12.天地否(てんちひ)【易経六十四卦】

易経
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天地否(塞がる・暗黒時代/行き止まりの出口)

denial:否定/stagnation:沈滞,不振,不況,不景気
万事塞がりて通ぜず。隠忍自重すべし。
脚下照顧せよ、時機に至るをつべし。

物不可以終通。故受之以否。
物は以て終に通ずべからず。故にこれを受くるに否を以てす。
否は塞がって通じない。天の気と地の気は交わり調和することがない。気が交わることがなければ物事は塞がって通じない。
人間関係でいえば、上司の考えは部下に通ぜず、部下の考えは上司に通じない状態。これは上司と部下との間に生じた否である。

すべてが八方塞がりで、何事も思うようにならない時。前に進もうにも進めず、動けば失敗が目の前にありありと見えているときである。
運気は無論最低の状態で、沈滞ムードである。
現在は何の動きもなく、未だ始まったばかりのときともいえるし、子供でいうなら物心もついていないほんの幼子のような状態で、外に出て行動するには余りにも危なっかしく、凡そ独り立ちには程遠い状態といえよう。
しかし、決して将来がないという意味ではなく、流れに逆らわず、徐々に基礎を固めながら努力し勉強していけば、前途には必ず光明の見えるときがあるから、今駄目だからと云ってやっていることを投げ出したり、失意して止めてしまわないようしっかりと心に留置くことが大切。
[嶋謙州]

泰と逆であります。外は陽気で極めて活発に行動するけれども、内には大したエネルギーを持っておりませんかれらすぐ行き詰まる。
あるいは頭もよく、弁も立つ、しかし人間の内容に立ち入って調べてみると、能力のない見掛け倒しである、というのがこの否の卦の特徴であります。
否は否定、否決などを表します。
[安岡正篤]

否之匪人。不利君子貞。大往小來。

否の人にあらざる、君子の貞に利あらず。大往き小来る。

否の時、人々は平常時と違った異様な思考、行動様式に陥る。天下の大義が廃れ、小義(自己中心的な考え方)がまかり通る。小賢しい理屈をつけ私利私欲に走る者たち(人でなし・ろくでなし)が跋扈する世の中、閉塞した時代。それが否の時。

否という字は、口の上に不の字が乗っているので、訓読みは「ふさぐ」「いなむ」。口に蓋をして、開くのを許さないという意味。儀式の際、神に捧げる祝詞の容れ物の「口」に「不」、つまり蓋をして、天との交流を断絶するという字。
天地否は、地天泰とまったく反対の成り立ち。天地否の卦は閉塞の時代を表す。
泰は天と地がその気を交流させ安らかさを築き亨通を得る時だったが、否では、天はますます高く、地はいよいよ低くして、互いの隔たりが甚だしく、各々がその用をなさない、陰陽交わらず、人々は背き合い、何も生み出さず国も家庭も崩壊する。否塞される時である。まさしく暗黒時代。そういうことは人道の常ではない。そこで人に匪ずと形容する。泰は通じる、否は塞がるで、まったく対照的な卦だが、それぞれ独立した態勢にあるのではなく、元来一つの環の両極であって離すべからず、離れることのできない繋がりがある。すなわち泰と否は、天地生成の根幹なのである。

彖曰。否之匪人。不利君子貞。大往小來。則是天地不交而萬物不通也。上下不交而天下无邦也。内陰而外陽。内柔外剛。内小人而外君子。小人道長。君子道消也。

彖に曰く、否はこれ人にあらざる、君子の貞に利あらず、大往き小来る、即ちこれ天地交わらずして万物通ぜざるなり。上下交わらずして天下にくになきなり。内陰にして外陽なり、内柔にして外剛なり、内小人にして外君子なり。小人、道長みちちょうじ、君子、道消みちしょうするなり。

天地交わらず、陽陰の気が閉塞して万物が通じない。君と臣下の意志隔絶して天下治まらず、諸侯の国々が無きに等しい状態。この卦は、内側がすべて陰柔であり外側が陽剛である。これは政治で言えば朝廷の内部が小人ばかりになり、君子が朝廷の外部に駆逐されている形。つまり、小人が勢力を伸ばし、君子が日々後退する趨勢である。

象曰。天地不交否。君子以儉徳辟難。不可榮以祿。

象に曰く、天地交わらざるは否なり。君子以て徳をおさめ難をく。栄するにろくを以てすべからず。

倹はつつましくする、内におさめて出さない意味。辟は避と音義ともに同じ。天と地が相い交わらないのが否である。否は閉塞の意味。君子は、この閉塞の卦に象どって、自分の能力を内におさめて、外に現わさぬように努め、そうすることで小人どもの禍難を避ける。能力を隠しておれば、だれも禄位でもってこの人を華々しく飾り立てることはできないからである。否は小人の跋扈する時。君子が目立った地位にあれば、いかに正しいことでも、適当なる時機を得なければ、うまく行われないのであり、かえって悪い結果を来すことにもなる。必ず妬まれて害せられる。

初六。拔茅茹。以其彙。貞吉亨。 象曰。拔茅貞吉。志在君也。

初六は、茅を抜くに茹たり、そのたぐいともにす。貞なるときは吉にして亨る。
象に曰く、茅を抜く、貞なるときは吉、志し君にあるなり。

『茅を抜くに茹たり』は、泰の初爻でも出てきたが、茅という草は一本一本生えているのではなく、根は相当大きな株になっている。抜こうとすれば、ずるずると、隣りのまで一緒に抜けて来る。この卦、下に三つの陰が連なっている。『彙』というのは、二爻・三爻が共に陰で揃っているからである。
上下が否がるの時にあたり、小人が同類を語らって昇進を図るさまを象徴している。しかしこれは初爻である。悪に染まりかけてはいるが、外に現われるほど悪くなっていない。そこで作者は戒めていう、貞なるときは吉にして亨る。つまり心を正しくいれかえれば、小人も君子に変わり得るので、凶なるべき運命も吉となり、開けるであろう。象伝の意味は、小人が君子に変われば、君を愛することを念願とするようになるであろう。

『貞なるときは吉にして亨る』という爻辞は君子の側から解したもので、君子にとって初爻の時なのだから、否中の否の始めに当たる。
この爻は陽位に陰でいる。否の時にあって、正しい道が行われるの泰を招こうと努力するより、泰の時が自然に巡ってくるのを同志の者とそろって待つのが良いと言うのである。貞吉は、積極的に物事を解決しようと努力するのではなく、貞しい道を密かに守って吉を得るのである。今、みだりに動けば、危難にあうことは言うまでもない。
初爻は世に未だ顕れ用いられてない叢中の君子、あるいは否運を巡らせて泰を来たそうとする君子の努め初めの時。否の時には上に立つ者も難儀しているので、この初爻も、それを思って徳を慎ましくし身を守れば亨るわけである。

六二。包承。小人吉。大人否亨。 象曰。大人否亨。不亂羣也。

六二は、包承ほうしょうす。小人は吉。大人は否にして亨る。
象に曰く、大人は否にして亨るとは、ぐんに乱れざるなり。

包承は、包容し承順する意味。否は閉塞。

この六二は、素直だが力が弱い者である。そこへ、包容してくれる優れた者がやってくるので、それに包み込まれて救われる。六二自身が強く優れた者なら、現在不如意だからといって安易に包容され流されるのでは己の道を曲げることになるから、あえて包容されるのを拒むことで、道が守れるのだ。
初六は否の始めだったが、六二は否中の否の最たるものである。
このような時に処するのが包承である。包み込まれて、その中で従ってゆくということ。じたばたせずに流れにまかせる。自身の意見や考えがあっても外部に表さず、胸に秘め、時の勢いに従って行く。
この否の時にあって小人であればその勢いに良く順応できるから、吉を得られる。これが大人であれば、今は君子の道の消ずる時であるから塞がって通じない。
だから、時運に逆らって無闇に動いたりせず、大人もまた否の時に順応するよう自らを包承し、亨通の時が来るのを待つ。つきまとう小人の群れに心乱されることなく、また事を荒立てて小人の群れを乱さない。乱さないから危害を加えられることなく、時が来るのを待つことができるのである。

六三。包羞。 象曰。包羞。位不當也。

六三は、包羞ほうしゅうす。
象に曰く、包羞す、位当らざればなり。

包羞は羞を包む、悪事を企てながらも心中に羞恥を感じていること。六三は陰で陽位におる。つまり「不正」(位当たらず)である。また「不中」である(二でない)。六二がまだ君子に従っていたのに比べて、これは全くの小人である。しかも上の君子(陽爻)に身近い。小人が、善人を傷つけようという陰謀を抱きながら、まだ実行に踏み切れず、心中に羞じている。凶といわないのは、まだ実行には至っていないからである。

この六三は才能に乏しく、また志も正しくない者である。内卦坤の極におり、否の世にあって陽位に陰でいるので、否を打開して泰通を得ようとするには志が弱く、気ばかりが焦っても力不足の爻である。このような者がいるから『塞がって通じない』天地否の卦の状態が生まれるのだ。力がないのに保身のため上の者に媚びへつらい、自分の地位を守って(包容して)もらっているのである。そのような行為は、恥ずべきことだ。

九四。有命无咎。疇離祉。 象曰。有命无咎。志行也。

九四は、命ありて咎なし。疇祉たぐいさいわいにく。
象に曰く、命ありて咎なし、志し行わるるなり。

命は天命。疇は類と同じ仲間の意味。離は『離騒』の離と同じく、罹る、附く。四になれば六爻の半ばを過ぎた。否がるの時も半ばを過ぎれば、道の開ける曙光は見え始めている。九四は陽剛、世の否がりを払うべき、有為の材ではある。しかし陰位におる。ということは、陽位におる陽爻ほどに剛毅敢為ごうきかんいではない。そこで九四がその世を救う志を実行しうるためには、条件がある。命ありて咎なし――運命が味方してくれて、はじめて行ない得るのである。そこでこの爻の占断としては、然るべき運命にめぐりあえば、志を行なっても、咎はない、ということになる。
その際は、志を同じくするなかま(四五上の三陽爻)そろって福にありつくであろう(=疇離祉)。

九五。休否。大人吉。其亡其亡。繋于苞桑。 象曰。大人之吉位正當也。

九五は、否を休む。大人たいじん吉なり。それ亡びなんそれ亡びなんといいて、苞桑ほうそうかかれり。
象に曰く、大人の吉なるは、位正に当たればなり。

休は休息。否を休すとは、否運を停止すること。苞桑の苞は樹木の叢生していること。苞桑は、桑の根がむらがってこぶのようになったもの。
九五は剛健中正、主卦の主爻である。それで否を休ませる、停止させるので大人は吉なのだ。しかし、否の時が既に終わったというのではなく、転換前の小休止なので、心を緩めればいつ否中の否に陥るか分からない。天下無法の乱世は人災である。混乱が収束し始めても油断すれば甚だ危険。また小人がはびこり、再び困難に陥る。したがって、事態が完全収拾するまで安堵せず、この時ばかりはポジティブシンキングなどかなぐり捨て「亡びるかもしれないぞ、亡びるかもしれないぞ」と、リスク管理を徹底し深く警戒することだ。桑の根は地中深く張っている。その株にものを繋ぎ止めるように、行動を堅固にせねばならぬ。

上九。傾否先否後喜。 象曰。否終則傾何可長也。

上九は、かたむく。さきにはふさがりのちには喜ぶ。
象に曰く、否終えんとすれば傾く、なんぞちょうかるべけんや。

闇の中に光が差し始め先が見えて来た。苦しみ転じて喜びとなる時。

上九は否の卦の終わりであり、天地否の卦が変じて泰平の世となる。
物極まれば必ず復るのが自然の理法である。否が終われば傾く、いつまでも否が続くわけはない。

 

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