22.山火賁(さんかひ)【易経六十四卦】

易経
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山火賁(装飾/頽廃美・秋の夕日)

decoration:装飾/elegance:優雅,上品
外面華やかなれど、内容貧弱なり。
山下の火は遠くを照らさず。自己の充実を図るべし。

物不可以苟合而已。故受之以賁。賁者飾也。
物は以ていやしくも合うのみなるべからず。故にこれを受くるに賁を以てす。賁とは飾るなり。

ものが嗑うためには賁りがなければならぬからだという。例えば人が集まれば礼儀の飾りが必要になり、物質が凝集するのに必ず秩序と文様があるようなものである。
ただ単に合同するということだけで済むものではなく、必ず飾り立てて美しく調えるということが必要である。ただし表面を取り繕って上辺だけを飾るような虚飾ではいけない。

夕暮れ時で明るさに乏しく、遠くまで見通すことができないような時。したがって、まず大きなことをする時ではない。とかく外見にとらわれ、体裁にこだわる時なので、見たて損ないのないようその内面にこそ目を向けることが大切。メッキがはがれたら目もあてられなかった、ということにならないように内容を充実させよう。
身辺に不正な事や偽り、ごまかし等が発生している怖れがあるが、表面的にはそれが見えず、適当にカムフラージュされている時。無論運気は弱いから、ややもすればそれらのとばっちりを被りがちで、ここは一番慎重に事態を眺め解決策を考えねばならぬ。
事を荒立てて自分が先頭に立てばもろにやっつけられることにもなりかねないから、充分間合いを取り、頼りになる助っ人を得てから行動すること。とにかく、すべて進むことや出向くことは避けて、運気の変わる時まで自重して待つことが肝要。家の中を飾ったり、芸術的なことをするにはよい意味がある。
[嶋謙州]

難問題を処理して、賁の卦にいたります。
賁はあや、かざるという意味がありまして、臨と結びつけて【賁臨ひりん】という言葉がある。
これは臨席のもう一つ上の、その人が臨席してくれることによって光る、輝く、一座に光彩を添えるというときに使います。
だから、よほど偉い人に使う言葉であります。ご賁臨を仰ぎますというように使いますが、自分が賁臨するなどといったらこれは大きな誤りであります。
賁の字は、また「やぶれる」「失敗する」という意味もありまして、りっしんべんをつけますと憤るという字です。
物事を叩き壊すというような怒り方を憤りといいます。だから腹を立てて死ぬことを怒死といわないで、憤死という。
その賁の一番至れるものを白賁はくひといいまして、あや、かざりの究極は白であります。素であります。自分自身でとってくっつけたものは駄目であります。
[安岡正篤]

賁。亨。小利有攸往。

賁は、亨る。小しく往くところあるに利あり。

賁は、貝を意符、卉を音符とする字(キとヒはもと同音)、貝のかがやくさま。飾るの意味。
この卦は、噬嗑を反対にした形。内卦が離、明であり、外卦が艮、止まるである。文明の制度によって各々その分際に止まる、これは人間の集団生活に必要な飾りである。それで賁と名づける。
卦変でいえば、賁は損の六三と九二が入れかわった形であり、また既済の上六と九五が入れかわった形でもある。いずれにしても、入れかわるというのは、柔が下りて来てもとの剛爻を飾り、剛爻が上って往ってもとの柔を飾るのである。その点でも賁と名づけられる。
賁るというのは、ある生地に粧いを施すようなことある。
それは例えば、同じ食べ物であっても、汚い器より、綺麗な器(高級な器)で食べたほうが美味しく感じられるのが人間の性向であるから、賁ることも又必要なわけである。
体裁をととのえ、潤いを添えておくことは、人間が真実を愛するとともに、美をも欲する限り怠ってはならないことなのである。だから賁は亨ると示されている。
しかし、内容を誤魔化すために表面を飾るのではない。価値をより効果的にするために粧うことである。上辺だけを取り繕って誤魔化すのは虚飾であり、賁ではない。
判断辞として亨るというのも、卦の形が変じて通ずるからである。損の六三が降りて来て九二と入れかわれば損の内卦☱は変じて☲明になる。こうなれば思うことであろう。
小しく往くところあるに利ありというのは何故か。既済の九五が昇って往って、上六と入れかわるとき、既済の外卦止になる。外に止めがあるから、大きくは往けない。そもそも賁すなわち文飾というものが、美しいものではあるが、所詮は実質に対するアクセサリーでしかないからである。占ってこのが出たら、願いごと通るけれど、大きな事に乗り出してはいけない。

彖曰。賁亨。柔來而文剛。故亨。分剛上而文柔。故小利有攸往。天文也。文明以止。人文也。觀乎天文。以察時變。觀乎人文。以化成天下。

彖に曰く、賁は亨る、柔来たりて剛をかざる。故に亨る。剛を分かちてのぼって柔を文る、故に小しく往くところあるに利あり。天文なり。文明以て止まるは、人文じんぶんなり。天文を観て、以て時の変を察し、人文を観て、以て天下を化成す。

剛と柔が交わって飾りあうのは、自然の文様である。文明☲によって、各々の分に止まる☶のは、人間の文様である。自然の文様、たとえば日月星辰の配列を観ることによって、四季のうつりかわりを明らかにし、人間の文様、たとえば人倫の秩序を観察することによって、天下を教化し、風俗を完成する。これが賁るということの偉大なところである。

象曰。山下有火賁。君子以明庶政。无敢折獄。

彖に曰く、山の下に火あるは賁なり。君子以て庶政しょせいを明らかにし、敢えて獄をさだむることなし。

庶は諸と同じ。獄を折むは訴訟を裁断すること。賁の卦は山の下に火がある。火の明るさも山に遮ぎられて遠くに及ばない。君子はこの卦に象どって、小さなもろもろの政務を明弁するけれども、訴訟を裁くというような、大きいことは、しようとしない。
内卦は明だから、庶政を明らかにすといい、外卦は止だから、敢て折獄することなしという。

初九。賁其趾。舎車而徒。 象曰。舍車而徒。義弗乘也。

初九は、そのあしを賁る。車を舎ててかちよりす。
象に曰く、車を舎てて徒よりす、義において乗らざるなり。

趾は足首より下の部分。徒は徒歩。
賁はすべて、賁ることの終始軽重をもって辞がかけられている。
初九は剛毅の徳あり(陽爻)、賢明で(下卦☲は明)、最下位に甘んじて、自分の行ないを美しくしている。趾を賁る象がある。趾は人体の最下位、行くための器官、行くは行なうに通ずる。美しくすることは賁ることだからである。このような潔い人は、道ならぬ富貴よりは、むしろ貧賤に甘んずる。きらびやかな馬車を贈られても義として乗らない。車を捨てて、心安らかに徒歩で行く。車といい、徒歩というのは、趾にかかわる語である。占ってこのを得た人は、このように生きるべきである。

六二。賁其須。 象曰。賁其須。與上興也。

六二は、そのひげを賁る。
象に曰く、その須を賁る、かみおこるなり。

須は鬚の本字。顎に生えている鬚。鬚として自らを賁っている。
賁るとは、他から新たに持ってきて付けることではなく、自分に元からそなわっているものを体裁づけ潤い添えていくことである。
賁の三から上までを見ると
頤に似て、おとがいの形がある。六二はおとがいのすぐ下、須にあたる。
二は陰で「中正」(内卦の中、陰爻陰位)、三は陽剛で「正」陽爻陽位)しかしどちらも上に「応」がない(二と五はともに陰、三と上はともに陽だから)そこで六二はすぐ上の九三にくっついてともに動く(象伝)
九三はの下の部分、下顎。須は下顎の飾り、下顎とともに動くものである。そこで、その須を賁るという。
須は口の下に付いてこそ賁りとなるが、口元から離れてしまえば単なる薄汚い毛片に過ぎない。そのように、賁はその本体があってこそ光るのである。
鬚は、顎にくっついて顎の動きに合わせて上下するだけだから、自分の意思で自由に動くことはない。故にこの六二というのは、能力が乏しいゆえ、強くて才能豊かな者に付き従うことにより道を完成させる者なのである。
占ってこのを得た人は、身近い上位の実力者に従って行動するがよい。

九三。賁如濡如。永貞吉。 象曰。永貞之吉。終莫之陵也。

九三は、賁如ひじょたり濡如じゅんじょたり。永貞なれば吉。
象に曰く、永貞の吉なるは、終にこれをしのぐなければなり。

如は然と同じ。貴如は飾りあるさま、濡如は濡れたように光沢のあること。陵は悔と同じ。九三は内卦離の極である。六二、六四の二陰の間におり、二陰に飾られて、きらきら(賁如)つやつや(濡如)している。しかし二も四も、三の正当の「応」ではない。三としては、居心地が良いからといって、溺れてはならない。そこで作者は占者に警告を発する。身の飾りというものは、とかくはかないもの、いつまでも正道を守って飾りに惑わぬようにせよ。そうすれば、人に侮られることもなく(象伝)、吉を得るであろう。

六四。賁如皤如。白馬翰如。匪寇婚媾。 象曰。六四。當位疑也。匪寇婚媾。終无尤也。

六四は、賁如たるもの皤如はじょたり。白馬翰如かんじょたり。あだするにあらず婚媾こんこうせんとす。
象に曰く、六四は、位に当ること疑わしきなり。寇するにあらず婚媾せんとす、終にとがめなきなり。

幡如、もと老人の髪の白いさま、ここでは飾りのない白さ。まだ染めていない生地の白さを(質素/生まれながらに具えている資質)を表す。
翰如、翰は鳥の羽、飛ぶように速い。象伝の尤(古音はイ)は咎と同じ意味。
六四と初九とは、正当の「応」である。当然初九と通って互いに賁りあうべきところ、あいにく九三のために隔てられて行けない。初九によってきらびやかに賁られる筈のわが身は(=賁如)、まだ白々として何の飾りもない(=幡如)
しかし、六四はどうしても、正当の配偶の初九に会いたい。白い馬に跨がって飛ぶように馳せつけようとする。乗り手の身が白のままで飾りがないから、馬までが白いのである。しかし九三は剛毅(陽爻)心正しい(陽爻陽位)六四の行く手に立ち塞がるのも、理不尽な攻撃をしかけようとしてではなかった。六四と結婚したいと思ってである。そもそも六四がそのような目に遇うのは、正当の配偶初九と遠く離れて、九三の陽と接近した、まぎらわしい位置にあったためである(象伝)。しかし六四が操を守り、九三の結婚申込みを受け入れなければ、最後には憂いもなくなるであろう(象伝)
占ってこの爻を得た人は、たとえ身を飾るものが得られずとも節操を貫け。一時妨害はあっても、ついに咎はないであろう。

六五。賁于丘園。束帛戔戔。吝。終吉。 象曰。六五之吉。有喜也。

六五は、丘園きゅうえんに賁る。束帛戔戔そくはくきんきんたり。吝なるも終には吉。
象に曰く、六五の吉なるは、喜びあるなり。

丘園は丘と畠、質素な場所をいう。丘園に賁るとは、農耕をする丘や農園を開拓し、種をまき、植苗すること、自然が与えた土地に自然が与えた物を培い賁ってゆくこと。
束は謝礼であり、帛は神様へのお供え、束帛は五匹束ねた絹。戔戔は軽少の意味、水の少ないのが浅貝(むかしの貨幣)の少ないことが賤(やすい)、金の軽少なのが銭。
束帛戔戔とは、進物に使う絹の織物を少しにして倹約すること。ケチと非難されても文飾過分にならず実質重視。
六五は柔順(陰爻)、外卦の「中」を得て、卦の主となっている。およそ礼は、外のかたちよりも中の心、虚飾よりも実質が大切で、その点で、「中」にある六五は、賁りの本質を得ている。ちょうど人目につく都会を賁らず、丘や園のような実質的な場所を賁るようなもの(=賁于丘園)
しかし六五は陰。陰の性質は女に代表されるように、吝嗇である。そこで六五の君の行なう礼は、とかく粗末に過ぎる。一束の絹がちょぼちょぼと積まれているばかり(=束帛戔戔)これでは羞ずかしい(=吝)
しかし礼は奢るよりは寧ろ倹約なのがよいので、最後には吉を得るであろう。このが出たら、虚飾よりも実質を取るがよい。吝嗇の譏りはあってもついには吉。

上九。白賁。无咎。 象曰。白賁无咎。上得志也。

上九は、白く賁る。咎なし。
象に曰く、白く賁る咎なきは、かみにして志しをればなり。

山火賁の卦は『賁る道』について説かれた卦であるが、この上九は、賁りをすべて取り払い、全く装飾がまったくない状態。自然体のまま本質へ還る。賁りが全くないことを賁りとするようであれば咎められる過失もない。
上九は外卦艮の主爻。六五は丘だったがこれは山の上、賁りの卦の極点にある。すべて賁りは行きづまりになるともとの無色に返るものである。文化文飾は都のものだから山の上に賁りとすべきものはない。それで賁るべき物のないことをもって、自分の賁りとする。そこで白く賁るという。
例えていえば、学もあり徳もある悟った人が、浮世の栄辱に心を用いることなく楚々と生きて行く、そこにはいささかの衒いもないように、賁らないことが、かえって立派な賁りになるようなものである。
人間界の賁りである礼法が、文(かざり)の極に達すると、やがてまた質朴に帰るのもこれである。
初九は具えている趾を動かして賁り、六五は天から与えられた自然を賁り、上九は何もないところを賁りとしている。もの極まれば変ずる理によって、卦の極まるところに賁が無飾に変ずることを示したのである。
上九は賁りの空しさを悟って生地にもどったので咎はない。占ってこの爻を得た人、虚賁を去って本来の自己に返れ。そうすれば答なし。
象伝、上にして志しを得とは、上は局外者の位置である。上九はここにおり、この世の虚賁を捨てて、悠然と自得している。それが『志しを得』である。

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