55.雷火豊(らいかほう)【易経六十四卦】

易経
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雷火豊(盛大の時/蒼天の星)

twilight:黄昏/abundance:多量,豊富,ありあまる程の量
運気盛大なり。
満れば欠くる、慎んで倹約すべし。

得其所歸者必大。故受之以豐。豐者大也。
その帰する所を得る者は必ず大いなり。故にこれを受くるに豊を以てす。豊とは大いなり。
その落ちつくべき所を得た者は、必ず盛んになり大きくなるものである。

豊とは盛大豊満なること。この卦はすべてにおいて満ち足りた状態を表わしている。しかし、窮すれば通じ、盛んなればかならず衰えるのが易の理である。逆境にあえぐ者には救いの道を示すが、盛運にあるものにはかならず警告があたえられる。
豊の字は、神さまを祭る時に、豆の上にお供物を、ちょうど山の上に木がたくさん繁っているように、盛り上げてお供えする形である。
卦の象は、上の卦は震であり、その性質は、動く、活動するということ、下の卦は離であり、その性質は、明らかであることである。「明以動(明もって動く)」という、伝のこの三字が最も重要である。
物の道理をよく見極める知恵()があっても、止まっていて動かなければ、大きく盛んになることはできない。かといって、動いてばかりいても、物事の状態を見極める知恵がなければ、盛んになることはできない。明察する知恵()があり、うまく活動する()ことによって、物事は大きく盛んになる。
各爻の辞は、暗黒が支配する中で明知(離)をもって動く(震)身の処し方を述べる。

満ち足りた中に何か一抹の淋しさを感じるとか、大勢の中にあっても自分一人取り残されているいるとか云った時。
一日で云えば夕方、一年で云えば秋風の立つ頃、会社勤めであれば定年間際、一生で云えば正に五十路をちょっと越したところ。
運勢は現在決して弱いとは云えないが、これからぼつぼつと下り坂にかかるときで、すべてに急ぎけりをつけて置かねばならぬ。
やりかけたことは早い目に片付け、身辺悔いや憂いを残さぬようにして置くこと。
今の安定感を保持することは良いが、新しいことに着手したり、やまっ気を出すことは極力避けたほうがよい。
所詮このカードの時は動きを阻止され、思うにまかせず、孤立無援になる恐れもあるので、無理をせず悠悠自適の態勢を崩さないこと。
[嶋謙州]

豊とは、豊満、豊穣、豊作の豊で、満ち溢れ最高点に達した状態をあらわす言葉です。人間が成功し、豊かになることは非常によいことではあるが、月が満つれば欠け、中天に輝く太陽もやがて西に傾くように、盛大なことはいつまでも続くものではない。
まして人間界においてはなおさらであると、豊満に処する道を教える卦であります。
[安岡正篤]

豐。亨。王假之。勿憂。宜日中。

豊は、亨る。王これにいたる。憂うるなかれ。日中にっちゅうよろし。

 

かくは至る。豊は高杯に物を盛った形、盛大の意味。
この雷火豊䷶もまた、外卦が震で、しかも三陰三陽で成っている卦である。帰妹䷵は、兌の悦びをもって動くので『征けば凶』と戒めていたが、こちらは離の明らかさをもって動くので、例えてみれば日輪が天をめぐるようなもので、いかにも盛んで、また大きいので、これを豊と名付けた。
帰妹を『震雷が兌の秋に奮っている』と見たように、これを夏に奮っていると見たならば、それはいかにも勢いが盛んであり、最も大きく奮う時だから、豊の卦名に相応しいといえる。
下卦は明、上卦は動、明るさを以て動くから、盛大の感じになる。盛大であれば自ずから亨るの徳が具わる。天下で最も豊かに大きい状態、それには王者だけが到達できる(=王仮之)。
豊は勢いが盛んな時であり、卦象に則しても明るさをもって動くのだから、もとより亨通を得ることができる。これを人間社会に当てて言えば、世を盛んにするのは、そこに君臨している者の力である。
雷火豊の卦は勢い豊かな時を説く。豊かな時に衰時を考えることは明知である。しかし、いたずらに憂いてはならない。
だが一面、この巨大な富と、無数の人民を抱えてゆくことは、心配なことである。必ず中天にかかる太陽のように、世界の隅々まで照らし得る徳があって、始めて憂えることなく、この豊かな時に対処し得るであろう(=勿憂宜日中)。
『日中に宜し』とは、陰で動いたり謀を働いたりせずに、日の下に明らかにすること。天下のすべてを明るく照らすことは、王の王たるものが到達できる王道である。すべてを成し遂げながら、地位の衰退や謀反を憂いて不明を働き、滅びた王は多い。そうならないように、という教訓である。

けれども日が中すれば次ぎには傾く。日の中した状態を持続して、傾かないようにするのは、大変むつかしい。その意味でこの卦を得れば、願いごと亨るけれど、危険な卦でもある。
盛大さが現れた時、もうこれ以上に盛んにする事はできないので、あとはその盛大さを保有するのに腐心しなくてはならない。この、保守するということは、進取して大を致すよりもっと難しく、ともすれば後退や衰亡の兆しが出やすい。
離下震上の卦をそのままに、日輪の勢い盛んに東天を昇る象とするならば、その日輪が中天にかかれば、今度は西に傾いて行くばかりである。
そこに豊の憂いがあるわけだが、徒に憂えることをせず、日が中天にあるうちに成し得ることを成し遂げ、最善を尽くしたならば、それで良いではないか、というのが『憂うる勿れ。日中に宜し』である。

 

彖曰。豐。大也。明以動。故豐。王假之。尚大也。勿憂宜日中。宜照天下也。日中則昃。月盈則食。天地盈虛。與時消息。而況於人乎。況於鬼神乎。

彖に曰く、ほうは、大なり。明にして以て動く、故に豊かなり。王これに仮るは、大を尚べばなり。憂うるなかれ、日中ひちゅうに宜し、宜しく天下を照らすべきなり。日中ひちゅうすればかたむき、月盈つれば、く。天地の盈虚えいきょ、時と消息す。しかるをいわんや人に於てをや。況や鬼神に於てをや。

『豊』は大という意味である。下卦が明、上卦が動で、豊大の意味を生ずる。王がこれに仮るのは、王者は何でも大きなものを好むからである。
『憂うるなかれ、日中に宜し』日が中天にかかるようにあるべしということは、天下を照らす徳あるべしという意味であり、そうであれば憂える必要はない。しかし、と作者は卦辞の言外の注意を加える。日が中天に昇れば次ぎには傾く。月が盈ちればやがてける。かくのごとく天体の盈ちけですら、時とともに消長する。ましてそれより小さい人や霊魂が時とともに盛衰するのは当然のことである。
太陽は中天に上れば、次には必ず西に傾く。月は満ちれば必ず欠ける。満ちるも欠けるも時と共に変化していく。人も栄枯盛衰を免れないが、憂いてもしかたない。豊かで盛んな勢いを失わないよう、日々できるかぎり努力して、明知・洞察の力を磨き、行動することである。

象曰。雷電皆至豐。君子以折獄致刑。

象に曰く、雷電皆らいでんみな至るは豊なり。君子以てごくさだめ刑を致す。

『獄』は訴訟、『折』は決断。この卦は雷☳と電☲(いなずま)が同時にやって来る形、盛大なエネルギーを感じさせるので豊という。君子はこの卦に法とって、電光のごとき明察で訴訟を裁き、雷のごとき威厳でもって刑罰を断行する。

初九。遇其配主。雖旬无咎。往有尚。 象曰。雖旬无咎。過旬災也。

初九は、其の配主はいしゅに遇う。じゅんといえども咎なし。往けばたっとぶことあり。
象に曰く、旬といえども咎なし、旬を過ぐればわざわいあるなり。

初爻は四と対応する爻、初からいえば四が配主、自分の配せられるべき主人である。配は配偶の意味であるが、上天に配すとか、君子に配すとかいう言い方が示すように、下の者が上の者に配合される感がある。それで初から四をいうときは『配主』、四から初をいうときは『夷主』とよぶ。応位にある『配主』である九四は、自分と配遇して力を合わせるべき相手である。その九四は初九と不応だが、その同徳が相たすけて豊を保って咎なきを得る。そればかりでなく進み赴いて、この初九が敬遇を受けるというのを『旬と雖も咎なし。往きて尚ばるる有り』という。
そのような協力が可能なのは、この爻がまだ卦の始めにあって、豊の盛大さがまだ極まり衰えていないからである。
豊の卦は勢いが過ぎれば憂いを生じる。そしてまた、配遇の九四が震の主爻で、その正徳を備え、明をもって動こうとして、この爻を夷主として迎えるからである。
九四は上卦震の陽で、震の主体だから主という。また九四は下卦離の完成した後に当たる。離は日である。
日は甲から癸までの十日を以て完成とする。豊の卦は明るさを以て動く時である。初九は動いて自分の配偶になる主人に遇う。遇う日の数は十に満ち、満つれば虧けるの憂いはあるが、咎はない。何故なら初九が往けば、九四に大切にされる(=尚)からである。占ってこの爻を得れば、よき主人に遇い、大切にされる。十分なところまで行っても(=雖旬)、咎はない。ただし十分を過ぎれば災難があろう。

六二。豐其蔀。日中見斗。往得疑疾。有孚發若。吉。 象曰。有孚發若。信以發志也。

六二は、其のしとみおおいにす。日中にっちゅうを見る。往けば疑疾ぎしつを得ん。孚ありて発若はつじゃくたれば、吉なり。
象に曰く、孚ありて発若たりとは、信以て志しを発するなり。

『斗』は北斗七星。『疾』はにくむ。『発若』は発(ひら)くさま。
六二は下卦離の主たる爻、離は明だから、最も明らかな者である。しかるに上に向かって六五の陰に応ずる。五は陰だから暗い。人間でいえば暗君(五は君位)である。その暗さは、あたかも日除けを大きくしたときの暗さ、日中に北斗七星が見えるばかりの暗さである。進んでこの暗君に従えば、却って疑われ憎まれる。ただ誠意を尽くすことで以て相手の心を啓発させるならば、吉である。
他と相結んで力を合わせ、盛大を致そうとするのに、初と四は陽の同徳なので『旬』とした。この六二と応位の六五は、どちらも陰爻で、素直に相結ぶことができないのは初と四の場合よりも一層甚だしい。豊という卦は、物の盛大さを表しているので、それに象って両者の協和の相を喩えてみると、相手方の力が盛んなことが、こちらに利益しないばかりでなく、かえって邪魔になる。内卦離をもって日ともするが、日の象で言うならば、その日の光を妨げるような事に当たる。それが『蔀』である。
『蔀』は草の名で(震を草に象る)、その草が離の夏に幸せられて盛んに伸びるのである。しかし伸びることは、少しも離日にとっては利益しないばかりでなく、かえって妨げとなり、蔀があまりに豊大になって蔭となり光が届かず、日中でも星が見えるような暗さであるというのである。それが『日中斗を見る』である。
そのように暗くて明らかでなければ、疑い疾まれるようなことも起こる。
しかしそれは離日の主である、この六二が悪いのではなく、その光を遮るものがあるために起こったことである。
だから離の中虚であるような孚が相手に通じたならば、疑いも解けて吉に至るというわけである。

九三。豐其沛。日中見沫。折其右肱。无咎。 象曰。豐其沛。不可大事也。折其右肱。終不可用也。

九三は、其のはいを豊いにす。日中にっちゅうまつを見る。其の右のひじを折る。咎なし。
象に曰く、其の沛を豊いにするは、大事に可ならなるざり。其の右の肱を折るは、終に用うべからざるなり。

九三は下卦明の終りに当たる。日中を過ぎて日の傾いた時である。しかも上六という陰爻、つまり暗愚の人に「応」じている。六二より一段と暗い。その暗さは、幔幕を大きくした暗さ、日中に名もない小さい星が見える暗さである。『沛』は、草の盛んに繁ることで六二の『其の蔀を豊いにす』とほとんど同じ意味。蔀は斗を見るに対し、ここでは沫を見る。『沫』は北斗第六星の傍にあって、斗よりも一層小さい星だから、六二よりも一段と暗くなったわけである。
上六と対応することが、そのような暗昧を生むことになっても、初九のように『旬と雖も咎なくして往く』ようなことをせず、また六二のように『孚有りて発若』たることも念じないのは、上六がともに力を合わせて事を盛大にする相手として最も不適切であるからである。
そうして上六と結ぶことを拒むのだが、この爻は離火の激しさを示す九三であるため、同じ拒むにしても荒々しいやり方であり、自分の右肱を折って役に立たないようにしてしまうのである。
右肱は力を奮うのに最も大切な部分。九三は明智を持ちながら、力を奮うべき機会を得ない。相手の上六は暗愚で位が無い人だから。力が奮えないのは右肱が折れたと等しい。故に、其の右肱を折るという。
ともに手を握って事に当たって行かなくてはならない肱を折ってしまうのだから、上六から求めて来ても手を握ることが出来ない。そうなったのは上六にとってこそ咎だが、この九三にとってはかえって咎なきを得る所以だというわけである。易では陽を右に当てるため、右肱と表現されている。
占ってこの爻を得た場合、暗黒の時だから、大きな事にはよくない。腕が折れたようなもので、結局用いられる機会はない。けれど九三としては、相手(上六)が暗愚無官の人であろうと、剛く(陽爻)正しい(陽爻陽位)徳でもって仕えようとしたので(三と上は応)、義に於ては咎はない。

九四。豐其蔀。日中見斗。遇其夷主。吉。 象曰。豐其蔀。位不當也。日中見斗。幽不明也。遇其夷主吉。行也。

九四は、其のしとみおおいにす。日中に斗を見る。其の夷主いしゅに遇えば、吉なり。
象に曰く、其の蔀を豊にするは、くらい当たらざるなり。日中に斗を見るは、ゆうにして明らかならざるなり。其の夷主に遇えば吉なるは、行けばなり。

初めの二句は六二に同じ。夷は等しいの意味であるが、上位の者が下の者と交際する語感である。『夷主』は初九を指す。九四と等しく陽剛の徳があり、相い応ずる地位にあるので等しい主人という。
九四は五の君位に次ぐ大臣の位にあるが、六五は暗君である(陰爻)。日除けを大きくしたような、昼なお星の見える暗黒の時である。しかし下へ行って自分と等しい剛直(陽)の徳ある主人に遇い、ともに力を合わせて働けば、吉である。
象伝、位不当は九四が陽爻陰位で、地位不安なる故に、闇を開くことができないこと。幽は暗。『行けばなり』~九四が下へ行って初九に遇うので吉。

六五。來章。有慶譽。吉。 象曰。六五之吉。有慶也。

六五は、しょうきたせば、慶誉けいよあって、吉なり。
象に曰く、六五の吉なるは、慶びあるなり。

『章』は坤䷁六三含章の章、美しい文章、美徳。ここでは美徳ある人。六五は陰で暗い。五は君位。暗君である。それ自体には吉になる要素はない。けれどもこの君が、もし美徳ある下位の賢人(六二)を招き寄せるならば、慶福と名誉を得て、吉である。下卦離は明だから章の字が出て来る。暗君が賢人を招くこと、有り得ないようであるが、作者はその暗愚なのにつけこんで、福と誉れで釣って、賢を招かせようとするのである。
占ってこの爻を得た場合、本来なら不吉だが、もしへりくだって賢者を招けば、始めて吉に転ずる。

上六。豐其屋。蔀其家。闚其戸。闃其无人。三歳不覿。凶。 象曰。豐其屋。天際翔也。闚其戸。闃其无人。自藏也。

上六は、其のおくを豊いにす。其の家にしとみす。其の戸をうかがうに、げきとして其れ人なし。三歳までず。凶。
象に曰く、其の屋を豊いにす、天際にくるなり。其の戸を闚うに、闃として其れ人なし、自らかくるるなり。

屋は屋根。闚は静かなさま。覿は会見。上六は陰、小人の資質でもって、盛大の卦の極点におる。上六はまた上卦動の極点でもある。至って落ち着きのない者。下卦の明もここまでは届かないので、暗い。豊、盛大の時だからというので、屋根を盛大にした。これでは自分を覆い隠して暗くなるばかりである。
屋根は家の最も高い部分だから、上爻に譬える。おまけにその家にすっぽり日除けをめぐらして、ますます暗くしている。
その戸の隙から覗いて見ると、しんとして(=闚)まるで人気がない。三年経っても、出て来て他人に会おうとしない。ということは、徳のない者が高位に驕り昂ぶって、ますます自分の智慧を暗くし、ついて来る人もなく、孤立してしまうということ。
占ってこの爻を得れば大凶である。象伝、天際に翔くは、天のきわに届くばかりに屋根を高くする意味。『自ら蔵る』~人が寄りつかないのは、他人が見捨てるのでない、自分から閉じこもり隠れるからである。

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