11.地天泰(ちてんたい)【易経六十四卦】

易経
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地天泰(通ずる・泰平の時/対立物の統一)

peace:平和/harmony:調和
目下極点にあり。現状を守るべし。
油断大敵。足るを知るべし。

履而泰然後安。故受之以泰。泰者通也。
履みて泰、然る後に安し。故にこれを受くるに泰を以てす。泰とは通ずるなり。
礼節が行われゆったりと落ち着いて、その後に初めて安らかになる。
泰とは通ずること。人間関係でいえば自分と相手の考えが互いに通ずること。

この卦がでたら平和ムードがいっぱいあふれている時と思えばよい。
危険なことや、いちかばちかの事は極力避けるべきときとも云える。
運勢は上々で、これ以上の時はないが、盛んなれば衰えの兆しの見えることをも考えねばならない。
物事は今のうちにやりたいことはやって片付けて終わっていたほうがよい。
後に厄介ごとを残したり、手遅れにならないよう充分注意すること。
しかし平和なときだから人の援助も得られ、万事がスムーズに行く可能性は多分にある。
人生の栄枯盛衰は自然の成り行きから云ってもやむを得ないものだから、我々は常に「治に居て乱を忘れず」の心構えで日々生活していくと共に些細なことでも等閑にしない慎重な心掛けを常々養うべきである。
[嶋謙州]

泰の卦は、外が陰で内が陽であります。たとえばこれを生理機能で申しますと、内に活発な健康力を持っておって、外の表現は控えめである。あるいは才能に富み、満々たる迫力を持っておるけれども、一向にそんなことは外へ表さずおだやかに保っていく姿、これが泰であります。
[安岡正篤]

泰。小往大來。吉亨。

泰は、小往しょうゆ大来だいきたる。吉にして亨る。

履の次ぎが泰である。序卦伝に、履むことがよろしきを得れば通る。泰は通であると。この卦、天が下に降り、地が上に昇っている。不都合なようであるが、実は、かくてこそ天地が交わり、陰陽の気が通ずる。通ずるという点で泰と名づける。
小往き来るの解釈、朱子は二説を挙げている。小が陰、大が陽を示すことは二説共通である。
第一の説は、上卦坤を小とし、下卦乾を大とし、往外へ往っている、来は内に来ている意味だという解釈。つまりが外卦におることが小往が内にあることを大来といったと解するのである。程氏はこれと同じ。
第二説はいわゆる卦変によるもの。この卦は帰妹から来た。帰妹の六三が四の位に往き、九四が三の位に来れば泰になる。帰妹六三は陰だから小、九四は陽爻だから大という、と。
『泰』の訓読みは「やすし」「やすらか」である。泰平、安泰、「平か」「通ず」また衣食住の安らかさの意味もある。しかし、泰は、乱世から治世に変った時でもある代わりに、乱れ始めの時とも言えるのだから今泰平の時を得ても、それが極って否の時がくることもまた知らなければならない。

彖曰。泰。小往大來。吉亨。則是天地交而萬物通也。上下交而其志同也。内陽而外陰。内健而外順。内君子而外小人。君子道長。小人道消也。

彖に曰く、泰は、小往き大来る。吉にして亨る。即ちこれ天地交わって万物通ずるなり。上下交わってその志し同じきなり。内陽にして外陰なり。内健にして外順なり。内君子にして外小人なり。君子、道長じ、小人、道消するなり。

天の気と地の気が交わり地上に万物が生まれ、上下が交わり意志疎通する。天地交わる、上下交わるとは、陰陽が交わること。陰陽交わらなければ、この世に何ものも生じることはない。男と女が交わって子供が生まれれ、会社組織であれば、経営者と部下の志が一つになり事業が成り立っていく。

世の中の秩序や経済がよりよく保たれている時は、人徳を備えた人物が重要な位置に就きその力を発揮する。私利私欲の小人は遠ざけられ、人々は段々と徳を身につけるよう感化される。世の中が乱れている時は、小人どもが重要な位置を占めているものだ。

と地が交わって万物がその生を遂げることであり、人間でいえば君主(=天)と臣下(=地)が交わってその気持ちが相通ずることである。この卦は陽が内にやってきて、陰が外へ往く形である。一人の人間についていえば、内心がたけく、外面はおとなしい。君子の性格を表す。また君子が内にあり、小人が外におるかたちでもある。それというのが、この卦は、から、そしてと、陽がうちからだんだん伸長してきて、陰を外へ駆逐してしまうことで、この形になったのである。君子においては日に日にその道が伸び、小人にあっては、日々その勢いがちぢまることをいう。

象曰。天地交泰。后以裁成天地之道。輔相天地之宜。以左右民。

象に曰く、天地交わるは泰なり。きみ以て天地の道を裁成さいせいし、天地の輔相ほしょうし、以て民を左右す。

裁成(財成)は余っているものを減らし、輔相は足らないものを補う。左右すとは、つまり余分を減らし不足を補い民を左右両面から助けること。古代、王の主たる務めは裁成(財成)と輔相であった。すぐれた王は、天下の経済、物資などを裁成(財成)し輔相して民を助け生活を安定させることに努めた。これを正しく行うことで泰平の世が保たれたのである。これは現代においても政治の根本である。

后は元后の后、君主。裁成はもと布地を裁って着物を作る。宜は義と通ずる。補相の相もたすける。左右はたすくと訓ずる。この卦は天と地が交わるかたちである。天地交わり陰陽和すれば万物の生命通暢する故に泰(=通)と名づける。君主はこの万物通泰の象に法とって、天地の道を裁成し、天地の義をたすけ、それによって人民を扶け養う。天地の道を裁成するとは、自然界のなかには整然たる秩序があり、それがすなわち人間のモラルにもなるのであるが、凡人は現象の煩雑さに目を奪われて判然としない。そこで聖王は、あたかも大きい反物から必要部分を切りぬいて着物を作るように、天地の道を抽出して見せてくれる。天地の宜を輔相すとは、天地の化育を賛けること。聖王が自然界にない文明の利器を作ることもそれである(『本義』、『語類』七〇)

初九。拔茅茹。以其彙。征吉。 象曰。拔茅征吉。志在外也。

初九は、ちがやを抜くにじょたり、そのたぐいともにす。征きて吉なり。
象に曰く、茅を抜く、征きて吉なりとは、こころざそとに在るなり。

泰の爻辞、卦名の泰の字を含まず、総体に難解である。茹は引きあい連なるさま。彙は類。以は与と同じ。初九は陽で最下位、つまり剛毅賢明にして野に在る君子である。君子は乱世ならば隠れているが、今や上下の通ずる時、当然昇進をこころざす。
けれども君子が進む場合、自分だけの利益は考えない。必ず朋友とともに手をつないで、一緒に昇進することに努める。下卦の三つの陽爻がその連なって進む朋党である。茅を抜こうとすれば、根がつながっていて、一本だけ引き抜くことはできない(=抜茅茹)。その同類と一緒につながって抜ける(=以其彙)。この茅はまさに右の友情を象徴する。かように結束して進むことは当然吉を招く。占ってこの爻を得た人、陽剛の性格ならば、前進して、吉を得るであろう(=征吉)。象伝の外は上と同じ。

『茹たり』とは、互いに連なっているという意味で、ここでは茅を抜く時いくつもの多くの根で、株と株とがくっついていることを言う。茅の一本の茎をつかんで引っ張ると、根がたくさん付いてくる。彙というのは同類という意味。
この初爻は、内卦の三陽爻のひとつなので、この爻だけ抜き取ろうとしても連なって同類の二爻、三爻も抜けてくることを表現したものである。

九二。包荒。用馮河。不遐遺。朋亡。得尚于中行。 象曰。包荒得尚于中行。以光大也。

九二は、荒をね、馮河ひょうかを用い、とおききをわすれず、朋亡ともうしなう。中行ちゅうこうかなうを得たり。
象に曰く、荒を包ね、中行に尚うを得るは、光大こうだいなるを以てなり。

荒は凄まじい亡骸、荒れはてた汚いもの。そんな荒れた人心など包み難いものまで抱擁する度量が『仁』。危険な川を徒歩で渡るほどの勇気と決断力が『勇』。遐きを遺れずとは、遠く五十年百年先の将来にまで深く思いを置く、これが『知』である。泰平の世をが実現するためには、知・仁・勇の三徳が必要である。

荒は荒野。包は包み込むこと。馮河は、暴虎馮河(虎をてうちにし河をかちわたる)の馮河。徒歩で大川を渡るといった意味だが、もっと元気のある果敢な渡り方である。退は遠。遺は忘。『遐遺せず』とは、遥か遠い所も忘れないといった意味。中行は中道。
さて九二は剛をもって柔の位におる。つまり内心剛毅果断で外には寛大ということ。そこで外に対しては荒を包ねる~穢いものでも包容するが、時としては大河を徒歩で渡るような思い切った策を用いる。泰平の時はとかく因循姑息に陥るからである。九二はまた下卦の「中」におり、上にむかっては六五と「応」じている(二と五は陽と陰でひきあう)。その徳は泰の主人たるにふさわしい。上に「応」があることは、遠くの者、たとえば巷の賢者をも忘れないで招く~遐きを遺れぬことにもなる。さりとて政治の衝に当たったうえは、私情に惹かれてはならないので、朋党の誼みをも絶ち切らねばならぬこともある。朋亡うことになってもやむを得ない。これらの態度はすべて中道(=中行)にかなったものといえよう。九二が内卦の「中」であることがそれを裏書きしている。もし占ってこの爻を得た場合、その人が寛容、果断、遠きを忘れず、しかも私情に流れないならば、この爻がもつ中道にかなって、吉を得るであろう。象伝に包荒から、すぐ中行に尚うを得につないでいるのは、省略したので、今までにも例がある。光大なるを以てなり、その徳が広大だからである。

九三。无平不陂。无往不復。艱貞无咎。勿恤其孚。于食有福。 象曰。无往不復。天地際也。

九三は、平らかにしてかたむかずということなく、往きて復らずということなし。艱貞かんていなれば咎なし。うれうるなかれ、それ孚あり。食においさいわいあり。
象に曰く、往くものにして復らざるはなしとは、天地のまじわるなり。

平らなものは必ず傾き、去ったはずの閉塞の時代は必ず復ってくる。
何事も平穏な状態は続かず、必ず変化が起こります。過去にあった閉塞的な時代が再び訪れることもあるでしょう。平和な時代には、人々は安易な考えで常に安定が続くと思いがちです。しかし、怠惰や無警戒、危機管理能力の欠如が、平和を崩壊させる可能性があります。
時代は絶え間なく変化し、一時的なものは何もありません。確固たる安定は存在せず、人々の心も社会も、時代とともに変化していきますが、毎日緊張感を持って努力すれば、平穏を長く維持することができます。『恤うるなかれ、それ孚あり』とは、泰平な世はいずれ傾くとはいえ、不用意に不安や憂いを抱く必要はなく、健全なる危機感を持っておればよいという教えです。

陂くは、傾く。この三爻は位置からして、『泰』より『否』に少々傾きかけたところで、「栄枯は移る」の世の習いを如実に示した爻である。
平らなものはすべて傾くのが常道で、往ったものはいつか帰ってくるのが当然である。
天の時は必定なのだから、心を砕き力を致し、正しいところを固く守っていかなくてはならない。これが艱貞、そのようにすれば咎がない。
食は、日蝕・月蝕の蝕。『食に于て福あり』(欠けた中にも、衰えの中にも、福がある)
このように否運に向かいつつある苦難の中でも貞を守っていたなら否運の中でも福を見出すことができる。

艱貞は艱難のうちに貞を守ること。孚は約束したとおりのこと。九三は、「中」を過ぎて、三陽の一番上にある。泰の極盛期である。宇宙の事はすべて循環であり、盛りのあとは必ず下降する。泰(=通)が極まれば必ず塞がる時(否卦)が来る。今がその切点にあたる。そこで易経の作者はこの象徴的な警告を発する。およそ平らかなままで傾かずにいるものがあるか。安泰の時はいつまでも続きはしない。往ったままで帰って来ないものがあろうか。去ったかに見えた陰も必ず帰って来る。しかしこれが天理の必然だと悟って、艱難のうちに貞しい道を守っていれば、咎はない。心配しなくても、約束したものはそのまま得られるであろう(=勿恤其孚)。食禄において福があるであろう(=于食有福)。大体、善を積めば、禄おのずから至るからである。この爻の占断としては、艱難のうちに正を守れば、咎なくして福があるということ。

六四。翩翩不富。以其鄰。不戒以孚。 象曰。翩翩不富。皆失實也。不戒以孚。中心願也。

六四は、翩翩へんぺんとして富まず、そのとなりともにす。戒めずして以て孚あり。
象に曰く、翩翩として富まず、みなじつを失すればなり。戒めずして以て孚あるは、中心ちゅうしん願えばなり。

翩翩、鳥や蝶が身軽く飛ぶさま。孚は信、約束をたがえない。六四はすでに泰の半ばを過ぎてしまった。泰の時はすでに極まった。そこで上に昇っていた陰は、ここにばたばたと飛び降って、もとの場所に帰ろうとする(=翩翩)。その際、六四の隣人たち、六五、上六も同じ気持なので、この二人の隣人をともなって飛び下る(=以其鄰)。大体同類の人がついて来るのは、自分の富に心ひかれてであるが、この場合は、同類のもの、志が自分と同じなので、自分に富はないけれども喜んでついて来る(=不富)。警告を発したわけでもないのに(=不戒)、約束通りに集まってついて来る(=以孚)。衷心から願っていた故にこそである(象伝)。占断としては、小人が結束して正道を害することがあるから、気をつけなければいけない。象伝に実を失すというのは、本来下にあるべき陰が上にあるから実を失すという。なお『易経』のなかで「富まず」という表現があれば、それは陰爻を指す。陰爻はまんなかが空虚だからである。

『翩翩』は、烏がひらひらと舞い降りる様子を表現した言葉です。泰平の世が乱れることを察知した上位の者は、自分の能力不足を認めて下位の賢者に教えを請うのです。
安定した世の中に傾きが見え始めたとき、実力のない者が上位にあぐらをかくと、社会は急速に傾き、対処する手段がなくなってしまいます。そうしたときは、個人のプライドを捨て、誠実な心で下位の賢者の助けを求めることが必要です。

六五。帝乙歸妹。以祉元吉。 象曰。以祉元吉。中以行願也。

六五は、帝乙妹ていいついもととつがしむ。さいわいを以てす元吉。
象に曰く、祉いを以てす元吉とは、ちゅうにして以て願いを行うなり。

この爻は『泰中の否』と言うよりも、人の世の状態(ありすがた)を主とし乙という帝のある出来事をもって説いている。
乙というのは殷の紂王の父で、その王が自分の妹を有能な家来に嫁がせて泰平の世を長く続けようと計った。(別の観点では泰の世なればこそ、そのような慶事が行われる)

帝乙帰妹の四字は、帰妹卦六五にも見える。殷の天子で乙の号のつく人は多い。乙は十干のきのとの日、殷の天子は誕生日の干支を名のるからである。
帰は嫁ぐ。六五は陰で尊位におる。泰卦の主である。この爻は柔中陰で中位)。ということはこれを虚しくすること(陰は虚、中は心)。この天子は己れを虚しくして下の九二の剛に「応」じている(五と二は陰と陽だから)。つまり天子が末娘を、下の有力な家来に嫁がせる象がある。吉なることは当然である。朱子はいう、むかし帝乙が実際に妹を嫁がせるとき、占って出たのがこの爻であったろう。すべて経文に固有名詞の出て来る場合、例えば「箕子きし明夷めいやぶる」(明夷六五)とか「高宗こうそう鬼方きほうを伐つ」(既済九三)とかいうのは、実際にその人がその事を占って出た卦なのである、と(ただし清の王夫之は『周易稗疏しゅうえきはいそ』のなかで殷の易と周易とは違っているから、朱子の説は成立しないという)。とにかく帝乙は妹娘を嫁がせてその結果はよかった。占ってこの爻を得た人も、己れを虚しくして下の有能者に任せれば、さいわいあって(=以祉)、しかも大吉(=元吉)である。象伝の中以て願いを行なうは、六五が「中」道をふみ「剛中」の九二に任せることによって、自分の理想を実行に移すこと。

上六。城復于隍。勿用師。自邑告命。貞吝。 象曰。城復于隍。其命亂也。

上六は、城ほりに復る。いくさもちうるなかれ。ゆうより命を告ぐ。貞なれども吝。
象に曰く、城隍に復る、その命乱るるなり。

上六は泰が極まって否がる時。平かなものもついには陂き、往ったものは必ず復る。隍の土を積みあげて築いた城も、崩れて、もとの隍に復る。このようなときに、武力を用いて頽勢(たいせい)を一気に挽回しようとしてはならない(=勿用師)。滅亡を早めるだけである。邑より命を告ぐ~邑は私邑、君主が何も命令しないので、見かねた国元のほうから、逆にああしなさい、こうしなさいと命令して来る。こういう消極的態度がこの際とるべき貞しい態度であるとはいえ、人の君としては差ずかしい(=吝)ことである。この爻が出たときの占断、力で運命に対抗しようとしてはいけない。自分を守るだけに努めるがよい。だが、正道を守っても、恥を免れることはできない。
象伝の意味は、国を治める命令が乱れているから、城が崩れて隍に復る、つまり泰平がまた否塞にもどるのだ、ということ。

『城隍に復る』とは、高々と築かれていたものが一朝にして低いものになってしまった。隍は、空堀のようにまだ少しは水が残っているような状態ではなく、すでに土が盛られて平地に近くい状態。城とは城壁、それが崩れて堀を埋めてしまったのである。
『師を用うる勿れ』とは、時流の変改、人力では支えきれない大きな勢いで城が隍になるという時だから、兵を出してもどうにもならない現実を正視しているのである。
『邑より命を告ぐ』の邑とは、村々のこと。
泰の時が極り尽きて乱世となり、城は崩れ兵は萎え、君の威命がまったく行われなくなるので、他の強豪から様々命令が発せられるというわけである。
もうこうなってはどうしようもない。時運が既に否であるから、窮通の道を探すしかない。

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