30.離為火(りいか)【易経六十四卦】

易経
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離為火(附く・続いて昇る太陽/煌めきの時)

farewell:別離/fire
運気盛大なり。されど移ろいやすき象なり。
慢心すべからず。謙虚であれ。

陷必有所麗。故受之以離。離者麗也。
陥れば必ずくところあり。故にこれを受くるに離を以てす。離とはなり。

困難な状況に陥れば、必ず何物かに付着して落ち着くものである。麗は、付く、付着すること。
離とは、火、太陽を象徴する。また明であり、知性である。燃えつくことから、付着することでもある。この卦は上下とも☲(離)であり、いやがうえにも明るい太陽、火のような情熱、そして明晰な知性を表わす。自己の立場にしっかり根を据えて(付着)、能力をあるかぎり発揮すべきときである。

離の卦は、真ん中の陰が、二つの陽に付いている。
この一つの陰が、上の陽爻に付けば、下の陽からは離れなければならない。
下の陽に付けば、上の陽爻からは離れなければならない。両方に、同時に付くことはできない。一方に付けば、他の一方からは離れなければならない。そこで、付くという意味と同時に離れるという意味も出てくる。
火は、もともと形の無い物である。何か他のものに付着して、そこではじめてその形が現れる。全ての物は、何かの物に付いて、はじめてそのはたらきをすることができる。それが大きなはたらきをするには、正しいところに付いている必要がある。
人が付くところのものは、その人がどういう人に付いているか、どういう人と親しんでいるか、どういうことを仕事としているか、どういう活動に付いているか、どういう考えに付いているか等々、その人に付くところのものを、充分に見きわめることが大切である。


華やかな中に一抹の寂しさを秘めている卦です。
「会えば別れ」のたとえ、他人ならず自分も又いつかは人生の終局を迎えねばならない。映画やドラマなら甘酸っぱいセンチメンタリズムの酔いながら別離のシーンを鑑賞できるが、実際自分に置き換えて見ると、こんな切ない気持ちは二度と味わいたくないし、全くたまったものではない。運勢は昇りきってぽつぽつ下降状態を見せ始めたとき。
表面は賑やかなようでも、なんとなく孤独っぽく寂寞を感じ、とかく人と別れたり、面白くないことが起こる。こんな時は物事を深追いせず、ほどほどにして、やりかけていることは早い目に片付けて置いたほうがよい。決して調子に乗ったり、無責任なことはしないようにくれぐれも慎むこと。
[嶋謙州]

坎為水を裏返した錯卦であります。上卦、下卦とも火でありまして、火は何ものかについて初めて炎上し、火としての特性を発揮する。また離は、はなれるとともにつくという意味があります。
この火の従うという性質は、人事で申しますと、人が何につき従うかということでありまして、慎重に正につき従うことを考えなければなりません。これによって吉慶を得ることができるのであります。
[安岡正篤]

離。利貞。亨。畜牝牛。吉。

離は、貞しきに利あり。亨る。牝牛ひんぎゅうやしなう、吉なり。
正道を固守すれば思いは亨る。牝牛のような柔順さをあわせ持つことが大切である。

坎為水を陰陽逆にした形。離は附著の意味である。通用の意味と反対のようだが、そのような例は珍しくない。は中の一陰が二つの陽に附著した形。故に著くという意味で離の名が冠せられる。☲の象を火とするのは、火がそれ自体は空虚な物で外が明るい。ちょうど中が陰で外が陽の形に当たる。しかも火は何かに燃え著くことで存在しうる。にはまた日、明の意味がある。火から自然に出てくる。また仕事に就くという意味もあり、人間関係全般に関わる。
さて天地間の物体は何かに附著して存在しうるが、附著する相手が正しくなくてはいけない。人間も、親しみ附く相手の人、あるいは自分のとり著く仕事や主義など、すべて正しいものを選ぶべきである。卦辞に、美しきに利ありというのはそれである。牝牛は至っておとなしい動物。柔順の徳に譬える。角が己の側に湾曲していることから、自分を客観的に省みることに喩えられる。尖って攻撃的な人は付き合いにくいから、内省し『牝牛を畜う』ことは処世の基本ともいえる。
占ってこの卦が出たら、正道を固守すれば(=利貞)、思うこと亨る。柔順の徳を養えば(=畜牝牛)、吉を得るであろう。

彖曰。離麗也。日月麗乎天。百穀艸木麗乎土。重明以麗乎正。乃化成天下。柔麗乎中正。故亨。是以畜牝牛吉。

彖に曰く、離は麗なり。月日は天に麗き、百穀草木は土に麗く。重明以ちょうめいもって正に麗く。乃ち天下を化成す。柔中正に麗く、故に亨る。ここを以て牝牛を畜うときは吉なり。

離とは麗くという意味である。麗は鹿の二頭ならぶさま、ならぶつくの意味。附とか著の字を用いないで、麗の字で解釈したのは、同音だからである。

日月は天に著くのが正しく、百穀草木は土に著くのが正しい。万物何かに著くのであるが、正しい相手に著くべきである。
この卦はが重なる。は明である。六二は「正」(陰爻陰位)、正しい位置に著くもの。上下明らかで、正に著く、さてこそ天下を感化し風俗を完成する。この卦は六二と六五が、柔で「中」の位に著き、そのうち六二は「正」にも著いている。故に亨るという。柔が卦の中心におるので、柔順な牝牛を畜えば吉である。
火が二つ重なる離為火の説く徳は、明知をもって正しい道につき、太陽のように周囲を明るく照らすことである。人間も明徳を修養して正しくあれば、風俗を感化し、広く社会を育成する者となる。『化成』とは、感化し育成するという意味。

象曰。明兩作離。大人以繼明照于四方。

象に曰く、明両めいふたたびおこるは離なり。大人以て明を継ぎ四方を照らす。

『明』はこの場合太陽をいう。『両』は二回。『明両たび作る』とは今日も明日も太陽が昇るという意味。『作』は起。太陽☲が、今日も明日も、引き続いて立ち昇るかたちを示すのが離の卦である。聖人はこの卦に象どって、明徳の君に継ぐに明徳の君を以てし、四方を照臨する。
これは国や社会、また家庭の照らし方、その心構えをいう。燃え上がる火はよく見ればその中心は暗い。つまり、心が空虚でなければ、明を継ぐことはできない。朝に昇る太陽のように、日々心新たであればこそ、周りを明るく照らすことができるのである。

初九。履錯然。敬之无咎。 象曰。履錯之敬。以辟咎也。

初九は、履むこと錯然さくぜんたり。これをつつしむときは咎なし。
象に曰く、履錯りさくの敬みは、以て咎をけんとなり。

『錯然』足跡の入り乱れるさま。『敬』は慎。『辟』は、避と音義とも同じ。
初九は、剛、積極的であり、☲明の一部である。相当の聡明さを具えている。このような性格で、今、最下位におる。当然昇り進もうという志が強烈である。そこでまだ急に進めない時期なのに、東西南北、方角も定めず、足を踏み出そうとする(=履錯然)。これでは咎に陥る危険がある。そこで作者は、占者に戒める。過ちを避けようとすれば(象伝)、妄動しないでよく慎むがよい。そうすれば咎はない。
この卦は、すべての点において、坎とは対照的である。坎は剛中をもって亨るとし、陰柔をもって穴に陥るとしたが、離のほうはそれと反対に牝牛を畜えば吉とあり、陽剛なれば過ちを生ずると見る。しかし内卦の陽爻は正しい位を得ているので、慎むことによって咎を避けることができるとする。

六二。黄離。元吉。 象曰。黄離元吉。得中道也。

六二は、黄離こうり。元吉なり。
象に曰く、黄離元吉なるは、中道を得ればなり。

『黄』は土の色。土は五行で中央に当たる故に、中の色である。六二は内卦の「中」の位に離いているから、黄離という。六二はまた「正」(陰爻陰位)。いよいよめでたい。占ってこの爻を得れば、大善であり、吉である。坤の六五に黄裳元吉とあるのと似ている。初九の離を夜明けと例えるならば、これは中天にある正午の日である。

九三。日昃之離。不鼓缶而歌。則大耋之嗟。凶。 象曰。日昃之離。何可久也。

九三は、日昃にっそくの離なり。ほとぎを鼓ちて歌わずば、大耋だいてつなげきあらん。凶。
象に曰く、日昃の離なり、何ぞ久しかるべけんや。

『昃』は日が西に傾くこと。『離』は明。『耋』は、百歳になろうかという大老。
九三は二つの太陽の中間におる。前の太陽が尽きかけて、後の太陽が継いで昇ろうとしている。日が西に傾いた残りの明るさ、日昃の離である。久しからず消える。
だが生ある者の必ず没するのは常理である。その常理に安んじて、酒甕を叩いて歌いつつ、一生の残光の時を楽しむがよい。そうした天命を楽しむ心境にならなければ、老い朽ちる歎きだけが、徒らに身を噛むであろう。それだと凶。
必ず日が傾くように人間も年老いて没す。生あるものは必ず死を迎える事実を受け入れ、天命の終わりを楽しもう。没したくないと思うのは、時を知らない人である。
占ってこの爻を得た人は、よろしく酒甕を叩いて歌う心境に立つべきである。

九四。突如其來如。焚如。死如。棄如。 象曰。突如其來如。无所容也。

九四は、突如とつじょそれ来如らいじょ焚如はんじょ死如しじょ棄如きじょ
象に曰く、突如それ来如、るるところなきなり。

九三の日昃くところで一つの離は終わったのに、また外卦の離がある。それを突如として現れたように記しているのは、火の性の烈しいことや、この九四の陽剛不正で牝牛を畜うべき離の道に敵わない強暴さを表現したものである。
『突如それ来如』如は然と同じであるが、来如の如は語調を整えるためと見てよい。突然として来る。以下の如も同じ。四の位置は上下の☲の接点である。前の太陽は既に没し、後の太陽が継いで起ころうとする微妙な時。しかるに九四は陽剛でもって、後の太陽の主体ともいうべき、柔なる六五に激しく迫る。まるで突っかかるように(=突如)やって来る(=来如)。
人間界でいえば、前の明君が没して、新たな明君が継承しようという時に、強力を以て君位を窺う姦臣である。この強引な九四は、人に憎まれて身を置く場所がない(象伝)。
焚き(離は火)殺され(=死如)、棄てられるような(=棄如)目に遇うであろう。凶とは言わないが、この爻が出たら当然である。
勢いに乗って才能を振りかざし、激しさだけで燃えさかろうとすれば、自ら火に焚かれ、一瞬にして明を失うことになろう。

六五。出涕沱若。戚嗟若。吉。 象曰。六五之吉。離王公也。

六五は、なみだいだすこと沱若たじゃくたり。うれいて嗟若さじゃくたり。吉なり。
象に曰く、六五の吉なるは、王公に離けばなり。

『沱若』滂沱と同じ、涙の流れるさま。『嗟若』は歎息のさま。『離』は附著。
六五は陰でもって五の尊位におる。つまり王公の位に著いている(象伝)。
五は外卦の「中」で、柔が中に著く点も良い。ただ陰が陽位にある。「正」を得ない。だから上下の陽剛に迫られる。君権が弱くて、強力な臣が位を窺うかたち。六五の君は、そこで、滂沱と涙を流し(=出涕沱若)溜息ついて憂える(=戚嗟若)のであるが、このように日夜憂懼することが、自己の地位を保つゆえんであり、かくてこそ吉を得るのである。占ってこの爻を得れば、危険な立場である。その危険を自覚し、警戒を怠らねば、吉。

上九。王用出征。有嘉折首。獲匪其醜。无咎。 象曰。王用出征。以正邦也。

上九は、王以て出でて征す。嘉きことありかしらくじく。ることそのたぐいにあらず。咎なし。
象に曰く、王以て出でて征す、以てくにを正すなり。

『醜』は類の意味。上九は明の卦の極点、『明察』は遠く国のすみずみに及ぶ。しかも剛だから、果断である。王者がこの徳をもって征伐に出かけるとき、悪人の頭目を誅するという嘉き手柄があろう。ただし濫りに罰するのではない。殺したり生け捕ったりする相手は、みな自分と同類でないもの、悪人に限られる(=獲匪其醜。獲は生死ともに用いる)。だから咎はない。
占ってこの爻を得た人、剛と明の徳あれば、悪人を征伐しても咎はない。ただし占う人が小人ならば、首を斬られるか、捕えられるかである。象伝の意味は、武力を用いるのは、国を正すためにのみ許容されるということ。

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