24.地雷復(ちらいふく)【易経六十四卦】

易経
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地雷復(一陽来復・復帰/復興・復縁・反復)

departure:出発/return
次第に運気は上昇せん。
万事順を追って進むべし。焦急短気は慎むべし。

物不可以終盡。剥窮上反下。故受之以復。
物は以て終に尽くべからず。剥は上に窮まって下に反る。故にこれを受くるに復を以てす。
物は尽きることがあってはならない、剝が上に窮まれば下に復る、故に剝に復が次ぐ。
物事は尽きて終わってしまうことはない。剥ぎ尽くされることが最上部まで窮まれば必ず一番下において一陽が生ずる。

新しく物事をやり始めるか、かつてやったことを再び手をつけるかする時にこの卦がでることが多い。運気はこれからだんだんと盛り上がって行くときだから将来は楽しみだが、そうかといって今はまだ一歩踏み出たところだから何時後戻りするか分からない。油断は禁物である。しかししり込みしたり躊躇したりすることはさらさら懸念することなく、堂々と前進すべきである。
季節でいえば年の始め、行事でいえば吉祥を立てるときだからたいへん縁起が良い。
しっかりと目標や計画を立てて迷わず、初志貫徹して欲しいもの。
行く先は必ず見通しが明るいのだから、何としても多少時間がかかっても頑張ることが得策である。
[嶋謙州]

剥一転すれば復であります。一陽来復であります。易は極まるところがありません。
万物自然をみますと、秋から冬を迎えて、木の葉は皆剥落します。
いわゆる木落ち、水尽き、千崖枯るという景色になりますが、春を迎えると、再び下から青草が萌え出し、木の芽が出る。
賁、剥すれば復であります。これが復の卦であります。
[安岡正篤]

復。亨。出入无疾。朋來无咎。反復其道。七日來復。利有攸往。

復は、亨る。出入やまいなし、朋来ともきたりて咎なし。その道を反復す。七日にして来り復す。往くところに利あり。

山地剝の反対の卦。この卦形を見てわかるように、復とは陽が復び下に生ずることをいう。剝の上が剝落してしまえば、純陰の坤、十月の卦となる。陽の形は見えないが、陽気は坤の下にすでに生じている。一月をこえて始めて、一陽の体を成して来復する。そこで十一月、冬至の卦を復とする。
この初爻の一陽は、前の山地剥の上爻に載っていた一陽で、『碩果食われず』の果実が、ついには熟成して落ち、坤地の下に埋もれてしまったが、一粒の果実、地に落ちて死なず春を待って蘇るというようなイメージである。ここでは、一陽が来復したことだけを重く見て、来復した陽気が順調に成長して行くかどうかは、もう少し経ってみないとわからないとしている。
陽が一旦往ってまた帰って来ることにより、万物生々の道が通ずる。人事でいえば、さきに刺落しかけた君子の道がふたたび通るようになる。そこで、判断として、享るという。
また上下に分けて見れば、内卦は震、動。外卦は坤、順。陽が下に動き、理に順って昇ってゆく象がある。そこで、出入疾なし、朋来りてなしという占断が下される。疾は患害。道理に順って動くので、占者自身の出処進退に何の障害もない。それだけでない。
占者と志を同じくする朋友が集まって来るであろうが、この朋友たちまでが、咎なしという好い運を得るであろう。
消息について見れば、五月姤䷫で一陰が始めて発生してから、遯䷠、否䷋、観䷓、剝䷖、坤䷁を経て、一陽来復した。一陰発生から一陽来復まで、七箇のを経過している。
一爻を一日と見れば七日。そこで占断辞として、反復其道、七日来復という。其の道を反復すとは、往ったものは帰り、帰ったものは往くというふうに、必ずそのコースを折り返すこと。従って凶だった者は必ず吉に帰り、危うかった者は必ずまた安泰になる。これが自然の法則である。
七日たてば復って来るというのは、右のように一陽来復の周期をいうのであるが、同時に占う対象、失せ物などが復帰する時期をいう。さらに、この卦は陽の徳が始めて伸長する時であるから、往くところあるに利ありという。占ってこの卦を得れば、願いごとは通り、出処進退ともに害なく、集まる仲間も咎なきを得よう。すべてもとの道に帰るという時で、失せ物などは七日たてば帰って来る。積極的に行動してよろしい。

彖曰。復亨。剛反。動而以順行。是以出入无疾。朋來无咎。反復其道。七日來復。天行也。利有攸往。剛長也。復其見天地之心乎。

彖に曰く、復は亨るとは、剛かえるなり。動いて順を以て行く。ここを以て出入疾しゅつにゅうやまいなく、朋来りて咎なし。その道に反復す。七日にして来り復す、天のこうなり。往くところあるに利あり、剛ちょうずるなり。復はそれ天地の心を見るか。

復卦に亨るの徳があるのは、陽が再び帰り、生意の流通することによる。
陽が動いて、理に順って、昇り行く意味から、出入疾なく、朋来りて咎なしの判断が出て来る。
その道を反復す、七日にして来り復すとは、天の道(=行)である。すなわち往った者は帰り、来た者は往くというのは天の法則であり、七日で一陽来復するのは陰陽消長の周期である。往くところあるに利ありというのは、陽が上に向かって成長しようとしているからである。この一陽来復の卦に於て、天地万物を生々してやまない意志を見ることができよう。
魏の王弼は「復はそれ天地の心を見るか」に注して次ぎのように述べる、「復とはもとに復る意味である。例えば動きがやめば、本の静に復る。静とは動に対立する概念でなく、絶対の静である。同様に、無は有の本であるが、有と相対するのでなく、有無の対立を超えた絶対無である。天地は森羅万象を有し、千変万化するが、その本は無であり、静である。絶対無、絶対の静こそが天地の心である。天地が有を以て心とすれば物を生むことはできぬ。復の卦はすべての動きが地中にやんで、静に復る時。ここに於て天地の心が見られる」。この解釈は明らかに老子の哲学によっている。『老子』に「万物並びおこるも、吾は以て復を観る」とある。
朱子の『本義』に「一陽来復の卦に於て天地生々の心が見られるということは、人間についていえば、悪が極まって善に復る、ほとんど消滅したかに見えた本心がたちらりと現われることである」という。孟子は人間性を相対的に善なるものと見、修養の方向を拡充と規定した。老子・荘子は人間性をそのままで完全なものと見、修養の方向は復帰にあるとした。王弼も朱子も後者の方向である。

象曰。雷在地中復。先王以至日閉關。商旅不行。后不省方。

象に曰く、らい地中に在るは復なり。先王以て至日しじつかんとざし、商旅行しょうりょゆかず、后方きみほうず。

復卦は、雷が地の中にある。雷は陰陽激発して声を発するもの、陽の微かな時には声を出さない。雷が地中にあるのは、陽が再び生じたばかり、まだ微かな時。至日とは冬至の日。新しい陽気が回復する、一陽来復の時である。安静にしてこの微陽を養ってやらねばならない。そこで古代の聖王は、陽の始めて生ずる冬至の日に、関所を閉ざして、行商人旅人を行かせないようにし、君主の四方の巡視をとりやめさせる。天道において安静を要求する時であるから、人間界でもそれに応じて、安静を保とうとするのである。古代中国では四季の推移に応じて、季節感覚に合致した政策の決定、君主の坐臥が要求され、人と天との動きが適合しないと天災が起こるという信仰が普遍的であった。
『礼記』月令がちりょうは、毎月の天象と、それに合った行事を細かく規定する。それによれば、十一月、君主は斎戒し、身を隠蔽して、陰陽の気の定まるのを待つという。安静に、という点でこの象伝の規定とひとしい。

初九。不遠復。无祗悔。元吉。 象曰。不遠之復。以脩身也。

初九は、遠からずして復る。悔にいたるなし。元いに吉。
象に曰く、遠からざるの復ることは、以て身をおさめんとなり。

祇はせきと同じ。適は「ゆく」で、至るの意味になる。地雷復は「善にかえる道」について説かれた卦である。初九は、一陽来復の卦の、その一陽。復卦の成卦主爻である。卦の一番初めにおる。ということは物事一番初めにおること。坤地に一陽を生じてこの卦を成したのは、いわば不善の中に己れを失った(純陰)が、速やかに善の道へ立ち返ってきたもの(一陽来復)に喩える。されば、過失があっても、大きくならぬうちに、善に復りうる。それで遠からずして復るという。
繋辞伝に「顔氏の子(顔回)、それ殆んど庶幾ちかいかな。不善あれば、未だ嘗てかつ知らずんばあらず。これを知れば、未だ嘗て復た行なわず」というのは、この爻についである。このような態度であれば、悔いに至ることもなく、大善(=元)であり、吉である。占ってこの爻が出れば、早く過ちを改め、身を痛めよ。悔いに至らず、大吉。

六二。休復。吉。 象曰。休復之吉。以下仁也。

六二は、かえる。吉なり。
象に曰く、休復きゅうふくの吉なるは、じんくだるを以てなり。

休は美、六二は柔順(陰爻)で中正(二は内卦の中、陰爻陰位で正)、初九のすぐ上におるが、初九の仁徳に感激してこれにへりくだる(象伝)。善に復る道の美しさを得ている。占う人、このように善人に従えば吉である。

六三。頻復。厲无咎。 象曰。頻復之厲。義无咎也。

六三は、しきりに復る。あやうけれど咎なし。
象に曰く、頻復ひんぷくあやうきも、義において咎なきなり。

六三は内卦の「中」を過ぎ、陰爻で陽位におる。「不中」「不正」。内卦の一番上におる。は動だから、動きの極点にある。復の時にあって、善に復ろうとする心に変わりなくとも、自ら下って導きを乞うべき比爻もなく、また自分の力だけでは、陰をもって陽に居る不正の爻なので力が足りない。そのため復っては離れ、離れては復るというように、不安定である。
復るについても態度一定せず、しばしば過失を犯しては、その都度、善に復る。そこで頻復という。しばしば失敗するから厲いけれど、その都度復るならば、道義上咎はない(象伝)。この爻が出たら、失敗はしばしばあって危ういが、そのたび改めれば、咎はないであろう。

六四。中行獨復。 象曰。中行獨復。以從道也。

六四は、中行独ちゅうこうひとり復る。
象に曰く、中行独り復る、道に従うを以てなり。

行の字、もと十字路の象形、道である。中行は中途と同じ。
六四は群陰のなかにおりながら、独り成卦主爻初九と「応」じている。悪い仲間と一緒に往く途中で、ひとりだけ引き返して善道に従う(象伝)。中行独り復るというゆえんである。
復の時は、陽気が甚だ微かであるから、何かをしようとするには不十分な環境である。故に吉とはいわない。道理としてこうしなければならぬ、というとき、吉凶は論外なのである。漢の董仲舒とうちゅうじょが「仁人はその義を正して、その利を謀らず。その道を明らかにして、その功を計らず」というが、剝六三と復六四に於て、それが見られる。

六五。敦復。无悔。 象曰。敦復无悔。中以自考也。

六五は、復るにあつし、悔なし。
象に曰く、復るに敦し、悔なきは、ちゅう以て自らせばなり。

敦は厚い。そのことに熟していること。六五は外卦の「中」、外卦☷は順の徳がある。つまり六五は中庸と柔順の徳を有する。それでもって尊位におり、復の時に当たる。
地沢臨『敦く臨む』、艮為山『艮まるに敦し』、そして『復るに敦し』といえば、復の道によく通じ、逸脱せずに善の道へ復ることである。善に復る心の篤い者である。かようであれば当然悔いはない。象伝の意味は、「中」の道をもって自分を完成することをいう。考は成である。

上六。迷復。凶。有災眚。用行師。終有大敗。以其國君。凶。至于十年不克征。 象曰。迷復之凶。反君道也。

上六は、復に迷う。凶なり。災眚さいせいあり。用ていくさる、ついに大敗することあり。その国君こくくんおよぶ、凶なり。十年に至るまでせいするあたわず。
象に曰く、迷復めいふくの凶なるは、君の道にそむけばなり。

眚は妖祥ようしょう、災が外から来るのに対し、内より発する。以其国君の以は、及と同じ。
上六は陰爻、気弱い性格でもって復の時の最後におる。復に迷うとは、道に迷うわけでなく、踏み外したことを自覚しつつ元に戻ることを迷うこと。最後まで迷って善に復らないことを意味する。どうやったら元に戻れるか帰りの道さえ分からなくなってしまっている。凶なのは当然である。道を踏み外したら自戒して速やかに復るべきである。復に迷えば永遠に道に戻れなくなると易は警告する。
『用いて師を行れば』とは、この爻が変ずると山雷頤となり、両軍が対峙する象となるからである。
占ってこの爻が出れば、災害やあやかしがあろう。このような邪徒が、たとえ国君の力を借りて戦いを行っても勝ち得るものない。これでもって軍隊を動かせば、最後に大敗するであろうし、その累は国君に及んで、凶である。十年たっても敵を征伐することはできないであろう。国君は諸侯、五の天子よりは下。

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