34.雷天大壮(らいてんたいそう)【易経六十四卦】

易経
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雷天大壯(大きなものの隆盛/はやる馬)

positiveness:積極/the power of the great:偉大な力
運気盛大なり。されど自制自戒すべし。
血気にはやり、急進すべからず、ブレーキを踏むべし。

物不可以終遯。故受之以大壯。
物は以て終にのがるべからず。故にこれを受くるに大壮を以てす。
物事は、いつまでも退いたまま終わることはできない。退いて養っているうちに、だんだんと力もついて、さかんになってくる。大壮は、大なるもの、つまり陽が壮んなこと。大いに旺んなこと。
気が下から盛り上がり、上の陰気を衰えさせる形である。陰気なことはすべて忘れて、陽気に派手に騒ぎながら行く状態。したがって、外見ほどには実質をともなわないうらみがある。
まさに天(乾)の上に雷鳴(震)がとどろきながら、いっこうに雨の気配がないという卦象そのままである。こういうときには、自分自身をいま一度ふりかえってみる必要がある。
陽の君子の勢いが盛んであり小人の勢いはだんだんに衰えていく。そして、ついには小人は全く滅びてしまうのである。
勢いが盛んな時は、とかく勢いに乗って行き過ぎてしまう恐れがあるから、「特に大壮の時には、正しきことを固守するのがよい」との戒めがある。


勇猛果敢、積極的に攻めて功を奏するとき。
猪突猛進は感心しないが、運勢は非常に強く、何事をやっても成功に導くだけの運命力があり闘志満々のときである。
何か周囲から大きな力が加わって自然と自分がその渦中に押し出されて流れに乗っていくとか、ファイトとエネルギーが体の内外に満ち溢れ、じっとしておれず自ら外に働きかけていくとかいったことがこの卦の状態であるが、ここで戒めておかねばならぬことは、先ほどの言葉である猪突猛進で、何の計画もなく準備もなく前進すれば、最初は良くても途中で思わぬ落とし穴に陥ることになるで、ここは充分警戒しなければならない。
決して調子に乗らないこと、また心の驕りや気の緩みがとんだ命取りになることにも注意すること。
[嶋謙州]

大いにさかんなれというのが大壯の卦であります。
つまり、遯によって消極的になっては駄目で大いに活動力をさかんにしなければならないということであります。
大壯の卦の結論である大象をみますと、非礼弗履―礼にあらざれば履まず、とあります。
りまり、礼法、礼儀に即しなければ実行しない。すなわち遯する。
解脱するとは、より真実の生活、正しい生活に入ることで、消極的萎縮的になるということではなく、それによって生命、人格、行動というものを一層さかんにするという意味をもっております。それによって初めて人間には進歩があるのであります。
[安岡正篤]

大壯。利貞。

大壯だいそうは、貞しきに利あり。

『壮』は盛んなこと。大は陽を指す。大いに壮んな時は積極的に物事を推し進めようとする陽の力が働く。この勢いをコントロールするのは非常に難しい。バブル時代のように勢いがつき過ぎると大抵の人は道を過つ。
この卦は消息卦の一つ、二月の卦。四つの陽が壮んに成長している。陽(=大)が壮んという意味で大壮と名付ける。陽すなわち君子が伸びる卦であるから、占ってこの卦を得れば、願いごと亨り、吉であることは、言わずして明らかである。ただし貞しくてその貞しさを固守することを条件とする(=利貞)。勢い壮んであって正を得なければ、ただの乱暴に陥る惧れがあるから。

彖曰。大壯。大者壯也。剛以動。故壯。大壯利貞。大者正也。正大而天地之情可見矣。

彖に曰く、大壮は、だいなる者さかんなるなり。剛にして以て動く、故に壮んなり。大壮貞しきに利あるは、大なる者正しきなり。正大せいだいにして天地のじょう見るべし。

大壮の卦名は、陽、大なる者が卦の半分をこえるほど壮んであることからつけられた。これは卦全体の形からいう。さらに上下に分ければ、下卦乾は剛だけで最も剛であり、上卦震は動くの徳がある。剛い力で動くので、壮んなものになる。掛辞に大壮は貞しきに利ありというが、大なる者すなわち陽が、ただ強いばかりでなく、正しくあれということである。大壮であって且つ正しければ、正大である。至って正しく至って大きくなれば、その人は天地と肩を並べる。天地の秘密も見ることができよう。天地の道も正大にほかならぬから。

象曰。雷在天上大壯。君子以非禮弗履

象に曰く、雷の天上にあるは大壮なり。君子以て礼にあらざれば履まず。

この卦は、雷が天の上に烈しくとどろいている。大きく壮んなありさまである。故に大壮と名付ける。君子はこの卦に法とって、君子としての大きく壮んなことを行なう。君子の壮さというのは、人に勝つことでない。自分に勝つことである。老子も「自ら勝つ者は強し」という。
君子は雷のごとき威厳と決断で、自分に勝つことに努めなければいけない。自分に勝つ道は何か。礼の実践である。礼にそむいた行動は絶対にしないことが、これに克つことであり、君子の強さ、つまり君子の大壮である。
孔子は、仁(最高の道徳)とは何かという、弟子の質問に対して、己れに克ち礼に復ることと答え、さらにそれを布衍して、礼に非れば視る勿れ、礼に非れば聴く勿れ、礼に非れば言う勿れ、礼に非れば動く勿れといった(『論語』顔淵)。この象伝の思想と見合うものである。
何をやってもうまくいくような勢い壮んな時は大胆に豪快に行動すべきである。しかし、勢いがあるだけに自制することが難しくなる。克己心がないとコントロールがきかなくなり、時には善悪の判断さえも失い、非道も平気で行うようになってしまう。
この言葉は、そうした時に「礼」の道でなければ絶対に履み入れてはいけないと戒めている。

初九。壯于趾。征凶。有孚。 象曰。壯于趾。其孚窮也。

初九は、あしに壮んなり。征くときは凶、孚あり。初九は、趾に壮んなり。征くときは凶、孚あり。
象に曰く、趾に壮んなるは、それ孚にきゅうするなり。

趾は足首から下の部分をいう。人体の一番下にあって、進み動くもの。故に、趾に壮ん~趾に元気がある~ということは、進み動く意欲旺盛なことを象徴する。
初九は陽剛であって、大壮の卦の一番下におる。大壮は陽の壮んな時であるから、初九は当然、進み動こうという意気壮んである。そこで趾に壮んというイメージを用いた。判断として、征くときは凶、孚ありという。征は往く。孚は信、約束を守る意味から、必ずの意味になる。最下位にありながら壮んに進むというのは身の程を知らぬ破滅の道である。この爻を得たら動いてはいけない。往けば凶になること、うけあいである。象伝、孚に窮すは、必ず困窮するの意味。

九二。貞吉。 象曰。九二貞吉。以中也。

九二は、貞しければ吉なり。
象に曰く、九二の貞吉ていきつなるは、ちゅうを以てなり。

九二は陽爻が陰位にある。つまり「不正」である。しかし幸いに二という位は内卦の「中」である。中庸の徳を守ることによって、居場所は不当ながら、なお心の貞しさを失わずにすむ。そこで作者は、占う人に対して戒める、中庸をふむことでもって、美しい道を求めるならば、最後には吉を得るであろう。大いに壮んな時にはとかく過度に陥り易い。そこで中庸ということが何より必要な徳なので、この夏も「不正」だけれど、「中」によって救われている。けれども場所は不正なので、この爻に当たったら、自分を守って、進んではいけない。

九三。小人用壯。君子用罔。貞厲。羝羊觸藩。羸其角。 象曰。小人用壯。君子罔也。

九三は、小人は壮を用い、君子は用うることし。貞しけれど厲し。羝羊藩ていようまがきに触れて、そのつのくるしましむ。
象に曰く、小人は壮を用う、君子は罔し。

『罔』は亡、無の仮借。『羝羊』は牡羊。『藩』は、まがき。『羸』は、ひっかかって困ること。九三は、剛が剛位におる。下から数えてもう三本も剛が重なった。「中」(二)を外れ、剛に過ぎる。壮んなうえにも壮んな状態。小人は人に勝つことばかり好むから、このひたすら壮んな状態を用いて突進する。君子は自分に勝つことを心掛けるものだから、このようなやりかたを用いることは罔(な)い。貞なれども厲しは壮を用いることへの戒め。占ってこの爻を得た人、他人に勝とうとして過度に壮んな力を用いるときは、事は正しくても、結果は危うい。たとえばの羊が暴走して生け垣に頭を突込み、角をいばらにひっかけて困っているようなことになるであろう。羊は強情な動物とされる。だからなおさらである。

九四。貞吉悔亡。藩決不羸。壯于大輿之輹。 象曰。藩決不羸。尚往也。

九四は、貞しければ吉にして悔亡ぶ。藩決まがきひらけてくるしまず。大輿だいよとこりばりに壮んなり。
象に曰く、藩決まがきひらけてくるしまず、お往くなり。

『決』は切れる意味から、開ける。『輿』は車。『輹』は車軸を車台に縛りつける革。九四はすでに卦の半ばを過ぎて、剛爻が重なっている、甚だしく壮んである。しかし剛が柔位におる。「不正」である。このままでは後悔することがある筈。そこで作者は占者を戒めていう、貞しければ吉にして悔い亡ぶ~身を正しくしてその正しさを固守する(=貞)ならば、結果は吉になり、懸念された悔いも未然に消滅するであろう。たとえば牡羊の前方をさえぎる生け垣が割れて、その角にからまることがないようなもの。さきの九三では生け垣がさえぎって、角にからまった。ここでは生け垣が開ける。なぜかといえば九三の前方には剛爻があったに対し、九四の前方は柔ばかりだからである。
大輿の輹に壮ん~大きな車の軸承けが頑丈であるということは、限りなき前進の可能性を意味する。車軸が車台にしっかりついていなくては、重い車は進むことができない。
この爻、「不正」ながら九三よりも吉いのは、剛柔位で、剛の程度が極端でないからである。
象伝の意味は、生け垣が割れるから、陽はなおも前進が可能であるということ。九四のさきが陰になるので、陽の前進がここで止るかに見える。そうでないことを注意した。

六五。喪羊于易。无悔。 象曰。喪羊于易。位不當也。

六五は、羊をえきうしなう。悔なし。
象に曰く、羊を易に喪うは、くらい当らざればなり。

この卦に羊の象徴が用いられる理由は、䷡の二画を一画に数えれば兌になる。は外柔内剛、羊の象がある。易は、田の畔たのくろ。六五は柔であって「中」におる。中庸で柔いということは、もはや大壮(陽が壮ん)の性格を喪失している。そこで、この爻のシチュエーションの象徴として、羊を田のくろに見失うという。羊は、右に述べたように大社の象徴だから。占断として悔いなしという。もはや力強い前進はないけれども、後悔するようなことはない。大壮の時は壮ん過ぎることを警戒すべきなので、中庸を得た六五はその点、安全なわけである。
象伝の意味は、五は陽位、陰爻がおるべきでないのに、陰爻がおるので、羊すなわち陽の隆盛が見失われる。

上六。羝羊觸藩。不能退。不能遂。无攸利。艱則吉。 象曰。不能退不能遂。不詳也。艱則吉。咎不長也。

上六は、羝羊藩ていようまがきる。退く能わず、すすむ能わず。利するところなし。くるしめば吉。
象に曰く、退く能わず、遂む能わざるは、不詳ふしょうなり。艱しめば吉、咎ながからざるなり。

『触』は角で突くのが原義。『遂』は道を行くのが原義。『詳』は祥と同じ。上の位は極点である。大壮の極点であるから、意気壮んに突進する。牡羊が生け垣に角を突込んで退くことができないありさま。それでいて上六は陰だから、もう一つ力が足りない。垣を破って遂むこともできない。
占ってこの爻を得れば、力不足なのに暴走してぬきさしならぬ不吉(=不祥)な運命に陥る。何の利益もない。
ただし、幸いに上六は柔爻である。運命に逆らわず、柔軟に対処しうる。立場の艱難なことを自覚して耐え忍ぶならば、遠からず障害は開けて、吉となるであろう。

 

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