38.火澤睽(かたくけい)【易経六十四卦】

易経
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火澤睽(そむきあう時/不調和)

opposition:対立/disagreement:不一致
反目して変事を招く時なり。
明智と温顔を以って接すべし。

家道窮必乖。故受之以睽。睽者乖也。
家の道は窮まれば必ず乖く。故にこれを受くるに睽を以てす。睽とはそむくなり。

家道が禍いを被って困窮すれば、必ず内部にさまざまな食い違いが生ずる。
睽は、反目すること。家庭の不和、意見の食い違い、矛盾相剋を示す。
火は上に水は下にと、向かうところが正反対で、しかも女同士のじめじめした陰性ないがみ合いである。嫁と姑の睨み合い、そんな感じの卦象である。
こんなときには大問題に取り組んではいけない。小さなことをこつこつやる心がけが必要である。嫁も姑も一家のなくてはならぬ成員であるように、万物すべて相互に矛盾する中にこそ、統一があり、進歩がある。矛盾を活きた形でとらえることが大切。
問題解決を外に求めるのではなく、内に眼を向けるべきである。まず内部を調えることが先決である。

豆知識:嫁と姑は仲が悪いのか

女性脳は、半径3メートル以内を舐めつくすように感じて、無意識のうちに支配している。その空間を自分の思い通りに制御できないと『見落としていることがある』感覚に陥り、不安と不快感が募り、ストレスがたまる。
嫁姑が互いにイラつくのは、この『制御領域』がぶるかり合うケース。
できる主婦は、台所やリビングをミリ単位で認知し、無意識のうちに完全制御している。
このため、自分の置いたものを動かされたり、動線をさえぎられることに大きなストレスを感じるのである。
女性脳にとってえこひいきされることは絶対の正義であり、妻と母の板挟みになって、どっちつかずの対応では許されないと説いています。
決して忘れてはいけないのは妻の味方になれるのは夫だけなので、夫は、絶対に妻の味方をしなければ、嫁姑問題はうまくいかないのです。
[出典:妻のトリセツ/黒川伊保子]

対立、にらみ合い、仲違い、敵対視、こういった状態にあるのがこの卦です。
別に対立していなくても現在何となく裏腹で気分がすっきりしないとか、何かやろうと思っても思うようにならないとか等がこの卦にあてはまるとき。
運勢は極めて悪いということはないが、しかし気持ちがはっきりとしないということは、まだ幸運の兆しが見えてこないことは事実で、無理に飛び出したり、攻勢に出たりすることは結局火傷をしたり、怪我をしたりすることにもなりかねない。
こういうときは必ず一歩譲って事態の様子をじっくり見なければならない。
下手に盲動するより、自己の能力、体力などの調整をはかり、過去の成果を振り返って見たりして明日へのスタミナを養い、機の熟するときを待った方がよい。
[嶋謙州]

家人は親しい集まりでありますから、そこは厳とした法則がなければなりません。そうでないと融和も欠き、永続もしません。
ところが家人の次に睽の卦をおいております。
睽という字は、目くじらを立てる、にらみ合うという文字であります。
従ってそむくという意味にもなります。
とかく人間は、家庭でもそうですが、まして組織や団体となりますと、仲が悪くなりやすく、にらみ合い、いがみ合います。これが睽であります。
この卦は上下とも女性の卦でありまして、女というものはとかくひとつの家に入って数人おるとにらみ合う、嫁と姑のように目に角立てやすい、それではいけませんので大象には、君子以同而異―君子同を以って而して異なる、とありまして、これは、あらわれるところは異なるが、その根本、あるいは本態において同和しなければならない、ということであります。つまり、家庭とか親戚、朋友の交わりに、よくありがちな仲違いはよくない、仲良くしなければならないと、実によく教えている卦であります。
[安岡正篤]

睽。小事吉。

睽は、小事には吉なり。

睽は目を意符とし、癸を音符とする字。癸は乖と音が等しい。目を乖ける。転じて乖離する、異なる。この卦は火と沢(陰の水)から成る。水と火と性格相いそむく。外卦の火は炎上し、内卦の水は潤下し、互いに背き異なる性質があるので、この卦名となったわけである。または中女、は少女、女二人が同居すれば、必ず反目する。その点で睽と名付ける。そむきあう状態は吉をもたらす筈はない。ただ説ぶ☱と明☲の徳を具え、卦の主要な六五が外卦の「中」を得て、下の九二と「応」している点で、すこしましである。そこで占ってこの卦が出たら、大きな事には不可であるが、小さな事には吉。

彖曰。睽。火動而上。澤動而下。二女同居。其志不同行。説而麗乎明。柔進而上行。得中而應乎剛。是以小事吉。天地睽而其事同也。男女睽而其志通也。萬物睽而其事類也。睽之時用大矣哉。

彖に曰く、睽は、動いて上り、たく動いて下る。二女同居して、その志しはこうをを同じうせず。よろんでめいく。じゅう進んでのぼり行く。ちゅうを得てごうに応ず。ここを以て小事には吉なり。天地はそむいてそのこと同じ。男女はそむいてその志し通ず。万物はそむいてそのこと類す。睽の時用大じようおおいなる哉。

大体万物の理法として、形態に於て睽き異なるものでも、その間、目に見えぬ同一性がある。譬えば天は高く地は低く、乖離しているようで、生々の働きは同じ。男と女と体質は異なるが、相手を求める気持ちは共通する。万物はそれぞれ異なった形質をもっているが、陰陽の気をうけて生まれ、成長することは同様である。凡人は乖離を乖離としてしか受け取らない。聖人だけが乖離の中に合同を見る。その意味で睽くの卦が表現する、一見悪い時間にも使い道はある。その効用には偉大なものがある。
天と地の性質は全く異なりながら、その働きは万物を生じさせ化育する点で同じである。男と女も相反しているが故に、求め交わり、通じ合える。ここには、万物は背き合うことにより統一され進歩していくという中国的弁証法、矛盾論の実践が説かれている。

象曰。上火下澤睽。君子以同而異

象に曰く、上に火あり下に沢あるは睽なり。君子以て同じくして異なり。

睽の卦は上卦が火、下卦が沢。二卦合体しているが、その性質は異なる。君子はこの卦に象どって、和して同じない。譬えば道を行なう意図は人と同じでも、出処進退は異なる。真理追求の意図は同じでも、立説は敢て人と異にする。睽は乖き異なる意味だから。

初九。悔亡。喪馬勿逐自復。見惡人无咎。 象曰。見惡人。以辟咎也

初九は、悔亡くいほろぶ。馬をうしくしておのずからかえる。悪人を見れば咎なし。
象に曰く、悪人を見るは、以て咎をけんとなり。

『見』は会見。『辟』は避と音義とも同じ。初に対応すべき爻は四である。しかるに四は初と同じく陽爻で「応」じない。上に応援がないことは、普通の卦ならば悔いをもたらす筈である。しかるに今は睽くの時。応じ合うべき者は睽き、離れる筈の者が却って合う。そこで初九と同じ剛の徳を有し、本来反すべき筈の九四が、応援してくれる。そこで予想された悔いも消える(=悔亡)。
馬を喪う、馬は行くためのもの。初九は当初、九四が「応」じてくれないと思っていた。上に「応」がなければ昇って行けない。馬を喪うは、行けないの象徴。しかし案外に九四が「応」じてくれることになった。初九は昇って行ける。逐わずとも馬がひとりでに返って来るというのは、あせらずとも昇り行く可能性がおのずから開けることを意味する。
しかし人情反目しやすい時であるから、よほど交際に気をつけないとひどい目にあう。咎を避けるためには、本来なら会うことを屑しとしない悪人にも会わねばならない。孔子が魯の姦臣陽貨に会ったのもそれである(『論語』陽貨)。
占ってこの爻を得れば、意外な引き立てがあって昇進することがあろう。悪人が面会を求めてくるが、むげに斥けてはいけない。会ってやれば、咎なくてすむ。

九二。遇主于巷。无咎。 象曰。遇主于巷。未失道也。

九二は、しゅちまたに遇う。咎なし。
象に曰く、主に巷に遇う、いまだ道を失わざるなり。

『主』は君主、六五を指す(五は君位)。『巷』の字は共と邑とから成り、共にする道。村や町の露地。『遇う』というのは、形式を備えず会見することで、常道でないことを指している。
それも通常の礼儀を備えないのは言うまでもなく、ここではそのことを『巷』と言っている。
九二と六五は陰と陽で相い「応」ずる。当然合体していなければならないのに、睽の時だから乖離してしまってなかなか遇えない。町の隅から隅まで捜し廻って、やっと六五の君主に露地でばったり出会うということになる。家来が露地まで君主を追いかけるのは、幇間じみて卑屈なようだが、もともと九二と六五は正当の「応」、その運命付けられた相手を求めるの道に外れていない。

六三。見輿曳。其牛掣。其人天且劓。无初有終。 象曰。見輿曳。位不當也。无初有終。遇剛也。

六三は、輿くるまかる。その牛とどめらる。その人てんせられ且つはなきらる。初めなくして終りあり。
象に曰く、輿を曳かるるは、くらい当らざればなり。初めなくして終わりあり、ごうに遇えばなり。

『見』は被と同じく、受身を示す。『型』は手で制する、止める。『天』は本来人の頭頂、顚を意味する。ここでは転じて顚に施す刑罰。額に入れ墨する刑。『劓』の字は鼻と刀で、鼻切りの刑。
六三は上九とまさに「応」ずる。上九のところへ行きたいのだが、自分は弱い陰の身で、前後(つまり上下)に強い陽が牽制する。すなわち後ろからは九二のために自分の輿を曳きもどされ、前方では輿につけた牛が九四のために制止されている。かくて六三は上九と乖離してしまう。すると主人と恃んでいた上九は六三の遅延に対し、深い猜疑を抱いて、六三自身(=其人)も、上九のために額に入墨され鼻切られることになる。
何分人情睽きあう時だから、相手も疑い深くなっているからである。しかしながら邪は正に勝てない。最後には邪魔がなくなり、上九に会うことができる。
占ってこの爻が出たら、人に邪魔され、無実の罪で刑罰に処せられる。初めはさように悪いが、終りには誤解も解けて望みがかなうであろう(=无初有終)。
象伝の意味は、ひどい目にあうのは、もともと六三が陰爻陽位という、不正な地位におるからである。終りがよいというのは、上九の剛爻に最後に会えること。

九四。睽孤。遇元夫。交孚。无咎。 象曰。交孚无咎。志行也。

九四は、そむいてひとりなり。元夫げんぷに遇う。交々孚こもごもまことあり。あやうけれど咎なし。
象に曰く、交々孚あり咎なきは、志し行なわるるなり。

『元夫』元に善の意味あり、善き丈夫。『孚』は信ずる。四は初と対応する位置であるが、ともに陽爻で「応」じない。そこで睽いて孤という。しかし睽の卦は普通の場合とちがい、本来応じない者が却って合うのである。九四も初九と遇える。それが元夫と通う。
初九は陽剛であるから元夫という(陽は君子、君子は善き男)。
交孚ありは初九と九四と同じ徳あり、相い信ずること。睽くの時にあるので、危険にはちがいないが、両人の徳をもって信じあってゆけば、咎はない。
占ってこの爻を得れば、よき助力者に遇う。信頼し合えば、危険な時だが咎はない。象伝はさらにその先を示す。咎がないだけでない、この睽きあう世を教わんという四の志を実行に移すことができよう。

六五。悔亡。厥宗噬膚。往何咎。 象曰。厥宗噬膚。往有慶也。

六五は、悔亡くいほろぶ。その宗膚そうはだえむ。往くとして何のとがかあらん。
象に曰く、その宗膚を噬む、往きて慶びあるなり。

『宗』は同人六二、宗に同人すの宗、宗族。『膚を噬む』は噬嗑六二に見えた。六五は、陰爻が陽位にある、力弱い身で高い地位におる。当然、悔いを生ずることが予想される。しかるに六五は「中」であり、「応」がある(九二)。故に悔いも消滅する。その宗(同族)とは、六五の「応」九二を指す。噬むというのは、口の中の物を噛み切り、噛み合わすことであった。膚は肉の柔い部分であるから、噛み合わすのに困難はない。九二は六五と合おうとする。九二のすぐ前に六三がおり、これが邪魔をする懸念があるが、六三は柔爻、膚のように噛み切り易い。
九二は簡単に六三を噛み切り、六五と合う。膚を噬むは、噛み合わせ易いことから、二と五が合い易いことを象徴的に示している。乖離の時であるが、六五には忠実な宗族の応援がある。どこへ往くにしても、福がある。何の咎もない。
占ってこの爻を得た人、当初爻は力不足の心配があるが、強力な応援が得られるので、心配はなくなる。進んで咎はない。

上九。睽孤。見豕負塗。載鬼一車。先張之弧。後説之弧。匪冦婚媾。往遇雨則吉。 象曰。遇雨之吉。羣疑亡也。

上九は、そむいてひとりなり。いのこひじりこえるを見る。すること一車。さきにはこれがゆみを張り、のちにはこれがゆみはずす。あだするにあらず婚媾こんこうせんとす。往きて雨に遇えば吉なり。
象に曰く、雨に遇うの吉なるは、群疑亡ぐんぎほろぶればなり。

この爻辞、易経全体の中でも最も幻想的で奇怪である。『塗』は泥。『鬼』は幽霊。『弧』は弓。『説』は脱と同じ。『匪冦婚媾』は屯六二その他に見えた。
上九は下卦の六三と「応」ずる。しかるに六三は前後の二陽爻のために、車を引き戻され、牛を制止されて、上九のもとへ来れない。上九自身は上卦☲明の窮極点、また睽卦の極点におる。しかも剛爻、剛愎の性質である。明の窮まるところにおるから、不明で猜疑心に満ち、睽の極点だからひどく反目する。そこで睽いて孤である。
六三が周囲の陽爻に、心ならずとりまかれているのを、いかにも汚いもののように、まるで豚が背中に泥を一杯つけているのを見るように、苦り切って眺めている。六三には叛逆の事実はないのだが、上九は猜疑心の極、無いものを有るかのように見る。
車一杯に幽霊を載せているのをまざまざと見る。幽霊とは、怖れるものだけに見えるもの、上九の六三に対する被害妄想の象徴である。
猜疑心と思い込みから被害妄想に陥り、恐れるほどに忌み嫌う。まさしく疑心暗鬼の構造である。
上九は当初、枯尾花を幽霊と見て、その弓に弦を張り、六三を射殺しようとするが、その後やや疑いが解けて、その弓弦をはずす。最後には六三が自分に敵対するものでなく(=匪寇)、自分と親しみを結びたい(=婚講)本心だと悟る。
ここに睽きは極まって、合うことになる。往いて雨に遇えば吉、今までの数々の疑い、すべてなくなり、上九が進んで六三と和合するようになれば吉。
雨とは陰陽の和合の結果生ずるもの。占ってこの爻を得れば、人と折り合わず、妄想を抱いて敵対することがあろう。疑いを捨てて和合すれば吉。

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