10.天澤履(てんたくり)【易経六十四卦】

易経
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天澤履(足でふむ・履み行う/虎の尾を踏む危険・女子裸身の象)

courtesy:礼儀/treading carefully:踏むことに注意深く
一歩一歩を堅実に、誠意を持って進むべし。自己を省みよ。
多少の危険あるとも、実力者、長上の指導を仰げば望みは叶うべし。

物畜然後有禮。故受之以履。履者禮也。
物畜えられて然る後に礼有り。故にこれを受くるに履を以てす。履とは礼なり。
大きい者の後を履んで小さい者がついていく形。それは困難であり危険なことだが、目上の者や経験者の言葉に謙虚に従い着実に進んでいけば必ず目的を達することができるだろう。


精神的に不安定になったり物事に恐怖心を持ったり、劣等感が出たり、はらはらさせらりたりするとき。運勢はさほど悪くはないが、そうかと云って手放しで喜んだりは出来ない。
うっかりすると、どじを踏んだり、恥をかいたりすることもあるので日頃の行動には絶えず自分自身で慎重に注意していくように。
特に目上や先輩に対する礼儀には心を配り、失礼や義理を欠いたりすることのないようにしたいもの。相手に接するときはくれぐれも相手を立てることとエチケットを忘れないようにすること。行動を起こすときは無計画なものでない限り礼儀を重んじて実行すれば、この卦の時は成功することが多く、頼りになる人も得られることが多い。
[嶋謙州]


いよいよ成長して高等学校、大学を卒え、世の中に出て、社会生活、人間生活、人格生活、道徳生活を始めます。これが履であります。ところが社会生活というものはいろいろと秩序、階層などがありますから、幼少の頃から蓄え修めた徳を、よく発揮しなければなりません。履は「ふむ」でありますから、先輩や友人の意見に従って進むことが大切です。
[安岡正篤]

履虎尾。不咥人。亨。

虎の尾をむ、人をくらわず、亨る。

「履」は草履の履で「踏む・履む」という意味がある。何を踏むかというと「礼を履む」。分外の大業を為すという自覚があれば、力のある人(虎)に頭を下げ、謙虚に物事を学ぼうとする。その姿勢を貫けば、困難や危険を乗り越えていけるということである。

前の小畜を上下反対にするとこの形になる。序卦伝には、もの畜(あつ)まれば礼がなければならね。だから履の卦が小畜に続く、という。序卦伝は履を礼と解するわけである。礼と履は同音(li)、礼は人の履行すべきものだから、礼を履と訓ずること、普通ではあるが、易の卦辞辞では、ただの履むである。
この卦は下が兌、上が乾。兌には沢とか説ぶ、和らぐの意がある。
は剛ばかりなので、最も剛強なるものの象徴。は剛強ののすぐ後ろにおる、虎の尾を履む象である。ただしは☱和らげ悦ばす徳があるから、虎に噛まれずにすむ。そこで卦名を履むとし、思うこと亨ると占断の辞を下す。繋辞伝によれば、易の興るのは、周の文王が暴君のもとに苦しんだ時に当たる。されば易の卦辞は危機感に満ちるという。この卦のイメージはまさにそれである(『周易折中』)。この卦を得た人、和らいだ態度で危機に対処すれば傷つかずにすむ。

乾は天で上にありその在るべき所に在る。兌は沢で低いことが恒常の位置である。居るべきところに正しく居って取るべきところを正しく取る。君は君のように、臣は臣のように、上下尊卑の分をわきまえ正しくする。それが礼儀というものである。人が必ずわきまえて履み行わなくてはならない。それが礼儀である。内卦は少女(兌)弱々しくおとなしい。外卦は健やかで強く逞しい。強靭で速く歩く行く者(乾)のうしろを、力の弱い者(兌)がついて履んでゆく。逆なら易しいがこのシチュエーションは並の辛さではない。だからこれを行き難い象と見る。「言うは易く行うは難し」が礼であるという意味にもとれる。
強い人と一緒に行こうとするのは大変な努力をしなくてはならない。
そういう困難に臨んでも、常に和やかで温かい使命に殉ずるという悦びの心(兌)で励んでいくならば、高い地位にある者(乾)から決して危害を加えられることはない。これが『虎の尾を履む。人を咥わず。亨る』の境地である。

彖曰。履。柔履剛也。説而應乎乾。是以履虎尾。不咥人。亨。剛中正。履帝位而不疚。光明也。

彖に曰く、履は、柔剛を履むなり。説んで乾に応ず。ここを以て虎の尾を履む、人を咥わず、亨る。剛、中正にして、帝位を履んでやましからず、光明なり。

彖伝によると、履という卦は、兌という柔らかいものが、乾という強い卦に踏まれている形である。しかも、兌には喜ぶという意味があり、喜んで上の乾に応じている。そういうへりくだった態度あるから、虎の尾を踏むような危険を冒しながら、噛まれることはなく、願いごとはとおる。この卦の主体は九五であり、君主の位。九五が剛であり、上半分の真ん中に位置し、陽爻で陽位にいる。つまり、この君主は中庸と正義を得ている。皇帝の位を踏みながら、内心その位に対して恥じることがない。その徳が光り輝いているからである。

象曰。上天下澤履。君子以辯上下。定民志。

象に曰く、上に天あり下に沢あるは履なり。君子以て上下をわかち、民のこころざしを定む。

履の卦は、上に☰天があり、下に☱沢がある。天が上におり、沢が下におるのは、天下の正理である。人の履み行なうこともこのようであるべきで、さればこの卦形に履と名づけた。君子はこの卦の形を見て、上下の分際をはっきりとわけ、それでもって民の心を安定させる。むかしは上下の階級が判然としており、公卿、大夫、士は徳に応じて位を与えられ、農、工、商、賈は身分に応じた富に限定されていた。かくてこそ民の志は安定し、天下は治まる。後世、士以上の者は徳なくして位を欲し、農工商賈は不相応の富を志す。これでは志定まらず、天下の乱れるのは当然である。(程氏による)

初九。素履。往无咎。 象曰。素履之往。獨行願也。

初九は、つねに履む。往けば咎なし。
象に曰く、素履そりの往くは、独り願いを行うなり。

各爻は、それぞれ皆、履み進んで行くことを観て辞をかけてある。
素履の素は、素朴や素質のもとである。生まれたままのように天然で飾り気ないこと。素履というのは、持って生まれたままの性質でもって履み行うことである。
初爻は、陽でもって陽位にいるが比爻も応爻もないから、迎えられることもなく、助けもない。ただ独り、その素質なり力なりを伸ばして行くことを第一にして履み進んでいく。それを素履と言う。また、初爻は事の初め、履むことの初め、いわば礼儀の覚え始め、仕えたばかりの段階にあるから素履と言う。まだ富貴の誘惑に心を動かされないで、平素履み行っていた道に従っている。
その志望し履行することにおいて、他の介添えも受けず独り素質才能を伸ばしていく。
※象伝の独りはひとえの意味。

九二。履道坦坦。幽人貞吉。 象曰。幽人貞吉。中不自亂也。

九二は、道を履む坦坦たんたんたり。幽人なれば貞にして吉。
象に曰く、幽人なれば貞にして吉とは、中自うちみずから乱れざればなり。

初九は素履であったが、九二はすでに坦々と道を履んでいる。(坦坦は平らな障害のないさま)
九二は剛であり、中を得(二は内卦の中)下位にあって、上に応がない(五も陽であるから)。人に当てはめれば剛毅で中庸の道を履み、野に在って、君主に背を向けているようなもの。それで爻辞は、坦々と道を履む幽人(山の中に隠棲している人)のイメージを描いた。世から離れ重用されずにいるのだが、自らに剛中の徳があるので、鬱憤を晴らすこともないし偏屈になって周囲を困らせたりもしない。苦難を苦難として甘受し常に淡々とで道を履んで行く。
それゆえ、ここでの吉は物質的な富ではなく精神的な安らかさを主としたもの見る。
※『中自うちみずから乱れざればなり』の中は、『心の中』という意味。

六三。眇能視。跛能履。履虎尾。咥人。凶。武人爲于大君。 象曰。眇能視。不足以有明也。跛能履。不足以與行也。咥人之凶。位不當也。武人爲于大君。志剛也。

六三は、すがめにしてあしなえにして履む。虎の尾を履む。人をくらう。凶。武人大君たいくんとなる。
象に曰く、眇にして視る、以て明あるに足らざるなり。跛にして履む、以てともに行くに足らざるなり。人を咥うの凶は、くらい当らざればなり。武人大君となるは、こころざし剛なればなり。

洞察力も推進力も未熟なのに、自分に力があると慢心し、怖いものなしで危険な道を無謀にも進んで行く。結果、思いっきり虎の尾を踏んでしまいガブリとやられてしまう。凶である。武人が大君になるほどの無理がある。「虎」とは先達の喩え。「武人」は力と野心があり一旦は地位と名誉を勝ち得るが、謙虚な気持ちがなく、礼節を弁えないために虎に喰われ、やがて身を破滅させる。

この爻は『礼を履めば咥われない』に反する爻で、爻辞にも『咥う』とある。
眇は人並みの視力をもたないという意味。跛は、片足の悪いこと。
六三は「不中」(二が中)、「不正」(陰陽位)、その体は柔弱(陰)なくせに、気だけ剛い(陽位)。このような身でもって、上の最も剛強な乾の尻尾を履もうとする。逆にに傷害せられること必然である。そこで爻辞は次のユーモラスなイメージを示す。身のほどを知らぬは人の常、すがめでありながらつくづくと見ようとし、びっこでありながら履もうとする。そのような足つきで虎の尾を履めば、たちまち喰らわれるであろう。占ってこの爻が出れば凶である(以上、朱子)。
また六三は陰爻。陰は、情は柔く性は残忍だから、武人に当てられる。凶と断じたあとに、武人大君となるといったのは、六三が、ついには敗れるのだが、不逞の志を抱いて叛乱を企てるであろうことを、支配者に対して特に戒めたのである(清の王夫之による)。象伝、明は目のよく見えること。位当たらずは、陰陽位にあること。

九四。履虎尾。愬愬終吉。 象曰。愬愬終吉。志行也。

九四は、虎の尾を履む。愬愬さくさくついに吉なり。
象に曰く、愬愬ついに吉なるは、志し行わるるなり。

愬々は恐れ慎むさま。九四もまた「不中」(五でない)、「不正」(陽爻陰位)の身をもって、九五の虎(剛爻)の尾を履もうとする。当然噛まれそうなものだが、前の六三が柔を以て剛におったから凶であったのに対し、九四は剛を以て柔におる。つまり強い力をもちながら柔順な態度を持している。だから噛まれぬように戒懼かいくしているうちに、その志を行なうことができ、ついには吉を得るであろう。

九五。夬履。貞厲。 象曰。夬履貞厲。位正當也。

九五は、さだめて履む。貞なれどもあやうし。
象に曰く、夬めて履む、貞なれども厲しとは、位正に当ればなり。

履の主爻なので、人の履むべきところを顕かに定める。
夬は決断の決と同じ、強引におしきる。九五は剛、「中正」(五は上卦の中、陽陽位)、帝位(五)を履むにふさわしい人であり、下のものも悦んでこれに応ずる。下卦は、説ぶの意味がある。したがってこの人は、すべての自分の行為について、疑いためらうことを知らない。足の履みかたにたとえれば、断乎として履み切る(=夬履)という象がある。たとえその行動が正しくても、事によると断に偏り過ぎて寛仁を疎かにすることがある。やはりこういう態度には危険がともなう。そこでこの爻の占断として、貞しけれど厲しと告げる。
聖人の戒めかたはかくも深い。象伝の意味は、夬履の危険さは、この人がその才あって尊位に当たっているそのことにある。才を恃むことが過信になりかねないからである。

上九。視履考祥。其旋元吉。 象曰。元吉在上。大有慶也。

上九は、履むを視て祥をす。それめぐるときは元吉。
象に曰く、元吉かみにあり、大いに慶びあるなり。

『履むを視て祥を考す』とは、自分の履んできたところを省みて、正しく歩んできたのならなおそれを守り、もし誤った道を歩んできたのなら出直すようにせよ、ということである。
上九は、履の卦の終わりになっておるので、省みる意があるとともに、初、二、三、四、五爻の行いを冷静に観察し、その結果を良く考え、間違いがあればその轍を踏まぬようにする。そうすれば、大いに吉を得られる。祥は禍福のまえじらせ。考は、成す。旋は周旋、たちいふるまいを意味するが、ここではそつなくたちまわること。
さて上九は履むの卦の最後にあたる。そもそも上爻は陰位だが、そこに陽で居れば謀叛でも起こしやすいし、陰で正を得ていたにしても陰険邪侫に陥りやすいといった難しい位である。神は、その人の履み行なうところの終りを見くらべて(=視履)、それに応じて禍福のしるしを現実化するであろう(=考祥)。もしそれ、そつなくたちまわれば、大いに吉。占ってこのが出たら、よしあしはきまらない。占う人の行為に従って禍福が成るのであるから。象伝、上は終と同じ。慶は禍福のうちの福。終りまでふるまいよくて元吉の占断をえられるようなら、大いに福がある。

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