08.水地比(すいちひ)【易経六十四卦】

易経
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水地比(人と親しむ法/平和の中の生存競争)

forestall:先制/unity:統一
比較検討すべし、人と和合すべし。
一人で事を行うよりも、信頼すべき人と一致協力して当たれば、大いなる発展をみるべし。

衆必有所比。故受之以比。比者比也。
衆は必ず比する所有り。故にこれを受くるに比を以てす。比とはしたしむなり。
比は人と人とが相親しみたすけることをいう。
一人の指導者が大衆を親しみ、大衆が指導者を仰ぎ見ているイメージ。


競争相手がたくさん出てきて、ややもすれば蹴落とされそうになり、判断が誤る時、この時は即、先制攻撃をかけなければならない。
運勢は中等だが、決して弱いことはない。しかし、ぐずぐずして引っ込み思案をしているとチャンスを逃してしまう恐れがある。いわば動きによって運勢がどのようにでも展開していくとき、この卦は又、親しみや喜びの意もあるので、表面的には平穏無事で何事にも組し易く一人舞台だと考えがちだが、甘いことを考えているとどっこい飛んだ憂き目を見ることになる。
常に対抗手段を練り、思い切って打って出ることだ。
そんな気概と勇気は不思議と運勢の流れをかえ、人生を有利に導くこととなる。
[嶋謙州]


比の卦は師と逆でありまして、くらべるという字であります。比べるから、好きなものは、互いに親しんで助け合い、嫌な者を排除する。だから感情が主になってどうしても偏向しやすい。
そこでこの卦は人物の機微を捕らえた面白い卦であるということができます。
後夫は凶なり―しっくりとしなかった者が形勢を見て、後からのこのことやってくるであろうから、こういう者は注意しなければならない、という戒めであります。
朋党比周ほうとうひしゅうという言葉がありますが、これは好きなもの同士、あるいは利害を同じくする者が組んで他を排斥することを申します。
[安岡正篤]

比吉。原筮。元永貞。无咎。不寧方來。後夫凶。

比は吉。原筮げんぜいするに(筮をたずね)元永貞げんえいていにして、咎なし。やすからざるものまさに来る。後夫は凶。

原筮は再筮。元は善。寧は安。後夫は後れて来た男。比は比周の比。比の字は、人が二人並んだ形。対峙するのではなく、近しみ交わる。従って、並ぶと言っても競争するのではく、親しみ輔ける意味である。比には「並ぶ」「交わる」「親しむ」「助ける」「和む」「楽しむ」といったような楽しい意味がある。
この卦、九五が陽剛でもって上卦の「中」におり、「正」を得ている(陽爻陽位)。上下の五陰及がこれに比しみ従っている。いわば天下の人が一人の君を仰ぎなついている象である。もっとも、君と民の比しみに限らない。どんな小さな集団にも該当するが。
占者がこの卦を得れば、人に比しみたすけられるであろう。親和することは良いことだ。だから比は吉。
「筮に原ね」というのは、人と交わる時、悪い人と交わってもいけないし、分不相応な相手を求めてもいけない……交わるべき人を見定めて交わるために、筮を執って問うように誠の気持ちで考えよということ。
自分に、善き永久的な貞しい徳があることを確かめてのち、はじめて人々に比しまれ、咎なきことを得るであろう。
「元永貞にして咎なし」とは、先輩には先輩のように、同輩なら同輩のようによく礼を履んで交際する……これを幾久しく、どんな時でも忘れなければ咎はないということ。
五爻のように地位の高い人が衆と親しもうとすれば、心の落ち着きを得ない人、何事も不安定な人がこぞってやってくる。それが「寧からざるものまさに来る」。
「後夫は凶」まだ比しまないで不安だった人も、今や、むこうからやって来ようとする。かように近くの者も遠くの者も、喜び懐いて来たあと、ただひとり猜疑深く、ぐずぐずして、遅れて来る人は、先着の人のようには、どうしてもなじめない。凶である。故に、親しむべき相手(友でも君でも)と見きわめたら、速やかに馳せ参ずるがよい。

彖曰。比吉也。比輔也。下順從也。原筮元永貞无咎。以剛中也。不寧方來。上下應也。後夫凶。其道窮也。

彖に曰く、比はなり。しも順従するなり。比は吉、原筮して元永貞にして咎なしとは、剛中なるを以てなり。寧からざるものまさに来るは、上下応ずるなり。後夫は凶、その道窮するなり。

彖伝によると、比-親しむことが、吉に繋がる。比は輔けるという意味。
ます。下の者が順い従っている。「親交を深める相手を探し、占うべきである。自分が指導者である場合、常に正しくて徳の高い人を選ぶことができれば、失敗することはない」というのは、九五が剛で「中」を得ているからである。
「地位に甘んじることのできない人が、自分に合った親交を求めてやってくる」というのは、上位と下位が互いに応じ合うことを示しています。「遅れると、どんな立派な人でも失敗してしまう。」というのは、遅れれば、道が窮するからである。

象曰。地上有水比。先王以建萬國。親諸侯。

象に曰く、地上に水あるは比なり。先王せんのう以て万国を建て、諸侯を親しむ。

古代の王は国を正しく治めるために諸侯と親密な関係を築きました。「親」の字は、辛(鋭い刃物)で木を切るのを近くで見て、自分も痛いと感じること。そこから「親しむ」とは、親子のように互いに大切に思い、相手の痛みを自らの痛みとして受け止め、助け合う関係をいうのです。
自分の都合のいい相手やただ楽しいだけの関係は、本来の「親しむ」ではありません。水地比は、交際の根本的なルールを説いているのです。

この卦は地の上に水がある象。地上に水を撒けば、水は地と比しみ密著して、その間に隙がない。だから比と名づけた。昔の聖王はこの卦にのっとって、万国を建て、諸侯を親しんだ。天下を隙間なく比しむためである。
さきの象伝は、人がやって来て自分に比しむ方向を問題にしていたが、この大象は自分から行って人を比しむ方向である。

初六。有孚比之。无咎。有孚盈缶。終來有他吉。 象曰。比之初六。有他吉也。

初六は、孚ありてこれに比す、咎なし。孚ありてほとぎに盈つれば、終に来りて他の吉あり。象に曰く、比の初六は、他の吉あるなり。

孚は信、まごころ。缶は瓦器、酒がめ。初六は比卦の最初の爻、人と比しむの始まり。人と人と比しむにはまごころが大切である。最初にまごころがあれば、とがなきを得るであろう。 まごころが甕に満ちるほど、腹中に充実していれば、ついには人々がついて来て、意外のめでたいことがあろう。

この比の卦における「比」とは、隣り合う陰陽が比するような意味ではなく、成卦主爻である五爻に、他の衆陰が親しみを求め、すがって救われ、またその仕事を助けるということを主にしておるので、全爻の爻辞はこの意味合いによってかけられている。
初爻は、五爻と応爻でも比爻でもない。だから初爻は、比の時なのに、五爻へ参じ仕えることもできず、五爻から引き立てられることもない。

このような場合、初爻はどうしたらよいかと言えば、本卦に「筮に原ね、元永貞にして咎なし」とあるように真心を込めて筮を執る時のように、認めてくれるか否かは別として、誠を尽くせば良いのである。初爻は、交わりの初めだから、率先して求めるのが良い。
孚をもって交際を求めたなら、誠意というものは遠く離れていても必ず通じる。

初爻は人で言えば非常に若くその位も卑しい。そして五爻と応でも比でもないのだから、本来は咎があるべきだが、孚をもって交わりを求めるならば咎なきを得る。
ではその孚とは、どんな孚かといえば、上っ面なものではなく、缶に盈つるような精一杯の孚でなくてはならない。

「缶」という酒を納れる素朴な土器をここに当てはめて表現されているのは、飾りや模様のない素焼きの壺=孚の充実、また、地(坤)を土とし、土で作った器が坎水をたたえているということからきている。
「他の吉あり」とは、予想外の幸福のことで、この五爻と応でも比でもない初爻が福を得ることをいう。

六二。比之自内。貞吉。 象曰。比之自内。不自失也。

六二は、これに比すること内よりす。貞吉。
象に曰く、これに比すること内よりす、自から失わざるなり。

六二は柔順(陰)で「中正」(二は内卦の中、陰陰位は正)外(外卦)には九五の「心」がある(二と五とが陰と陽でひきあう)。五もまた「中正」。つまり二と五は中正の道をもって相親しむ者である。内よりというのは、二が内卦におる意味のほかに、自分からという語感をともなう。
採用するのは君の側であるが、然るべき相手を見て仕えるのは自分の側の決心であり、それが自分の主体性を喪失しないこと(象伝)でもある。このような貞しい比しみが、吉をまねくことは当然である(程氏)

六三。比之匪人。 象曰。比之匪人。不亦傷乎。

六三は、これに比する、人にあらず。
象に曰く、これに比する、人にあらず、またいたましからずや。

親しもうとする相手がみな悪人。
六三は陰柔の性格、「不中」(二でない)、「不正」(陰で陽位)。しかも身近い四も二も陰柔、さらに自分と応ずべき地位にある上も陰柔。六三が比しもうとする相手はすべて、比しむべき人でない(陰と陰とは反撥する)。なんと痛ましいことではないか。占ってこの爻を得たら、悪人とばかり親しむ結果となる。大凶なるこというまでもない。

本卦の「後夫は凶」というのは、五爻のような正しい人と交わる際、高慢や偏屈でぐずぐずしている者は凶だとしたのは、上爻のことを指すのだが、この三爻は、その上爻と応位にあるので、上爻に気をとられ主爻である五爻に親しみ従うべき時に、速やかに親しむことができない。上爻というのは、国で言えば不服の臣であり、家で言えば不貞の女のようなもので、それを指して「人に匪ず=人非人」などという酷い辞がかけられているのである。

六四。外比之。貞吉。 象曰。外比於賢。以從上也。

六四は、ほかこれに比す、貞吉。
象に曰く、ほか賢に比するとは、かみに従うを以てなり。

四は初と対応する筈であるが、四と初とともに陰で相い応じない(程氏)。そこで外の方角にむかって九五と比しむ。之の字は九五を指す。六四は柔で柔位におる。「正」である。それが陽剛中正なる九五(五は外卦の中、陽陽位で正)に比しむというのは貞しいことであり、当然吉を得るであろう。占ってこのが出たら、不正な相手(初六)との交際を絶ち、自分より上の賢人に親しむがよい。そうすれば貞しくて吉である。象伝の意味は、外に向かって五の賢者に親しむということは、上に従う道でもあるので、吉である。

「外」とは、五爻を指す。(四爻が内で、五爻が外)
この両者は最も関係の近しい、比爻関係となっている。五爻は剛健中正、賢明な主人であり他の爻に比べ四爻に対して特別な情をかける。
一陽が五陰に比親するのでだが、五陰の中でも二爻と四爻は特に親しみの情が濃い。
つまり「遠くの親戚より近くの他人」というように、正応である二爻よりも、なおこの四爻のほうが親しいのである。
「外より、これに比す」四爻が五爻に親しもうとするよりも更に切に、五爻の方から手を差しのべて迎えるといったような意味になる。
「貞吉」の意味するところで、特に戒めているのは、親しくすれば心なずんで礼を欠きやすいこと。
この四爻が陰位に陰でいて、その位が正しいように、たとえ五爻から寵愛を受けても正道を失ってはいけないということ。君に親しくするということは、つまり従うことであるということ。四爻はこのように比の道を堅く守っていけば吉を得られるということ。

九五。顯比。王用三驅失前禽。邑人不誡。吉。 象曰。顯比之吉。位正中也。舍逆取順。失前禽也。邑人不誡。上使中也。

九五は、比を顕らかにす。王って三駆さんくして前禽ぜんきんを失す。邑人誡ゆうじんいましめず。吉。
象に曰く、比を顕らかにするの吉なるは、くらい正中なればなり。逆を舎て順を取る、前禽を失するなり。邑人誡めず、かみの使うこと中なり。

天子の狩猟の際、囲みの前面だけを開いて、過度の殺戮を避ける礼法ができている。三方だけから駆り立てるので三駆という。前禽は前面の逃げてゆく獲物。これは捨ててとらない。むかってくるものだけをとる。象伝に逆を捨て順を取るというのは、自分を中心とした方向についていう。逆は逃げてゆくもの、順はこちらへむかって来るもの。邑は都邑。誠は警戒。
さて九五は唯一の陽爻、剛健でしかも「中正」、ほかの陰が皆な自分に比しんで来る。比しみの道を最も明らかにするものである。その、人に対する態度は無私、『来る者は拒まず、去る者は追わず』あたかも王者の狩りが、三方だけを囲んで、前へ逃げる獲物は追わないのに似ている。ふつう人民は、お上の命令といえば、警戒してかかるものであるが、この九五の君は民の使いかたが中庸を得ているので(象伝)、最も警戒心強かるべき自領のむらびとたちでさえ、全然警戒することがない(『朱子語類』七〇)
これらの表象はすべて吉の方向を示す。この卦を得た人、爻辞が示すように宏い度量で人に親しみ、下の者に警戒心を抱かせないようであれば、吉である。

段王朝の初代の王である湯王とうおうが狩りの獲物を追い込んだ際、「残りの三方は囲んでおいて、一か所だけ自由に逃げられようにせよ。それでもかかる獲物はいただく」といったことに由来する。どんなに実力があっても、弱者に対し逃げ道がなくなるまで追い詰めず、相手の自由意志を尊重することを説いている。

上六。比之无首。凶。 象曰。比之无首。无所終也。

上六は、これに比する、しゅたることなし。凶。
象に曰く、これに比する首たることなし、終るところなきなり。

首はかしらくびではない。主、人のかしらになること。上六は陰爻、柔弱な性格で一番上におる。高い位置にあるが、この人には首領としての徳がそなわっていない。つよいところがないから、とても下々のものを比しむことはできない。そこで、これを比しもうとしてあたまがないという奇怪なイメージとなる(乾用九の羣竜ぐんりゅうかしらなきを見ると似る)。
あたまがないは人の上に立てないことを同時に意味する。首は、また時間についていえば、始めにあたる。象伝の言うところは、上六は人を比するにはじめめがない、だから終りもない。「始めあらざるなし、く終りあるはすくなし」(『詩經』大雅・蕩)、まして、始めが善くなければ善き終りはありえない。この爻が出れば、人に親しもうにも、自分に徳がないので、誰もついてこない。凶である。

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