28.澤風大過(たくふうたいか)【易経六十四卦】

易経
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澤風大過(大きな・過度/アンバランス)

crisis:危機/excess:超過
自己の力量を超えたるものなり。
まさに衰運来たらんとす。万事警戒すべし。

不養則不可動。故受之以大過。
養わざれば動くべからず。故にこれを受くるに大過を以てす。
願って始めて、ものは動くことができるので、養いは厚きに過ぎてもよい。そこで願卦に大過卦が続くという。

養わなければ、動くことができない。 十分に養う時には、大いに人に過ぎたことを行なうことができるのである。
「大過」とは大なるもの、陽が盛んに過ぎる、物事が大いに過ぎるという意にもなる。
棟撓むなぎたわ:初爻と上爻を棟木の両端とし、二三四五爻を中の部分とする卦の六爻全体を一本の棟木とみる。(この棟木は、両端が陰で弱く中の部分が陽で重い)
もう一つの見方は、二三四五爻を棟木、初爻と上爻の陰を支える梁や柱と見る。四つの陽の棟木を、初爻・上爻の陰では支えることができない。そこで、棟木が撓む象とする。
この卦は、中間部分があまりにも充実しているが上部と下部とが、極端に貧弱なのが特徴である。人間社会でいえば、中間階級がとても盛ん。対して上層階級や下層階級に力がない。上下貧弱になれば、中間階級も困窮に陥り滅びてしまう。
なんでもかんでも盛んだからよいというものではない。盛んに過ぎたる場合には、かえって災いを引き起こすことになるのである。このような場合、どのように対処するのがよいかを説く。

非常に危険な時が迫っている状態で、何事をするにも慎重を重ね、決して軽はずみな行動に出てはいけない。この卦が出るときはえてしてのっぴきならならぬ事情の起こっていることが多く、どうしてもこのことをやらねばならぬとか、引くに引けない切羽詰った状態に追いやられるといったことがしばしばである。
運勢は決して強くなく、強ければ進んで災難も避けられようが、弱いために進めば厄難を蒙ることは必然、ここは一番思いとどまって無難。身の安泰を計ること。
これから何か物事をやることは絶対避けることが肝心で、無理に行使すると、自ら墓穴を掘るか、灰神楽三太郎ではないが、自分で棺おけを背負って乗り込まねばならぬことにもなりがち。又ということがある。
[嶋謙州]

この卦は山雷頤の裏返し(錯卦)であります。
初爻と上爻が陰で弱く、中の四爻がすべて陽で大(陽)の過ぎる卦であります。
つまり四爻は棟木であり、初爻と上爻がこれを支える柱でありますが、棟木が強すぎて支える柱が弱いため、家が倒壊する危険がある。
また、人事関係で申しますと、責任が重過ぎるという卦でありますが、これを突破するために大きな努力が必要であり、努力によって功を奏する事ができるという卦であります。
このように我々の生命、人格、事業などの変化、変遷というものを辿ってまいりまして最後に五行の水に至ります。
[安岡正篤]

大過。棟橈。利有攸往。亨。

大過は、棟撓むなぎたわめり。往くところあるに利あり。亨る。

山雷頤を陰陽逆にすれば大過になる。大過の大は陽を指す。陰は小、陽は大である。過は過ぎる。度を過ぎる。卦の形を見ると、中央に四つの陽が充満している。陽が過度に盛んである。陽は大、大なるものが過度に盛んというので、大過と名づける。この卦と対照的なのは雷山小過。陽が二つで、陰が四つだから「小なるもの過ぎたる」卦であり「小さきに過ぎる」卦とも言える。ちょうど大過と反対である。
棟撓めり~棟は屋根のみねを走る横木である。卦全体を一本の材木に見たてれば、なかほどはしっかりしているが両端が弱い(柔爻)。これを棟にしたものだから、屋根の重さに耐えられないで、中だるみしている。人間でいえば、高い地位に昇ったものの、重任に耐えかねていることを象徴する。
組織構造に喩えるなら、中間層の勢力が強力で、それに比して上層と下層の力が脆弱なため、物事を動かそうとすると組織が倒壊しかねない非常時である。
撓んだ組織は一度壊して建て直すのではなく、速やかに改修すべきである。家の修復のように細やかに徐々に補強して形勢を整えよ、と易経は教える。
この卦、陽爻が四つもあるのは過度であるが、そのうち九二と九五は内外卦の「中」を得、内卦の巽は従うの徳が、外卦の兌は説ぶの徳がある。つまり中庸をふみ、従順で人に悦ばれるような性格なので、進んで行っても必ず通る。そこで判断として、往くところあるに利あり、ねがうこと亨る、という。ただしその徳あってのこと。常人ならば、身の程を過ぎたことをして、家が傾く。

彖曰。大過。大者過也。棟橈。本末弱也。剛過而中。巽而説行。利有攸往。乃亨。大過之時大矣哉。

彖に曰く、大過は、大なる者の過ぎるなり。棟撓む、本末弱きなり。剛過ぎてちゅうなり。そんにしてよろこんで行く。往くところあるに利あり、乃ち亨る。大過の時おおいなるかな。

大過の名は、大なる者が過ぎるという意味である。大なる者は陽である。棟のたわむのは材本の根本と上端が弱いからである。根本とは初六を、上端とは上六を指す。陰だから柔弱である。
陽剛が過度に盛んになっているが、二と五は「中」、柔順巽と兌悦ばせる徳でもって行くから、往くところあるに利ありといい、そういう風だからこそ亨るのである。
この大過の卦によって象徴される時間というものは、偉大な時間である。棟橈むといえば悪い意味のようだが、そうとばかりはいえない。物事やり過ぎて然るべき、非常の時間というものがある。
むかしは、貧しい平民のに天下を譲った。殷の湯王とうおう、周の武王は、それぞれ自分の君を殺した。いずれもひどく度を過ぎた、大過の行為であるが、そうせねばならない時間であった。堯は老い、自分の子は愚かだったし、湯王、武王の仕えた君は、暴虐で手のつけようがなかった。大過の時間には、大いに人に過ぎた才能の人が、大いに度を過ぎた行為をせねばならないのである。なお弱の古音はじょとうと韻をふむ。

象曰。澤滅木大過。君子以獨立不懼。遯世无悶。

象に曰く、沢つくすは大過なり。君子以て独立しておそれず、世をのがるれどもいきどおることなし。

滅は浸没の意味。この卦は沢の下に木がある。木を潤すべき沢が、木の上まで浸しているのは、はなはだ過ぎた行為である。それで大過と名づける。君子はこの卦に法とって、大いに人に過ぎた行ないをする。たとえば世間みなが非難しても、独りわが道を行って懼れない。世を捨てて誰にも知られないでいて、悔いることがない。これは大過の行為である。
危急の時、リーダーは自分の力量を超え、過ぎた行いをしなければ、危機からは逃れられない。周りや世間がどんなに非難しても、苦悶せず、良しとした志を懼れず流されずに貫き通すことである。大変な非常時には逃げるのではなく、「我行かん」と勇気を持って進んで行かなければならないと易経は教える。

初六。藉用白茅。无咎。 象曰。藉用白茅。柔在下也。

初六は、くに白茅ほくぼうを用てす。咎なし。
象に曰く、藉くに白茅を用てす、柔しもに在ればなり。

白茅、白いちがや。昔は床に席をしいて坐り、食卓などなしに、爼豆そとう(食器)をじかに置いた。食器の下に清浄なちがやを藉くというのは、過度に恭々しい態度。清の王夫之は天を祭る時であろうという。初六は、陰柔であり、巽の一番下にある。巽は従うだから、初六は極端に柔順な性格。大過の時に当たっているが、畏れ慎むことに於て大過である。たとえばお供えの器の下に白茅を藉く丁寧さに似ている。このような、度の過ごしかたは咎のないのが当然である。占ってこの爻が出たら、過度なくらい畏れ慎むべきで、そうして始めて咎がない。

九二。枯楊生稊。老夫得其女妻。无不利。 象曰。老夫女妻。過以相與也。

九二は、枯楊稊こようひこばえを生ず。老夫ろうふその女妻じょさいを得たり。利あらざるなし。
象に曰く、老夫女妻、過ぎて以てくみするなり。

九二は、池のほとりの木とする。楊は楊柳(かわやなぎ)。稊は古い根のわきから新たに出る芽。女妻は若い処女の花嫁。
九二は四陽のうちでは一番下、陽の力の過大になる始まりである。九二は上卦に「応」がない(二五ともに陽)。それで下の初六と比しもうとする。
二は陽、初は陰で、親しみあう可能性は十分にある。ただし九二は盛りを過ぎた陽、たとえば枯れかけた柳、老いたる夫。それが初六という幼い陰と結ばれるのは、枯れ柳にひこばえが生じ、老いた夫が若い妻を娶るようなもの。
ひこばえというのは下に生気が満ちて上にのびるもの。九二は下の陰によって生気を吹きこまれた。
枯れかけた柳は再び栄えるであろう。夫は老いているが、若い妻はなお子を産んでくれるであろう。故に利あらざるなし。
象伝、過ぎて以て相い与すは、分に過ぎた縁組みの意。占ってこの爻を得れば、独行してはならない。よきパートナーが得られるだろうから、それとともに行なえば、利あらざるなし。

九三。棟橈。凶。 象曰。棟橈之凶。不可以有輔也。

九三は、棟撓むなぎたわめり。凶。
象に曰く、棟撓むの凶なるは、以てたすくることあるべからざるなり。

棟は屋根の中心である。三四卦の中央だから、三、四の辞に棟の字が用いられる。九三は剛が剛位におる。支える棟は重みに耐えかねてたわむ。外卦の上六が「応」であるが、九三が強過ぎて、補けてやろうにも手が出せない(象伝)。やがて棟が折れて家の倒れる危険がある。この爻が出れば、自信過度で失敗する。凶である。

九四。棟隆。吉。有它吝。 象曰。棟隆之吉。不橈乎下也。

九四は、棟隆むなぎたかし。吉なり。あれば吝。
象に曰く、棟隆きことの吉なるは、しもたわまざればなり。

『它』は、他のことに気を移したりすること。『隆』は筋骨隆々の隆で力強いの意。九四は陽剛であるが、居る位置は柔位である。全体は剛に過ぎる時であるが、九四は剛に過ぎない。いわば棟が高々とそびえ立って、下にたるむことのない象。
占ってこの爻が出たら、重任に立派に耐えることを得て吉である。しかし九四には、下に初六という「応」がある。初六が、自分が同志だからといって助けに来ると、九四はそれ自体剛柔位でバランスがとれているところへ、柔爻(初六)の援助を受けたのでは、柔に過ぎる結果となる。そこで它あれば吝~なまじ他人の誘いに乗れば恥ずべき結果になるという戒めを占者に与える。

象伝、下に撓まずは、棟がたるまないことと、初六に誘惑されないことと、両義を兼ねる。

九五。枯楊生華。老婦得其士夫。无咎无譽。 象曰。枯楊生華。何可久也。老婦士夫。亦可醜也。

九五は、枯楊華こようはなを生ず。老婦その士夫しふを得たり。咎もなく誉れもなし。
象に曰く、枯楊華を生ず、何ぞ久しかるべけんや。老婦士夫またずべきなり。

士夫の士は老に対する。若い夫。醜は愧と同義。
九五は四陽爻の最上におる。剛の過度のそのまた極点である。下に「応」がないので(五も二も陽)、すぐ上の陰爻に比しもうとする。陰と陽との仲である。上六は喜んで受け容れるが、これは五より一段と年老いている。上の位は窮極を意味するから。
『枯楊に華が生ず』は九二『稊を生ず』と対で潤養をなす陰が下にあり位も妻妾と見られたのだが、九五は潤すに上よりし、位も士夫に当たっているので華を生ずとかけたのである。これは年寄った女の返り咲きをいう。
残された色香に紅・白粉で粉飾し、娘のような着物を着て、遂に後夫を迎えるわけである。すでに生殖の道は閉じているので褒めるわけにもいかない。後継者を得るとか、人類の意志を生かすというような意義の見出せない婚媾は長いものではないから、恥ずべきである。
潤いを下から受ける切り株の稊ならば、やがて枝を生じ実を結ぶこともできようが、この九五は陰の潤いを上から受けて一時の花を咲かせたものなので間もなく散ってゆかなくてはならない。
老いたる寡婦(上六)が若い夫(九五)を見付けた。九二のケースとちがって、子の出来る望みのない、恥ずべき結合である(象伝)。
占ってこの爻を得たら、咎もないかわり、何の誉れも得られない。

上六。過渉滅頂。凶。无咎。 象曰。過渉之凶。不可咎也。

上六は、過ぎてわたる、いただきをつくす。凶なり。咎なし。
象に曰く、過ぎて渉るの凶なるは、咎むべからざるなり。

頂は人の頭のてっぺん。滅は浸没。无咎は、この場合、単に咎がないのではない。象伝の不可がその意味。
上六は大過の卦の窮極の地点におる。身のほどを過ぎることの極致である。陰爻だから力弱く、天下の危難を救うことなどできもしないのに、身を挺してとびこむ。身のほど知らずに(=過)大川をかちわたりし(=渉)、頭までずっぷりと没してしまう(=滅頂)ような人である。結果は凶であるが、身を殺して仁を成すのである。義として咎めることができない(象伝)。
占ってこの爻を得た場合、志ある人ならば、身を殺すことはあるが、理想に殉ずるのだから咎なし。小人ならば、暴走して禍いに遇う。誰を怨むこともできない。

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