
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水澤節(止まる・節約/節目・区切り)

moderation:節度/limitation:制限
節倹を守る時なり。
進めば坎険、止まるべし。

物不可以終離。故受之以節。
物は以て終に離るべからず。故にこれを受くるに節を以てす。
物事は、離散することがいつまでも続くことはなく必ず引き締めるようになる。

『節』とは『限りありて止まる』で、いわゆる節度を守ることである。節の本来の意味は竹のフシで、区切りをつけてしめくくるものである。個人の健康(節制)から、対人関係(節操)、政治(節義)、さらに天地の推移(節季)も、すべて『節』があってこそ順調に行なわれる。
卦の形は、沼沢(兌)が水をたたえている状態を示し、川の水が氾濫もせず、涸渇もしないよう調節しているのである。甘い誘惑をしりぞけるのは苦しい。しかしその苦しみ(坎)を悦んで(兌)受け入れるのが『節』である。
『節』を守ってこそ真の幸福があるのだ。しかし、『節』に固執しすぎるのもよくない。節倹が過ぎて病気になるのはつまらぬことである。


現在何事か節制しなければいけないと思いつつ、なかなか節制出来ない時、これが現状である。例えば連日仕事の過労で二、三日休みを取りたいと思ってもそれが出来ないとか、医者から酒をほどほどにと云われているのにどうしても止めれられず、つい深酒してしまうとか、節約しないと家計のやりくりがつかないのに、つい派手に使って足を出してしまうとか、いろいろの状態が浮かび上がってくるが、ここはとにかく、意を決して節度を保たねばならない時で、「えーわ、えーわ」でいい加減に放って置くととんでもないことになり、命取りにもなりかねないから充分注意すること。
運勢は可もなく不可もない時だから、今のうちに覚悟を決めて節制しておけば大事に至ることなく無事平穏に通せるようになるから、くれぐれも手遅れのないようにせよ。
[嶋謙州]

いろんな境遇、あるいは状況に応じて自由自在に応接、進歩して行くためには、しっかりとした締めくくりがなければなりません。いわゆる節、節操というものが必要です。それを説いたものが節の卦であります。
[安岡正篤]

節。亨。苦節不可貞。

節は、亨る。苦節貞にすべからず。

渙䷺を上下反対にしたのが節。節は竹のふしから、区切りがあって止まる意味になる。節制、節倹、節操など、その意味を含む。

この卦は下が沢、上が水。沢の上に水を加えるとき、度を過ぎれば溢れる。自ずから、限り、節度がある。それで節と名付ける。節ということは良いことなので、この卦に亨るの徳があるのは当然である。
占ってこの卦を得れば、願いは通る。けれども節ということも度を過ぎれば本人を苦しめる。度を過ぎた節約、窮屈に過ぎた節操、いずれも然り。これを苦節という。
節度とは適度な度合いをいい、節約は費用の無駄を省くこと、節食は適度な食事量に減らすこと。だが、節しすぎると体を壊すこともある。あまり堅く厳しく節制すると道が窮まってしまうという教えである。
『苦節貞にすべからず』は占う人への戒めで、度外れた苦しい節というものは、これを常則として固執してはならない。

彖曰。節。亨。剛柔分而剛得中。苦節不可貞。其道窮也。説以行險。當位以節。中正以通。天地節而四時成。節以制度。不傷財。不害民。

彖に曰く、節は、亨る。剛柔分れて剛ちゅうを得ればなり。苦節貞にすべからざるは、其の道窮まればなり。説んで以て険に行き、位に当たって以て節し、中正にして以て通ず。天地節して四時しいじ成る。節するに制度を以てすれば、財をやぶらず、民をそこなわず。

節に亨るの徳が具わる理由を卦の形から説明する。この卦は三陰三陽の卦、つまり剛と柔が半々で、上下卦とも剛が「中」を得ている。こうした良い形の卦だから亨る。苦節は固守すべきでない、そうした生き方はすでに行き詰まっているから。上下卦に分けて見れば、下は説ぶ、上は坎険である。人は気に入った対象を見ては、むやみに突進するが、険難に衝突すれば、そこで止まることを知る。で、悦びと険で節の意味になる。また九五は尊位に当たり、天下を節制する立場にあり、「中正」(外卦の中、陽爻陽位)の徳によって万民の志を通じてやることができる。
無限なる天地にも節度があり、それで四季が成り立つ。天地に節度がなければ、整然たる季節の循環はなくなる。

四季の巡りにも、程良い節がある。節分といえば春であるが、立夏、立秋、立冬も季節の変わり目、節目にあたる。四季は節を設けて巡り、万物は成長する。
人間も物事も節を設けることで成長する。適度な節を設けなければ、人も物事も途中で折れてしまう。
聖人は天地に象どり、制度を立てて人間の無限の欲望を節制する。そうすれば、財を浪費することはないし、民が欲望のままに奪い合い、彼ら自身を傷つけるようなことはない。節するに度を弁えたならば、過不及なく財を守り、人に迷惑をかけることもない。竹は節目で一度塞がり、また通る。程よい節を設けることで、真っ直ぐに生長していく。
そこから「節」には、程良く節する、また物事の通塞を知り出処進退を弁えるという意味がある。会社組織も家庭も、「節」によって経済は守られるのである。

象曰。澤上有水節。君子以制數度。議徳行。

象に曰く、沢の上に水あるは節なり。君子以て数度すうどを制し、徳行を議す。

『数度』は多少と長短。階級に応じて衣食住の程度に差等がある、その礼制をいう。
『数度を制し』とは、数々の事柄において、度合いの違いを踏まえること。
この卦は、沢の上に水がある。沢が水を受け容れるには、これだけという止まりがある。止まるという意味で節と名付ける。君子は節卦に法とって、人の欲望を節限すべく、礼の制度を定め、臣下の徳行の高下を量って然るべき階級につけてやる。
国や組織のリーダーたる人は、数々の事柄の度合いを知り、その時々、適度に事にあたらなくてはならない。度は過ぎても過ぎずとも弊害が起きる。その時の分限に合わせた度合いを考え、最適な条件を備えた規則を設ける。そのうえで自由に活動することが、『節』の教える徳である。
象伝及びここで述べられている、欲望節限のための礼制という考え方は、戦国末の儒者、荀子に著しい。

初九。不出戸庭。无咎。 象曰。不出戸庭。知通塞也。

初九は、戸庭こていでず。咎なし。
象に曰く、戸庭を出でざるは、通塞つうそくを知らんとなり。

 

節は過ぎたるを制することで、出過ぎるのを止めるのはもちろん、止まるに過ぎるものは、その止まることを制して動かすのであって、古人が『節とは進退なり』と言っているのはまことに至言である。
水沢節の卦名『節』は竹の節。竹は『通塞』を重ねて伸びていく。
節が伸びている時は通じ、節目では塞がる。通じているのは進むべき時であり、塞がっているのは退き、止まるべき時である。
戸庭は部屋の戸の外、部屋に囲まれた中庭。初九は陽剛で「正」(陽爻陽位)、世に出る能力はあるけれど、節止の卦の初めにおるので、まだ出てゆくべきでない。
初九は自己の出世欲を節制して、中庭から出て行こうとしない。その間に、時運が開けているか塞がっているかを見極めようというのである。
占ってこの爻を得た人、このように慎重ならば、咎はない。なお繋辞伝に、この爻辞を引いて、言語を慎しめという意味に布衍するのは、下卦に言説の意味があるからである。
「節」を知る者は家から一歩も出なくても通塞を知り、進退の時を知る。それを悠然と楽しむのである。

秀才不出門、能知天下事。
xiu cai bu chu men, neng zhi tian xia shi
秀才は門を出でずして、ことごとく天下の事を知る。
[古人言]

不出戸。知天下。不窺牖。見天道。
戸を出でずして天下を知り、まどよりうかがわずして天道を見る。
窓から覗かなくても天の理法は居ながらにして知られる。
[老子:第四十七章鑒遠]

 

九二。不出門庭。凶。 象曰。不出門庭凶。失時極也。

九二は、門庭を出でず。凶なり。
象に曰く、門庭を出でず凶なるは、時を失すること極まればなり。

門庭は大門の中の庭、戸庭よりは外に近い。初爻はまだ出て行くべき時ではなかったが、二になれば、「中」ではあり、出て行ってよい時である。然るに九二は剛ではあるが、「不正」(陽爻陰位)、上には応援がない(五も陽で応じない)。そこで門庭から外へ出て行こうとしない。
初九では『戸庭』と言って、ここでは『門庭』と言っている。初九では、九二の陽が門を塞いでいるのを戸に取ったのに対し、この九二の前には、もう門を塞いでいるものない。進んで外へ出て行くべき象なのである。
また、九五の応位にあるので、進んで応じ難(九五は坎の主爻)に当たるべきである。
しかし、この九二は位が正しくなく、かつ不応であるために、小さな意味の節に偏して止まることを専らにし、そこに凶を招くと言うのである。
このように、進むべき時にあたっても、止まることのみ固執して凶に陥るのは、用いるべき時を失うことの甚だしいものである。
節止することだけ知って、融通を知らない。時期を失するにも程がある。
占ってこのを得れば、世に出るべき時を失して、凶。

六三。不節若則嗟若。无咎。 象曰。不節之嗟。又誰咎也。

六三は、節若せつじゃくたらざれば嗟若さじゃくたり。咎むることなし。
象に曰く、節せざるの嗟き、また誰をか咎めん。

『節若』は節するさま。『嗟若』はなげくさま。『无咎』ふつうは咎が無い意味だが、ここでは、象伝にいう通り、誰を咎めることもできないの意味。
節制・節約できず、節度を設けられないがために失敗したことを嘆いても、それは誰のせいにもできない。自業自得というものである。
六三は陰柔で心弱い。「中」を過ぎているので、中庸を踏み越える。陰爻陽位だから、身を正しく保てない。節の卦にありながら、節度を守ることができない。節度が守れないと、歎かねばならない結果になる。これも自分が招いた罪であり、誰を責めることもできない。

六四。安節。亨。 象曰。安節之亨。承上道也。

六四は、安節あんせつす。亨る。
象に曰く、安節の亨るは、かみけて道あればなり。

『安節』は、強いて節するのでなく、心安らかに節すること。節を守って心身の安らかさを得るということである。
六四は柔順で(柔)、「正」を得ている(陰爻陰位)。
上には節の卦の主体たる九五を承けて、その感化によって自然と節の道を体得している。何の無理もなく自己を節することができる(=安節)。
占ってこの爻を得れば、願いは亨る。

九五。甘節。吉。往有尚。 象曰。甘節之吉。居位中也。

九五は、甘節かんせつす。吉なり。往けばたっとばるることあり。
象に曰く、甘節の吉なるは、位に居りて中なればなり。

『甘節』は苦節と対する。『甘い←→苦い』。『甘』は中、和む、和する。
九五は剛、「中正」、尊位にある。彖伝にいう、王者として天下を節制し、中正の徳で万民の志を通ずる者である。甘んじて自己の欲を節し、随って、他人を節制しても相手はそれに甘んずる。それが甘節。
苦節は美徳とされるが、苦しければ窮する。したがって本来は『甘節』のほうが人や物事を生かし進めるのであり、人々に尊ばれ功績をあげる「節」の道である。
節約とは我慢ではなく、やりくり・工夫であるように、『甘節』とは、今を節するのは次に自分を活かすためと知って、喜んで節に甘んずることをいう。
占ってこの爻を得れば、吉であり、進んで積極的に行動すれば万人に尚ばれるような手柄があろう。
象伝、位に居りて中とは、尊位に居り「中」を得ていること。

上六。苦節。貞凶。悔亡。 象曰。苦節貞凶。其道窮也。

上六は、苦節す。貞なるときは凶。悔ゆるときは亡ぶ。
象に曰く、苦節貞なるときは凶、其の道窮まればなり。

この爻は節卦の極点、極端な節限、苦く苦しい節倹を意味する。卦意が極まり、節を遂げることのみ激しく偏って小さな節を全うしても、大きな節を失うのである。
貞凶は卦辞の不可貞と同じ。固守していれば凶。苦しんでまで節倹するのでは、節約の道も行き詰まりであるから。悔亡は他の場合は悔いが亡ぶであるが、ここではそれだと矛盾する。後悔して改めれば、凶は亡ぶ。
この爻辞は『苦節は貞にすべからず』の卦辞の説明に尽きている。
ただ、卦辞にはなかった『悔い亡ぶ』というのは、どういう意味かと言えば、
苦難に耐えて守り貫かなくてはならない節は、誰にもあまねく行わせることができず、また長く持続させることができずについに窮することとなるので、それを固執(貞)することは、かえって凶である。
しかし禍福から言って凶となっても、その道義においては悔いるところがないという意味である。
この『悔い亡ぶ』の文字があることにより、易は単なる功利主義の所産でないことが示されているのである。

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