46.地風升(ちふうしょう)【易経六十四卦】

易経
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地風升(上昇/進展)

promotion:昇進/ascending:昇順
大人に随って、進むべし。
急ぐことなかれ。願望は充たさるべし。

聚而上者謂之升。故受之以升。
あつまって上る者これを升という。故にこれを受くるに升を以てす。

聚まって勢いが盛んになり、やがて上の方へのぼって行く。
升とは、のぼりゆくこと、地(坤)の下に芽を出した若木(巽)が天をめざしてすくすくと伸びゆく姿を示す卦である。堅実に、しかも自信をもって向上するものを表わしている。
そのときの心構えとして、時を得ること、実力を養うこと、後援者を得ること、の三つが重要である。若芽には、春の季節と強烈な生命力と豊かな養分とが必要なのである。

今は別に普通の状態だが、そのうち大きなチャンスを掴めるときで、目の前がパーッと広がり掛けているとき。
運勢はこれから前向きに上昇気流に乗らんとして居り、前途は洋々である。
結婚期を控えての女性なら玉の輿に乗るような話も出てきたり、また男性なら出世コースをどんどん驀進できるようなきっかけが生まれることにもなる。
しかし、どんなに素晴らしいといっても今始まったばかりであり、草木でもあればようやく今、双葉が出たところだから、何でもかでも一気呵成に物事を押し進めようとしたり、つまらぬ小細工をしたりすると、とんだしくじりを見るから注意した方がよい。
先はバラ色の人生だから、悠々と焦らず駒を進めたら決して間違いなく、自然と運が回ってくることを心に銘記せよ。
[嶋謙州]

人物を選んで組織し活動を始めますと、進歩向上というものがある。
それが升の卦であります。升は「のぼる」でありますが、この進歩向上に大事なことは、組織の中にあって活躍する人たちが、つまらぬ利害打算を考えたり、自分はこれだけ才智だの芸能があるなどといって自慢しないことである。
そしてさらに大切なことは、徳を養うことである。
皆が本当に養った徳を発揮すると、会社も、組織も発展向上すると教えるのがこの升の卦であります。
[安岡正篤]

升。元亨。用見大人。勿恤。南征吉。

升は、おおいにとおる。用て大人を見る。うるうるなかれ。南征して吉。

一つ前の䷬は『集まって来る』という卦だったが、集まった人々をいかに選別して、それぞれの役に就かせ、その手腕を発揮させるかが次には重要となってくる。それを疎かにしたり誤ってしまっては、せっかく集まってきたものも台無しとなってしまう。そのような課題に焦点をあてたのでこの升である。
萃䷬は、集めて保つ君・主の立場から見たもの、升䷭は、それに応じて『進み赴く』で、臣・従の立場から見たものである。
萃䷬を反対にすると、この卦になる。升は昇、進み上る意味。この卦は䷧から来た。解の三の柔が升って九四と入れ換わることで升䷭になった。升ることに亨るの意味がある。升が亨るのは自主的に亨るのではなく、挙げ用いられ力を致して亨るのだから、自分の才能を発揮させてくれるものが無くてはならない。
それに内卦は巽う、外卦坤も順う。升るについて誰も邪魔することがないのだから元いに亨る。
九二剛が内卦の「中」を得て、六五がそれに「応」じていることも元いに亨るゆえんである。こうした、順調で、剛中を得た善さでもって、大徳の人に出会うならば、何の心配もない。
大体、升るについては大人に会うことが必要である。階級に於て升るには王公に会うことが、道徳に於て升るには聖賢に会うことが必要なように。
『南征』南というのは人が自然に向かう方角、南征は前進を意味する。
卦に於ては上方へ向かうことが前進であるが、上方は中国の感覚では南に当たる。
占ってこの卦が出れば、願いは大いに通る。この卦でもって偉い人に出会えば、上昇について何の心配もない。前進して吉があろう。

彖曰。柔以時升。巽而順。剛中而應。是以大亨。用見大人勿恤。有慶也。南征吉。志行也。

彖に曰く、じゅう時を以てのぼる、そんにしてじゅん剛中ごうちゅうにして応ず。ここを以て大いに亨る。用て大人を見るうれうるなかれは、よろびあるなり。南征して吉は、志し行なわるるなり。

『柔時を以て升る』もとの解䷧の六三の柔が、然るべき時に升ってこの卦になったので、この卦を升と名付ける。
昇り進んでいくためには条件がある。先ず『時』を待って進むこと。草木が春から夏にかけて成長するように、物事も時期、環境、場が揃ったときに昇り進む。そして『巽にして順』、環境や人に逆らわないこと。さらに『剛中にして応ず』賢者に学び従い、応援を得ることが欠かせない。
上下卦の徳からいっても、卦全体の形からいっても善いところがあるので、元亨という。『用て大人を見る恤うるなかれ』将来に福があること何の心配もない。南征して吉とは、前進すれば志が天下に行なわれること。

象曰。地中生木升。君子以順徳。積小以高大。

象に曰く、地中ちちゅうに木を生ずるは升なり。君子以て徳をつつしみ、小を積んで以て高大にす。

この卦は地中に木が発生している形、一日でも生長が停止すれば木は枯死する。人の学問もその通りで、一日でも休止すれば心は死ぬ。だから君子はこの卦に法とって、徳を慎しみ、微小な日々の実践を積んで高大な徳に至る。
昇り進むためには、徳を養い、些細に見えても小さな事を日々刻々積み重ねていくことだ。そうすれば、いつの間にか、高く、大きく成長する。

初六。允升。大吉。 象曰。允升大吉。上合志也。

初六は、まことのぼる。大吉なり。
象に曰く、允に升る大吉なるは、かみ志しを合すればなり。

『允』は、信、誠、まことに。自らも信じ、人からも信じられて升るのである。何が信じられるのかと言えば、それは升ろうとする誠の他に他意はないこと。そのようにして升り進んで大いに吉である。
初六は陰爻、柔順で、最下位におる。下卦巽の主たる。巽はしたがう意味るべき時なのに、おとなしい初六は、自分では升れない。すぐ上の二陽(九二、九三)に巽っているだけ。しかし二陽が升れば、ついて升ることができる。
占う人、よき先輩に従がっていれば、本当に昇進することができる(=允升)。大吉。象伝の上は上の二陽を指す。それが自分と志を合わせて、つれていってくれる。
木の根は、根それ自身が吸い上げた養分を持ち運ぶのではなく、上にある幹を通して枝や葉にそれを上り回らせるのであって、九二をその幹に見立てたわけである。
単に『大いなる吉』と解するだけでなく上記のように地中の養分を送り上げる根が、小さかったり弱かったりしては役目を果たせないゆえの『大なれば吉』なのである。

九二。孚乃利用禴。无咎。 象曰。九二之孚。有喜也。

九二は、孚あって乃ちやくを用うるに利あり。咎なし。
象に曰く、九二の孚は、喜びあるなり。

この爻辞は䷬六二のと同じ。萃では六二の「柔中」と九五の「剛中」が「応」じていた。この卦では九二が「剛中」(陽で内卦の中)、六五が「柔中」(陰で外卦の中)で、やはり相い「応」ずる。ともに、神と人と感応する場合に似ている。神への誠があればこそ、倹約な祭りでもよいのである。
萃の卦では、九二が引かれて六五の許にあつまって行く、正しく集まるべき所へ赴く孚誠の意味を見ていたが、升の九二では、そういう己を虚しくして仕える虚心よりも、仕えて事を遂げようとする実を見るべきである。
それは柔中をもって六五に応じる萃の九二と、剛中をもって六五に応ずる升の九二の相違である。

九三。升虚邑。 象曰。升虚邑。无所疑也。

九三は、虚邑きょゆうに升る。
象に曰く、虚邑に升るは、疑うところなきなり。

『虚邑』は無人の村。『疑』は礙と意味が近い。陽爻は中が充実しているから実の意味があるに対し、陰爻は中が空虚だから虚の意味がある。この九三は、内卦の極にいて、巽の木の芽がいよいよ地上へ出て行くところである。初爻においては、地上へ上るのには上に二陽があったし、九二でもまだ上に一陽があった。しかし、この九三となると、もう妨げるものは何もない。
上卦☷坤は純陰だから虚であり、坤は地で、国や邑の意味になる。
九三は剛毅(陽)で、どんどん升り進む。前方には☷があるだけ。無人の村である。
何の障礙もなく升り進んでゆける。
占ってこの爻を得れば、無人の境をゆくごとく昇進しうる。吉といわないが当然吉である。

六四。王用亨于岐山。吉无咎。 象曰。王用亨于岐山。順事也。

六四は、王用て岐山ぎざんきょうす。吉にして咎なし。
象に曰く、王用て岐山に亨す、事にしたがうなり。

随䷐上六に『王用亨于西山』とあった。『岐山』は西山と同じ、周都の西にある山。亨は享と同じ、祭る。古来の注釈の多くは、随上六もこれも、周の文王が夷狄の圧迫を避けて岐山の下に移り住んでいたころのこととする。朱子は、こうした文句はもと、古代の王者が実際に祭りを占った判断辞であり、易に組み入れられてのちも、山川の祭りについての占断として用いられるべきだという。
四諸侯の位であるが、王の字、必ずしも五でなければ使えないことはない。
古代中国では、祭りの対象に階級による制限があった。王は天地を祭り、諸侯は山川を祭るという風に。
四は柔順(陰爻)で「正」を得ているから、順調に升ることができる。この爻で用て岐山に升り祭ること、吉であり、咎はない。
諸侯や王が占ってこの爻が出たら、山祭りに吉、咎なし。
象伝、事に順うは、なすべき事に柔順に従ってそうする意味。九二や六四のように、升卦に祭りのことが出て来るのは、祭りは人の誠意が升って神に通ずることだからである。

六五。貞吉。升階。 象曰。貞吉升階。大得志也。

六五は、ただしければ吉なり。きざはしに升る。
象に曰く、貞しければなり、階に升る、大いに志しを得るなり。

『階』は階段であるが、階級にも通ずる。六五は柔が陽位におる点、具合悪いようだが、下に九二の剛が「応」じている。有能な臣の助力で、柔順ながら君位(五)に就くに耐える。ただ陰柔であるだけに、正道を固守するという条件が充されるならば(=貞しければ)、吉が得られ、玉座への階段を升ることができる。
階は升り易いもの、この爻が出れば、たやすく昇進できて、吉。ただし正道を守るならば。
『階に升る』というのは、六五自身が階を昇るのではなく、六五に仕えて国政を司る者たちが宮殿の階を昇って出仕するのである。朝勤あさじするのであって、大いに天下の志を得るわけである。

上六。冥升。利于不息之貞。 象曰。冥升在上。消不富也。

上六は、のぼるにくらし、不息ふそくていあり。
象に曰く、冥升上めいしょうかみにあり、しょうして富まざるなり。

『冥』は昏冥。豫䷏上六豫冥の冥に同じ。『不息』はやまない。
この上爻も、昇り進んで仕えるわけだが、既に卦の極にあるので位人臣を極めているのである。これ以上に昇るところがないわけで、乾の上爻『亢龍悔有り』とか坤の上爻『龍野に戦う』などとあったのと同じである。
上六は陰で力弱いのに、升るの卦の窮極におる。升ることにあせって、目が昏んでいる(=冥升)。ここでは坤の暗昧を取って冥升と表現している。これ以上は努め努めて進むことを、あくまで制しなくてはならない。
このような昏冥の状態で最上位にあっては、消耗ばかり甚だしく、富むことはできない。占ってこの爻を得れば、何をしても利はない。ただし、その升ってやまぬ欲心を改めて、やむことなき正義持続の情熱(=不息之貞)に代えるならば、始めて利益が得られよう。『息まざるの貞』と言えば『進むことを制して止まる』ということだが、実際にそうさせるには、単に止まって進まないよう努めるだけでなく、むしろ進もうとする心を消し減らして、謙退しなくてはならないと教えている。

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