47.澤水困(たくすいこん)【易経六十四卦】

易経
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澤水困(くるしむ/困窮)

shortage:欠乏/exhaustion:消耗
意の如くならざる時なり。
黙して時期を待つべし。

升而不已必困。故受之以困。
升って已まざれば、必ず困しむ。故にこれを受くるに困を以てす。

のぼることだけを知って、止むことを知らなければ、必ず行き詰まって困窮することになる。
困は、困窮すること。囲いの中にある木が伸びようとして妨げられ、苦しみ悩む状態を示している。行き詰まり、押し切って進む力もなく、苦しみ悩むこと。
この卦は、困難である時に対処する道を説いている。


いろいろと無理や力不足がたたって現在非常に苦しんでいるときである。
こんな時は物質的なら金や物が不足して困ることになるし、精神的なら人間関係のトラブルが起きたり、過労から病気になったりすることもある。
運勢は無論弱衰運で、もし積極的に打ってでもすれば身の破滅にもなり兼ねないからくれぐれもはやまらないこと。
一に忍耐二に辛抱。この卦の時は極力耐えぬき、損害を最小限度に食い止めるよう努力すること。無理を重ねているときは何をやってもダメである。
物事がなるときは、すべての段取りがスムーズに行く場合が多いことを知るべきだ。
じっと耐え、無理をせず頑張っておれば必ず次の機会に笑える時がやってくるもの。
[嶋謙州]

発展向上すると、注意しないとよく行き詰まる、困却し苦しむ。そこで困の卦をおいて、どういうふうにして初志をとげたらよいか、自分の運命をどうして開くかを教えております。
そこで大象には、致命遂志―命を致し志を遂ぐ、とあります。
どのような小さな仕事、事業であっても、一命を投げ打って初志を貫き目的を達することだ。
これをやりませんとせっかくやった仕事、あるいは発展させた事業も、ちょうど沢に水がなくなるように駄目になる。
易は行き詰まるということがありません。どこまでもクリエート、リクリエートしてやみません。それは場合によっては循環であります。
そこで升の卦の次に困の卦をおいて、いい気になり過ぎては駄目である、升ったから苦しむのであると戒めておるのであります。
[安岡正篤]

困。亨。貞。大人吉无咎。有言不信。

困は、亨る。貞し。大人は吉にして咎なし。言うことあれど信ぜられず。

困は『こまる』と読まれるように、苦しみ・難み・窮することであり、これらの意味を重ねて困苦・困難・困窮という言葉が存在する。
同様に、『くるしみ・なやむ』という内容を持つ屯䷂・蹇䷦・重坎䷜と合わせ、これを易の四大難卦としている。
それでは、三陰三陽からなる『沢水困』は、どのような困難なのであろうか。
まず第一に、外卦兌の沢の上にあるべき坎の水が下に漏れてしまい、水が枯れている状態となっている。これは涸渇による苦難である。あるべき場所に存在するべきものがないというのは、それ自体が一つの『困』である。
また、必要とするものを持っていない場所にそれを得ようとする努力があり、それが実現できずに苦しみをもたらす場合も、それは窮地に立たされる『困』である。
さらに、坎の水はあるが、それが本来あるべき兌沢の外に存在しているという状況は、物事が正しく配置されず、適切に行き渡っていないという『困』も引き起こしている。

そして、中爻である九二と九五はいずれも陽(君子)でありながら、陰(小人)に覆われ、君子の道が現れないという『困』の世界も考慮されている。
『困は亨る』というのは、成功や発展するという意味ではなく、『窮通』することを意味している。また、『貞し』とは、その困難に屈せず、遯れて難を避けるのではなく、正しい道を堅持し続けることを指す。
これは、大人になることで初めて実現できるとというのが『大人は吉にして咎なし』である。
『言うことあれど、信ぜられず』~困窮の時、いくら弁舌をふるっても信ぜられない。言うことを信じてもらえない。弁解や虚偽はもちろん、正しい内容であっても、弁舌で難を逃れようとすると、ますます行き詰まる。こういう時は、口を閉ざし、沈黙しているほうがいい。智慧を隠し、黙っているに越したことはない。
『言あり』とは、『言いたいことがある』という意味と、『言葉を用いることが多い』という意味の両方を含んでおり、これは外卦兌の象である。
同じ外卦の兌から、君子が困難に直面しても喜びを失わないことや、小人が困難に遭遇すると口論や言い争いに走ることを意味している。
『信』というのはもちろん坎の孚を指している。しかし、その坎は兌の中から漏れてしまっているため、『言あるも信ぜられず』という状況になっているのである。

彖曰。困。剛揜也。險以説。困而不失其所亨。其唯君子乎。貞大人吉。以剛中也。有言不信。尚口乃窮也。

彖に曰く、困は剛おおわるるなり。険にして以て説ぶ。困しみてその亨るところを失わざるは、それ唯だ君子のみか。貞し、大人は吉なりは、剛中なるを以てなり。言うことあるも信じぜられずは、口をたっとべば乃ち窮するなり。

『揜』おおう。困とは陽が陰に揜われること、つまり君子が小人に掩蔽えんぺいされて困しむこと。卦の形に於てそうなっている。険がありながら説ぶ。ということは、困しみながら自分の心ゆくまま(=所亭)の楽しみを失わないことである。そうしたことができるのは、かの顔回のような君子だけであろう。
困窮の極みの険難にあっても、乗り切った後の悦びを信じてやり通すことのできるのは、君子だけである。しかし、どんな人でも困難から学ぼうとすれば、苦しみが何を教えているのか会得できるものである。これを『困学』という。
苦しんで学べないのは小人であり、小人のままでは困窮を脱することは難しい。
『貞し』大人は吉というのは、九二と九五が剛爻で、上下卦の「中」を得ているから、困苦のうちにも毅然として正道を失わないのである。言うことあれど信ぜられずとは、困窮した人がいくら言ったところで人は信じない。弁舌第一にして(=尚口)、それで困窮を切り抜けようとすれば、かえって(=乃)ますます窮地に陥るという戒めである。

象曰。澤无水困。君子以致命遂志。

象に曰く、沢に水なきは困なり。君子以て命を致し志しをぐ。

の下に水がある。ということは水が沢の下に漏れて、沢が涸れている形。だから困と名付ける。君子はこの卦のような困窮の時に当たり、自分の生命を投げ出して、理想を達成しようとする。命を致す、『論語』子張篇に「士は危うきを見て命を致す」とある。

初六。臀困于株木。入于幽谷。三歳不覿。 象曰。入于幽谷。幽不明也。

初六は、臀株木いさらいしゅぼくに困しむ。幽谷ゆうこくに入る。三歳さんさいまで覿ず。
象に曰く、幽谷に入る、幽とは明らかならざるなり。

朱子は『困卦は理会し難し。暁るべからず』という。確かに語句は難解だが、具象的なだけに、イメージは割りに把握し易い。
『株木』は木の切り株。『幽谷』は奥深い谷。『覿』は私的に会見する。
初六は陰柔、小人の身でもって、困卦の一番下、険の下におる。困窮のどん底におる。じっと落ち着いてはいられない。木の切り株に坐れば尻が痛んで長く坐っておれないようなもの。『臀』は胴体の底、初六の位置に当たる。
『幽谷に入る』初六の身の置きどころは、困の底、険阻の下、最も暗い。奥深く暗い谷に入りこんだようなもの、三年の間(しばらくの間)は、谷を出て人に会うことはない。
象伝は幽谷の幽の字を解釈する。不明は場所が暗い意味と、智慧が不明の意味と兼ねる。占ってこの爻を得れば、困窮のどん底に陥る。三年間(しばらくの間)、日の目を見ない。

困の時にあって、その亨るところを失わないのは、大人君子であって爻で言えば剛中なるものが、それに当たる。しかし、初六は剛でも中でもないので、困しみつつ『貞』を貫くことができず、みだりに動いて窮地に迷い入ってしまうのである。
その安居できないことを『臀、株木に困しむ』と形容し、動いてさまよう様子を『幽谷に入る』としている。ついに窮地を脱することができないのを『三歳観ず』と言ったのである。
外柔中剛の坎を芯の堅い木とも見ることが出来るが、卦は沢水困で水の潤いのない卦だから、その木はもう枯れてしまっている。そして初六は、根元にあたるので『株木』切り株に喩えている。
陰柔なこの爻は、あたかも切り株に座ってお尻が痛むように、安居することができないのである。そのように安居することができずに迷い入る場所だが、坎を暗いとし穴とし、隠伏とし、水とするので、その下爻である初六を『幽谷に入る』と言っている。また、この坎は離を伏しているところから『幽にして明らかならず』と言い『観ず』と言っている。

九二。困于酒食。朱紱方來。利用亨祀。征凶。无咎。 象曰。困于酒食。中有慶也。

九二は、酒食しゅしに困しむ。朱紱方しゅふつまさに来る。用て亨祀きょうしするに利あり。征けば凶。咎なし。
象に曰く、酒食に困しむは、ちゅうにして慶びあるなり。

『朱紋』は王者の服の朱色の絹の膝蔽い。『亨』は享と同じ、祭る。
この九二は『困しみて、その亨るところを失わない』剛中の君子である。それで困窮のなかにあっても、騒がず悩まず、酒食に宴楽しながら時運が回って来るのを待てるのである。それゆえ『酒食に困しむ』と読むより、むしろ『困・酒食においてす』と読んだ方が分かりやすいかもしれない。
これは水天需䷄九五の境地にも似ており、酒食はいうまでもなく坎の象である。
そうして焦らずに、苦しさに耐えながら貞を守っていれば(応位の九五とは不応だが)天下の困を救わなねばならぬので、やがてこの九二の器を認め、九五が引き上げにやってくるというのである。
九二は剛が「中」を得て、甚だ結構な身分であるが、困の卦だから、多少の困しみは免れない。ただし、不足で困しむのでない。有り余る困しみ。酒や御馳走で責められて困しんだと思えば、朱い前垂れが今しも(=方)やって来る。服は階級を示すから、それはつまり望まないのに高い地位を押し付けられるということ。
占ってこの爻を得れば、望むものすべて得られ、多過ぎて困しむほどである。これでもって祭祀(=亨祀)するのによろしい。ただし前進(=征)しようとすれば、まだ、その時でない。結果は凶である。しかし道義的には*咎はない。
(※注:加藤大岳は、『咎なし』を衍文と解し不要であるとする)
象伝の『中有慶也』は、「剛中」の徳の故に福があること。普通の卦だと、二と五と陰陽相反する爻が応ずることで吉になるが、小畜䷈と困䷮は、陽が陰に苛められる時だから、二も五も陽爻同志で相応ずることを以て善しとする。

六三。困于石。據于蒺藜。入于其宮。不見其妻。凶。 象曰。據于蒺藜。乘剛也。入于其宮不見其妻。不祥也。

六三は、石に困しみ、蒺藜しつりる。そのきゅうに入りて、その妻を見ず。凶なり。
象に曰く、蒺藜に拠るは、剛に乗ればなり。その宮に入りてその妻を見ざるは、不祥ふしょうなり。

『蒺藜』は、いばら。坎の象意。『拠』は尻を落ち着ける。『宮』は家。
六三は陰柔、小人である。「不中」「不正」(陰爻陽位)、その地位に安んじておれない。進もうとすれば、前には九四という大石(剛だから石に譬える)が立ち塞がっている。押せども動かず、疲れるばかり。
この六三は、初六と同じように陰柔不正な為、困中にあり安居することができない。そこで、動いて困を逃れようと騒ぐわけだが、その前方には九四の陽爻が遮っており、進むことができない。それが『石に困しむ』である。
それならば退いて逃れようとすると、今度は坎の主爻の九二が棘草のように、それを妨げる。
そこで仕方なく自分の住まいに踏み止まって憩おうとすると、慰めを求めるべき妻の姿もない。『其の宮に入り、其の妻を見ず』。わが家は三の位。妻は三の配偶の上爻、あいにく陰爻同志で応じない。故に妻を見ず。
わが家わが妻は、身を安んずべき場所である。家に入って妻が見えないのでは、遂に身の置き場所がないことであり、不祥この上もない。
固い大石に阻まれて苦しみ、針の筵に座する思いをすることもある。また自分の家に帰ると、慰めてくれるはずの妻は逃げてしまっていない。これらは大変な苦しみだが、苦しみに学ばない小人はますます困窮する。大石を除こうとして苦しみ、わざわざ針の筵に座り、自分で自分の身を危うくしてしまう。困窮にあって、そこから学ぼうとする姿勢が大切である。
孔子は繋辞伝のなかで、この爻辞を引用して、次のように説明する、
「困しむ所にあらずして困しめば、名必ず辱しめらる。拠る所にあらずして拠れば、身必ず危うし。既に辱しめられ且つ危うし、死期まさに至らんとす。妻それ見るを得べけんや」と。
占ってこの爻が出れば、凶なること、いうまでもない。

九四。來徐徐。困于金車。吝。有終。 象曰。來徐徐。志在下也。雖不當位。有與也。

九四は、きたること徐徐じょじょたり。金車きんしゃに困しむ。吝なれど、終わりあり。
象に曰く、来ること徐徐たるは、志し下に在るなり。位に当らずといえども、ともあるなり。

『徐々』は遅疑するさま。初六は九四の「応」である。初六が幽谷に陥って困しんでいるのを、助けてやるべき立場にある。しかし九四は位が「不正」(陽爻陰位)だから人を救うには力足らず、それに九二という金車が途中で邪魔する。金車は重い物を積んでも壊れない堅固な立派な車のこと。押せど引けど動かない(=金車に困しむ)。そこで九四が助けに来るさまは恐る恐るで遅い(=来徐々)。
『往』とは下から上へ行くことであり、『来』は上から下へ行くことをいう。『来ること徐徐たり』は、応位の初六に赴いて、その困窮を救おうとする『志・下に在る』わけだが、それが速やかに行かないのは、間にある九二(金車)に妨げられているからである。
金車が九二の象徴とされる理由、朱子は、未詳ながら、☵坎に輪の象がある(説卦伝)によるだろう、という。なお金は剛いから九二剛爻に当たる。助けるのに遅疑するのは羞ずべきことだが、邪は正に勝たずで九二の邪魔も最後には排除される。
故に、占断として、羞ずべきことあれども(=吝)、最後には良いことがある(=有終)という。
象伝、志し下にありは、九四の気持ちが初六に向かっていること。位に当たらずと雖も与ありは有終を説明する。九四は不正ながら、初六という仲間(応)があるから、終りはよい。

九五。劓刖。困于赤紱。乃徐有說。利用祭祀。 象曰。劓刖。志未得也。乃徐有說。以中直也。利用祭祀。受福也。

九五は、はなきられあしたたる。赤紱せきふつに困しむ。乃ちようやくにして説びあり。用て祭祀するに利あり。
象に曰く、劓られ刖たるるは、志しいまだ得ざるなり。乃ち徐くにして説びあるは、中直ちゅうちょくを以てなり。用て祭祀するに利あり、福を受くるなり。

『劓』は鼻切りの刑。『刖』は足切りの刑。
この九五は、困の主卦の主爻である。また剛をもって『困は亨る』亨通をもたらすものである。どうやって困を救うかと言えば、消極的には困の原因を除去し、積極的には展開策を巡らすわけであるが、その原因を除去するのが『劓刖』の刑で、陰邪(初六、六三)の鼻を削ぎ、足を斬るのである。
けれども小人を刑したというだけでは『未だ志を得ざるなり』で、今度は進んで賢臣を挙げ用いようとする。しかし、それが見あたらない。それが『赤紱に困しむ』である。
『朱紱』が天子の服飾であったのに対し『赤紱』は諸侯の服飾である。
この爻は、祭祀に用いてもよろしい。根気に祭れば福があろう。二も五も祭祀によいというのは、二と五と応じないけれど互いに誠意を尽くす点で、神と人との関係に似ているからである。
象伝、中直は「中」であり、剛直であること。

上六。困于葛藟。于臲卼。曰動悔。有悔。征吉。 象曰。困于葛藟。未當也。動悔有悔吉。行也。

上六は、葛藟かつり臲卼げつごくに困しむ。日に動けば悔ゆ。悔いることあれば、征きて吉なり。
象に曰く、葛藟に困しむは、いまだ当たらざればなり。動けば悔ゆ悔いることあれば吉とは、行けばなり。

『葛藟』は、くずとかずら。『臲卼』はごつごつした険しい場所。不安・動揺の形容。『えつ』は『えん(ここにおいて)』と同じ。
初六の陰は、位が低いことを切り株に喩えたが、これは卦の一番高い、三四五の巽の上にある爻なので、つる草に喩え、それが風に動いて揺れやまない有様を思い描いたのである。
上六は陰の小人の身で、困の窮極におる。まといつく蔓草にがんじがらめになって困しみ、ごつごつした険阻に困しむ。ここで動くと悔いがある(=曰動悔)。
困に際して陰柔の爻であるがゆえに初六同様、貞守することができず、不安動揺し安定を得ないということである。そのような有様のままで動いたならば『幽谷に入った』り『その妻を見な』かったりする悔いを招くので、これに自ら『動くな』と教える。
上六は兌の主爻で、自ら諭して『動けば悔いる』という、その悔いは悔やむべき事態である。しかし、それを悟って、悔い改めてから行ったならば、そこで初めて吉を得られる。物窮まれば変ずる。占ってこの爻を得た人、自分の小人にして高みにおる生き方を悔い改めるならば、前進して吉(=有悔征吉)。上爻からさらに前進すれば困卦の外に出てしまうからである。

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