23.山地剝(さんちはく)【易経六十四卦】

易経
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山地剝(剥落・浸蝕/山が崩れて平地となる)

deprivation:剥奪/falling apart:ばらばらになること
万事進むべからず、時を待つべし。
崩壊寸前、足元を固め、隠忍自重英気を養うべし。

致飾然後亨則盡矣。故受之以剥。剥者剥也。
飾りを致して然る後亨るときは尽く。故にこれを受くるに剥を以てす。剥とは剥するなり。
文飾を極めれば、うわべばかりで、実質が衰え尽きるようになる。尽きるという意味での卦が続く。十分に飾りを調えその後に事がうまく運ばれるようになるが、修飾が盛んになり過ぎるとそのものの実質を失って必ず行き詰まってしまう。

奪うよりむしろ奪われる方に廻らねばならない時で、財をなくしたり、仕事に失敗したり、恋人を奪われたり、夫や妻に逃げられたり、失意の果てに病気になったり、いろいろ面白くない事が発生したりする。
運気は極めて悪く、何事も思うように行かない。今はじっと我慢の時で損害を最小限に食い止め、流れの変わるときを待つべきだ。
運勢下降の極限に近いのがこの卦で、季節でいえば晩秋、人生でいえば晩年であるから、もはや活動の終わるとき、すべて終焉するときだから無理はできない。
だから隠忍自重すべきなのであるが、しかし年が明ければまた新しい春がくるのだから決して悲観することはない。
現在は動いてはいけないということで、それくらいの辛抱は当然しなければならぬ。
[嶋謙州]

賁は至れるものですが、一度間違えるとやぶれます。そこで賁の次にこの剥の卦をおいております。この卦は、陰が上昇してわずかに上に一陽が残っておる顛覆崩壊の危を示す卦であります。剥落と申しますと、ご破算を意味し、もうこうなりますと出直しであります。次の復であります。
[安岡正篤]

剝。不利有攸往。

剥は、往くところあるに利あらず。

剝とは刀で削るという字、剥落の意味である。
山地剥は、坤下・艮上で構成され、坤は地、艮は山。どちらも土に属し、その質は同じだが「ありかた」が違っている。地は平らで、山は高い。平地の上に山が屹立している象である。初爻から五爻までは、土の層。上爻の一陽が、山頂である。
空とを区切るいただきの一線は、永久不変の姿ではなく、雨風の作用を受け、目には見えないほど少しずつ少しづつ、段々と山肌が剥ぎおとされているのである。天地自然の一つの理。このような象から、山地剥と名づけられた。
山地剝は、人では老衰の境にある象で、日にすれば夕暮れ、四季にすれば秋から冬へ移り変わる時に当たる。剥は『追剥』のように、追い迫りむしり取ること。削り取る、奪うとも通じており、相手かまわず強引に取り去ることで甚だ良からぬ言葉である。
この卦は陰の勢いが強く、陽を剥ぎ尽くしていくのだから、善悪や大小から言えば、陰悪なもの、小なるものが、陽善の大なるものの力を消してゆく。
『悪盛んなれば天に勝つ』の標本のような標本みたいな卦で、君子を主にして見れば追い剥がされることになるから、時に利のないのを知って後退し、気運の転換を待たなくてはならない。
下のほうに陰が成長して五つにもなり、残る一陽が今にも剥ぎ落され、尽きようとしている。消息卦の一つ。九月に当たる。陰が盛んになり陽の衰える時、つまり小人が栄え君子が困窮する時。内卦は坤、順である。外卦は艮、止まる。つまり順って止まる意味がある。このような小人増長の時には君子たる者、この卦を得れば、時の運に順って、言語を慎み能力を隠し、積極的に行動してはならない。往くところあるに利あらずとは、その意味である。

彖曰。剝。剝也。柔變剛也。不利有攸往。小人長也。順而止之。觀象也。君子尚消息盈虚。天行也。

彖に曰く、剥は剥なり。じゅう剛を変ずるなり。往くところあるに利あらざるは、小人ちょうずるなり。順にしてこれに止まる、象を観ればなり。君子は消息盈虚しょうそくえいきょを尚ぶ。天の行なり。

剝は剝なりとは同一字による卦名の解釈。卦名の剝は剥落の意味である。柔(=陰)が進んで陽を浸蝕し、剛(=陽)を柔に変えてしまう意味である。卦辞に、往くところあるに利あらずというのは、小人(=陰)の勢いが伸長している時だから、君子は動かないがよいということ。君子は、往くことの不利を知り、時勢に順応して止まるが、それは剝卦の内外卦の象を観察してのことである。
消息盈虚とは、消えてはまた息吹き、満ちてはまた虚しくなること。朝は夜になり、夜はまた朝になるように、陰陽二つの気が入れ代わり立ち代わり変化することをいう。君子は、ものには必ず消長、盈ち虧けの理があることを、大切に胸におさめて行動する。それが天の道に沿った生き方である。

象曰。山附於地剝。上以厚下安宅。

象に曰く、山地に附けるは剥なり。かみ以てしもを厚くしたくやすんず。

宅は家でなく、宅地、自分のいるべき場所、それから身を置く場所の意味になる。この卦は山が地にべったりと附いている。山は本来、地上高くそびえているべきもの、それが地にくっついているのは、山の土が剥削されたのである。それで剝と名づける。
人の上に立つ者はこの卦の意味を汲んで、下々の生を厚くし、信頼を深める必要がある。そうすれば、自分の部下や、国であれば国民を、しっかりと安定させることができる。そうすることで自分の地位を安泰にする。大体、社会の上の層が剥落せずに安泰でおれるのは、下の層が厚ければこそである。基盤が安定していなければ、地位は保てず、必ず組織は崩れてしまう。

初六。剝牀以足。蔑貞凶。 象曰。剝牀以足。以滅下也。

初六は、しょうを剥するに足にをおよぶ。ていないがしろにす。凶。
象に曰く、牀を剥するに足に以ぶ、下より滅すを以てなり。

牀は四本脚のついた安心して横になれる寝台、身を置くところ。以は、及びの意味がある。以足は、足に及ぶ、足までの意味。陰が陽を剥するのは下から起こる。
一陽五陰の山地剥は、平地に山のある象だが、この画象の日常に該当するものは人間の安心・不安がもっとも関係が深い寝床の象で説いてある。
初六はその剝の始まり、土台はすでに浸蝕され、寝ている牀も足まで剥落してしまった。蔑は、滅と同じ滅ぼす事。『貞を蔑ろにす、凶』~邪が正を滅ぼそうとしているが故に凶。占ってこの爻を得れば、正しい人にとっての凶である。

六二。剥牀以辨。蔑貞凶。 象曰。剥牀以辨。未有與也。

六二は、牀を剥するにべんに以ぶ。貞を蔑ろにす。凶。
象に曰く、牀を剥するに弁に以ぶ、いまだ与あらざるなり。

弁は寝台の足のついている胴体の部分。六二になると剝落はいよいよ上に及んで、寝台の本体まで落した。邪が正をほろぼすことも甚だしくなった。この爻が出たら、ますます凶。ただ、陰の側も、まだ仲間があまりいないので、さほど強くはない(象伝)。

六三。剝之。无咎。 象曰。剝之无咎。失上下也。

六三は、これを剥す。咎なし。
象に曰く、これを剥す咎なきは、上下を失えばなり。

剥卦は、五陰が上爻を剥尽するという意味で名づけられたものだが剝卦のなかで「応」のあるのは六三と上九だけである。初から五までの陰は、いま揃って陽を剥落しようとしている、しかるに六三だけは、正応にあたる上九を剥すに忍びなく、体裁よく逃げて陰謀に加担しないのである。陰の仲間からわが身を剥ぎとって、上の陽に「応」じ、君子の道に従う(陽は君子)。かくてこそ咎なきを得るであろう。
象伝の上下を失うとは、六三がひとり正道を守って、上下の陰類との交際を絶つこと。初六は牀を剥すに足を狙い、六二は弁を狙ったが、六三は徒党から離れて手を出さない。だから上下の四陰を仲間と見て、仲間を失うとしている。
剥の五陰が一陽を剥尽して行こうとする時、この六三のみはその仲間の中にあっても、一陽のほうへ志を向け、他と行動を共にしない。いわば小人中の君子であり、咎なきを得るのである。
占ってこの爻が出たら、悪い仲間との交わりを絶ち、君子と結託せよ。そうすれば咎はない。

六四。剝牀以膚。凶。 象曰。剝牀以膚。切近災也。

六四は、牀を剥してはだえおよぶ。凶。
象に曰く、牀を剥して膚に以ぶ、切に災い近づけり。

六四になると陰の災禍は身に切に近づく(象伝)。内外卦をもって牀上・牀下を区別すれば、外卦にあるこの四爻は、もう膚の触れているところである。寝台は足も本体もすべて剝落して、わが身の皮膚まで剝落しようとしている。災い身に迫る故に、邪正の論はしている暇がない。だから六四の爻辞は、初、二の爻辞と異なり、蔑貞凶とはいわず、直ちに凶と断ずる。

六五。貫魚。以宮人寵。无不利。 象曰。以宮人寵。終无尤也。

六五は、貫魚かんぎょのごとく、宮人きゅうじんひきいてちょうせらる。利あらざるなし。
象に曰く、宮人を以いて寵せらる、終にとがめなきなり。

貫魚は魚の目刺し。六五の爻辞は、五陰中、ただひとつ剥と言わず『魚を貫く』とある。魚は陰の物である。その魚が、たくさん(五陰)重なって目刺し串刺しのように、連なって刺された魚のこと。宮人は後宮の妻妾。以は率と同じ。六五は五つの陰爻の最上位におる。五陰は宮人たち、六五はその長、后である。陰は陽に従うべきもの、六五の后は宮人たちを統率して上九の陽の寵愛を受けようとする。
礼によれば、后は満月の夜、王の枕席に侍り、満月の前は、御妻、世婦、嬪、夫人と身分の低い者から、満月後は身分の高い者から順序に、王の寵愛を受けさせる。妻妾たちの毎夕順次に進御するさま、目刺しの魚の連なるさまに似ている。されば、貫魚のごとく、宮人を以て寵せらるという。占ってこの爻を得るもの、小人どもの頭であったとしても、かれらを率いて、善に従うならば、最後には咎はない(象伝)。故に、利あらざるなしと判断する。

上九。碩果不食。君子得輿。小人剝廬。 象曰。君子得輿。民所載也。小人剝廬。終不可用也。

上九は、おおいなるこのみにしてくらわれず。君子は輿、小人ははくす。
象に曰く、君子は輿を得、民のするところなり。小人は廬を剥す、終に用うるべからざるなり。

碩は大。碩果は、大きく実った果実。廬はいおり、卦形がいおりに似て、上又はその屋根に当たる。ここに至って陽はほとんど剥落し尽くして、上九の一だけがまだ残っている。碩きな果実が一つ食われずに残っている象。
山地剥の卦は小人がはびこり、君子が追い落とされるような非道な時代を表すが、そんな混乱した中にあって、大いなる果実は食い尽くされずに残っている。一度地に落ちるが、それによって芽が生じ、また発展するのである。
上九が陰に変わったら陽すべて亡ぶように思うのは誤りで、すぐに陽が下に発生して復になる。坤は陽がないではないかといわれるかも知れないが、陽は坤に於ても発生しかけている。ただ目に見える形にまでなっていないだけである。とにかく剥上九は陰の極盛、乱の極まる時、民は太平の復帰を思う。有徳者の出現を心待ちにしている。されば有徳の君子が上の位置におれば、下の五陰すなわち民衆に喜んでかつぎあげられる(象伝)。それが君子は輿を得である。
もし小人が上の位におれば、小人の属性は陰である。上九は忽ち陰となり、剝落は窮極にまで至る。すなわち身をおおうべき、わが家の屋根(上九を指す)まで剥がれて、せっかくの碩きい果もなくなるであろう。
上九に残っていた君子の果実が、失われず再び正しい世を盛り返してくると、今度は一変して小人は消え去らねばならなくなる。『小人はを剥す』は、小人が居場所を失うことである。正義が栄える世となれば、世論も生気を吹き返し、小人を追放することとなるのである。
一つ残る碩果というイメージは共通で、そこから引き出される占断は、占者が君子であるか小人であるかによってちがう。ここに作者の深意が見られるであろう。象伝の意味、君子なら民に推戴され、政治的に有用の地位につきうるが、小人ならわが身の置き場所もないので何の役にも立たない。

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