18.山風蠱(さんぷうこ)【易経六十四卦】

易経
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山風蠱(腐敗・腐敗を建直す事業/先代の弊害を是正する)

improvement:改善/arresting decay:腐敗の阻止
内部に問題あり。腐敗せるところあり。
迅速果敢に改革すべし。

以喜隨人者必有事。故受之以蠱。蠱者事也。
喜びを以て人に随う者は必ず事あり。故にこれを受くるに蠱を以てす。蠱とは事なり。
喜び楽しんで人に従う泰平なときは安楽に流れその結果、内部に腐敗と混乱が進行し必ずいろいろなことが起こる。しかし絶望することはない。これを機に内部に巣食う病根を徹底的に摘出することだ。腐敗と混乱のときは、同時に革新、新生の時代でもある。


現状のままでは維持できず、何らかの対策か改良を加えねばならないとき。
内部に不正や疑惑、三角関係が見られるが、それらは表面に出ず、外観はすこぶる平穏で何事もない様相を呈している。放っておけば事態は益々悪くなり禍根を深めることになるから、ここは思い切って憎まれても嫌われてもいいから躊躇せず荒療治をしなければならぬ。
運勢は無論下り坂で面白くないが、しかし運勢が弱いからといって、ただ手をこまねいて引っ込み思案になってはいけない。どんとぶつかって積極的に善処に踏み切って見よう。
そのままで流れに逆らわず現況を固執して行けば最悪の状態になることは火を見るよりも明らかだら、この卦では必ず改善の為、力を注ぐことを忘れないように。
[嶋謙州]

蠱は木皿に虫がくっついておるという字で、腐敗、壊乱を意味します。厄介な障害を排除して進まなければならぬことを教えております。
[安岡正篤]

蠱。元亨。利渉大川。先甲三日。後甲三日。

蠱は、元いに亨る。大川を渉るに利あり。甲に先だつこと三日、甲に後るること三日。

澤雷随を反対にしたのが山風蠱である。
序伝に「喜びを以て人に随う者は必ず事あり、故にこれ(随卦)を受くるに蠱を以てす」とある。豫→隨→蠱と配される所以である。
蠱はただの事の意味ではない。蠱の字は皿の上に蟲が乗っている。食物が腐り切って蟲がわいている形。
内卦は巽で風、外卦は艮で山。風は流通振作の性質がある。風は空気を移動させ、あらゆるものに清新な感触を与えていく働きがあるが、この卦においては、艮の山の麓に押しとどめられ吹きぬけることができない。それにより、空気を濁らせ、湿気をよび、カビを生えさせたり、物を腐敗にさせたり、ついにはウジの湧くような状態にまで至らせる。
平和に馴れ、楽しみに泥み、向上進取の気力を失ったため、更新されない空気の中に色々な弊毒が生じたのが蠱弊なのである。だから、このまま放任しておいてはならず何とか正していかなくてはならない。腐敗し秩序が崩壊したあと、何事かのアクションを起さねばならない。
序卦伝は、喜んで人に随っていれば、安逸に溺れ、腐敗に至り、事を起さねばならなくなるというのである。壊れ切ってしまえばまた必ず治まるのが自然の道理であるから、占断としては、元いに亨るという。また大崩壊のときこそ、大きな冒険をするのにふさわしい。されば、大川を渉るに利ありと判断する。

先甲三日、後甲三日が難解であるが、朱子の『本義』に従って解釈する。
甲は十干(甲乙丙丁戊己庚辛壬癸)の始め。ひいて事の発端を意味する。甲の日に先だつこと三日ならば辛の日である。辛は新に通ずる。自新である。甲の三日あとは丁。丁は丁寧の意味を含む。で、甲に先だつこと三日は、前の物事が盛り過ぎて、崩壊しそうになったら、自分の気持ちを新たにして、その時点をば、後の物事の発端と考えて努力すること。そうすれば大崩壊には至らない。
甲に後るること三日とは、後の物事が始まったばかりのときに、一層丁寧に反復して見て、前の物事の失敗をくり返さぬように気をつけること。こうすれば簡単に崩壊には至らない。聖人の深い戒めである。
甲は十干の初めだから、腐敗を一掃するはじめの時と解釈してもよい。腐敗を改めるには、まず原因を探り熟考し解決のための準備をし、決行後の将来を見据えながら事態収拾までの手順を丁寧に踏まなければならない。腐敗は一朝一夕に起こったのではない。正すには相当の時間と遠大な計画が必要なのである。
そして各爻も、旧弊是正の意味を見ている。
『蠱は元いに亨る』とあるが、蠱は蠱のままで亨るわけではない。蠱の状態にあるものは、その弊毒を更新し大いに打開の道を打ち立てることが先ず主題とならなくてはならない。
占ってこの卦が出れば、崩壊のことがあろう。志ある者の願いの大いに通る時、冒険をしてよろしい。心を新たにし、丁寧に反復して行なうべきである。

彖曰。蠱。剛上而柔下。巽而止蠱。蠱元亨。而天下治也。利渉大川。往有事也。先甲三日。後甲三日。終則有始。天行也。

彖に曰く、蠱は、剛かみにして柔しもなり。そんにして止まるは蠱なり。蠱は元いに亨りて、天下治まる。大川を渉るに利あり、往きて事あるなり。甲に先だつこと三日、甲に後るること三日、終れば始あり、天行てんこうなり。

蠱の卦、艮が上にあり、巽が下にある。艮は陽卦だから剛、巽は陰だから柔剛が上におり柔が下におる。上下交わらないので、天下はやがて乱れる。それで蠱と名づける。また剛上而柔下は、剛上って柔下るとも読める。つまり卦変でいえば、蠱は、賁の初九が二に上り、六二が初に下った形、または井の九五が上って上六が下った形、あるいは既済の初九と六二、九五と上六が、それぞれ入れかわった形である。いずれの卦から変化して蠱になるにせよ、剛爻が上り、柔爻が下る。君が升り臣が降ったのでは、君臣疏隔する結果となる。上下卦の徳について見れば、下卦巽は従う、上卦艮は止まるの徳がある。下のものが卑屈に従うばかりで、上のものがよいかげんなところに止まっていては、国はやがて腐敗する。そこでと蠱と名づける。しかし腐敗は、それ自体に大きく通る可能性を包蔵しているので、やがては天下治まるであろう。大川を渉るに利ありとは、天下壊乱のときこそ、邁進して事を為すがよいということ。
甲に先だつこと三日、甲に後るること三日は、前の物事の終わるときは次ぎの物事が始まるとき、壊乱が終わるときは太平の始まるときだということ。これが天の動きである。

象曰。山下有風蠱。君子以振民育徳。

象に曰く、山の下に風あるは蠱なり。君子以て民をにぎわし徳をやしなう。

物みな壊れるときは、そのままにもしておけない。何とか事を起こさねばならぬ。それでこの卦をことと名づける。君子はこの卦に法とって、民を救い、自己の徳を養う。振は振恤しんじゅつ、貨財によって人民を救済する意味。君子のなすべき事として、この二つより大きなものはない。これこそ人を治め、己れを治める道である。

初六。幹父之蠱。有子考无咎。厲終吉。 象曰。幹父之蠱。意承考也

初六は、父のことかんたり。子あればちち咎なし。あやぶめばついに吉。
象に曰く、父の蠱に幹たり、意考こころちちくるなり。

蠱は前の人が壊してしまった事の残り。だから、各爻とも父や母に言及する。本人ではなく先人が作った「やぶれ」を受け継いだ者が、繕い治めていくということを主眼としている。幹たり、根幹から転じて、中心となってつかさどる。腐敗を取り除き、一掃し、正す。先代の作ったやぶれの責務を負うという意味と、そのやぶれを正すという意味とがある。考は亡父だけでなく、古くは生きている父にも用いる。
初六は蠱の卦の始まりである。崩壊はさほど根深くないので、教済の事もしやすい。初六はこつこつと前人の壊敗のあとを治めようとしている。子が父の蠱をとりしきる象がある。父の時代以来の腐敗を子が正す。子の代で腐敗を正す。先代の仕事を受け継ぎ、革新する。このような良い子があれば、崩れかけた家業は立ち直って、その父の過失も消えるであろう。そこで判断として、子あれば考咎なしという。つまり、良い助力者があれば、問う人の身は安泰という占断。しかし崩壊しかけたものを起こすのであるから、危険ではある。そこで作者はさらに占者を戒める。事の危険性を自覚して戒慎してこそ、最後に吉を得るであろう(=厲終吉)。象伝の意味は、その子の意図は父の仕事を承けつぐというにある。

九二。幹母之蠱。不可貞。 象曰。幹母之蠱。得中道也

九二は、母のことに幹たり。ていにすべからず。
象に曰く、母の蠱に幹たり、中道を得るなり。

九二は陽剛、下卦の「中」を得ている。しっかりした子に似ている。そして上卦の六五に「応」じている。六五は陰、母に当たる。しっかりした子が母の失敗のあとをとりしきる母の蠱に幹たりのイメージが、ここに見られる。しかし剛直な子(九二陽爻)が柔弱な母(六五陰爻)の過失のあとをうけて、始末をつけようとする場合、真向から正義をふりかざしたのでは、親子の恩愛を傷つける。おだやかに諫めて、こちらの意見を入れさせるがよい(下卦は巽、巽は順、入の意味あり)。それで、貞にすべからず正義を固執してはいけないという。そのようなおだやかさが、中道を得ることである(象伝)。占ってこのを得た人、人の過失を救うのに、正面から責めてはいけない。

九三。幹父之蠱。小有悔。无大咎。 象曰。幹父之蠱。終无咎也

九三は、父の蠱に幹たり。すこしくくいあり、大なる咎なし。
象に曰く、父の蠱に幹たり、終に咎なきなり。

九三は剛が陽位におる。剛に過ぎる性格で、中庸を外れている(二が中である)。このような性格の子が父の失敗のあとをとりしきるのである。急進的で、一気呵成に事を遂げようとするところがあるので、どうしても、びしびしとやり過ぎるのでともすれば破綻、手ぬかりをしやすい。強硬に過ぎて、少しは悔いがあるのはやむを得ない。ただ、九三は巽の一部、巽は順うの徳がある。それに九三は「正」を得ている。親に対する柔順さと動機の正しさによって、結局、大きな咎はなくてすむであろう。

六四。裕父之蠱。往見吝。 象曰。裕父之蠱。往未得也

六四は、父のことゆるうす。往くときは吝を見る。
象に曰く、父の蠱を裕うす、往かんとしていまだ得ざるなり。

裕は寛容の意味。六四は柔が陰位におる。柔弱に過ぎて、事をなすに足りない。このような性格で、父の事業のあとを承けついだのでは、ただ先人の過失を寛大に見すごして、手を下さないことになろう。それでは崩壊は日に日に深くなる。かかる態度で進んで行けば、恥辱を受けることになろう(=往見吝)。進もうとしても進めないのである(象伝)。占ってこのを得れば、寛容に過ぎて、失敗することがあろう。

六五。幹父之蠱。用譽。 象曰。幹父。用譽。承以徳也。

六五は、父のことに幹たり、用て誉れあり。
象に曰く、父の蠱に幹たり、用て誉れあるは、承くるに徳を以てするなり。

六五は柔順の性質(陰)、上卦の「中」を得、尊位(五)におる。しかもこれに「応」ずる下卦の九二は、剛毅の徳(陽爻)をもって、自分のあとを承けついでくれる(象伝)。このような後ろ盾があって、父の遺業をとりしきるのである。結果として名声のたかまることは当然である。

上九。不事王侯。高尚其事。 象曰。不事王侯。志可則也。

上九は、王候につかえず、そのことを高尚にす。
象に曰く、王候に事えず、志しのっとるべきなり。

五までの爻辞すべて蠱の字を含んでいた。この爻辞にだけ蠱の字を欠く。その代りに事の字がある。蠱は事であるから。
上九は陽爻、剛毅の性である。上の位は無位の地である。蠱という卦の一番外にある、ということは事の外に恬然としていることである。つまり上九は剛毅の隠者、浮世の齷齪あくそく雲煙過眼うんえんかがん視している。もはや心が煩わされることはなく山上に孤高を持して身を退いているのである。そこで爻辞に、王侯につかえず、自分の生き方を高潔にするという。初めから仕えなかったのではなく、蠱を幹すことに努め功成り名を遂げ、その上に名利を願う気持ちはなく退いたものと解釈し、これにならい従うべきだと告げているのである。この文句は上九の状況の表象であるとともに、占断であり、戒めである。このが出たら仕えてはならない。

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