06.天水訟(てんすいしょう)【易経六十四卦】

易経
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天水訟(論争・訴訟/裁き裁かれる)

lowsuit:訴訟/conflict:衝突,対立
戦わざるが上策なり。謙譲を旨とすべし。
エゴ、自我の念を抑えて、時期を俟つべし。

飲食必有訟。故受之以訟。
飲食には必ず訟えうったあり。故にこれを受くるに訟を以てす。
訟とは、公の場で互いに争うこと。人と人の争い(訴訟)は、和することが出来ない対立の状態、それぞれ求める方向性が違う為に起こる。


何となく心が落ち着かず、裏腹でわずらわしいことが起きがち。人間同士のトラブルや訴えが生じる時で、いろいろなことが裏目に出やすい。運勢は下り坂でパッとしない。
ともあれ、落ち着いて事態の収拾をよく考え、軽はずみなことや無鉄砲なことを極力避けて現状維持に努めることが大切。
運気が下降の時だから何事も積極的に出られないのが建前だが、どうしても物事に立ち向かわねばならぬのなら、あとの喧嘩は先にしておくとか、きれいごとで表面を取り繕ったりせず全部さらけ出してお互いに腹を割って話したりするほうがよい。
できれば何事も平和で円満に行きたいのが人情の常と云うものだが、それが思うように思うようにいかないのも世間の常と云うもの。くれぐれも隠忍自重心を忘れないように。
[嶋謙州]


訟は「うったえる」「せめる」という字であります。成長すると子供はいろいろと要求を始めます。その時にはあくまでもその「うったえ」を聞いて、正しく教えてやるのがよろしい。うるさいからといっていい加減にしたり、急いではなりません。
大象に作事謀始―事をなすには、始めを謀ることが大切である、とありまして事業を始めるのも教育と同じで、事業は始め、教育は幼少の時代を大切にしなければなりません。
仕事を始めるといろんな問題が起こってきます。これをきびきび解決しなければなりません。
これは一時的でなく将来にわたってやらなければなりませんから、特に始めが大切であると教えておるのであります。
[安岡正篤]

訟。有孚窒。愓中吉。終凶。利見大人。不利渉大川。

訟は、孚ありて塞がる。おそれて中すれば吉。終えんとすれば凶。大人を見るに利あり。大川を渉るに利あらず。

「訟」とは訴えること。「愓」は天命を敬うこと。この卦は訴訟を象徴しており、激しい対立や紛争が生じる時。このような状況では、互いに頑なに立場を守り続けるだけで平行線をたどることになります。そのため、和解策に転じるため自らが譲歩することが賢明です。逆に、強引に主張し、無理に解決しようとすることは逆効果となります。冷静に考え、第三者に相談するなどして、強引な手法を改めることが大切です。

争訴に処する道は、まこと(親鳥が卵大事に抱えてを雛鳥を孵すような虚心で打算のないこころ)なる心に真実な徳があって、それが塞がれていたとしても、忍耐強く、自分を戒め、恐れ、中庸の道を得てもし万一にも人と争うことがあっても、まもなく中止してしまうのであり、吉を得るのです。
相手の非を一方的に責めず自分の非をも認める誠実な態度で望むことが大切です。もしそうでなく、強引に争訟をしとげようとするような態度で最後まで人と争うようなときは凶です。
争論や訴訟があるときは、中正な徳を具えている偉大なる人物にお目にかかって裁判をしてもらうのが賢明です。他人と争うている場合には、とても大いなる険難を越えて大なる事業を成就することはできないからです。

水という卦には、艱難という意味があり、天という卦には、剛健という意味がある。また、対人関係を見るとき、内卦を自分とし、外卦を相手とみる。
こういう形から判断しても、こっちは困ってさかんに苦情を申し立てるのに、相手が頑固そのもの、こっちのいうことはぜんぜん聞いてくれない状態だと推定できる。これが「孚有りて窒がる」なので、時と勢いのおもむくところ、訴訟となるのもやむを得ない。
しかし、こういう方法が、現在の社会においても望ましくないものだということは、誰にでもわかるだろう。民事訴訟にしたところで、たいていの事件は何年もかかるし、費用倒れになることも多いのだ。良心的な弁護士なら、途中で示談をすすめるだろう。これが「惕れて中すれば吉。終れば凶。大人を見に利し。大川を渉るに利しからず。」の意味なのである。
これを一般の運勢と考えても、たがいに争いあって風当りの強い状態だから、大事を成し遂げることは思いもよらない。「大川を渉るに利しからず。」とは、そのいましめなのである。
[高木彬光/易の効用]

「訟」は「うったえ」の意味であり、公に意見を述べたり、公共の場で発言したりすることを意味する。ただし、単に自分の要求を明らかにして待っているだけではなく、「訟」の意味から、自分の主張を主張したり、法的な争いをするなど、積極的に行動することも含まれる。
この卦では、内卦の坎は水を表し、下へ下へと流れていく。一方、外卦の乾は天を表し、上へ上へと昇っていく。つまり、両者は互いに接触せず、離れ離れになっていくので、背き争う不和な卦である。
訟とは、自分の正しさや相手の間違いを主張して、それを裁判所などに判断してもらうことである。大抵の場合「自分のほうが正しい」というところから始まる。しかし、たとえ正しいことであっても、積極的に訴えることが必ずしも良いわけではない。いくら孚があっても、訴えを貫き我を張れば、結果的に自分を辱めることになる。
大抵、難卦であっても、「亨る」「渉るに利ろし」という言葉がつけられているが、この卦では「窒がる」「渉るに利ろしからず」という戒めがある。つまり、「訟」は勝ち負けではなく、あえて為さざることを可とする。
また、不和の状態では、大きなことを達成することはできないということも厳しく教えられている。
「惕れて中すれば吉」の惕れとは、人間や動物などに対する恐れではなく、天命を畏こむこと。天命を惕れ畏こみ、途中で思いとどまれば吉を得るが、もし勝つことに固執して貫けば凶を見る。
「中すれば」の中は、二・五爻を指し、「終われば」は上爻のこと。
「大人を見るに利ろし」は英明中正な五爻に裁決を求めればよいということ。
最後に「大川を渉にるに利ろしからず」という言葉があるが、これは、幸いにして有利な裁決を与えてくれたなら、それ以上相手を攻撃することを避け、速やかに元の生活に戻るよう努めるべきであることを示している。

彖曰。訟。上剛下險。險而健訟。訟有孚窒。愓中吉。剛來而得中也。終凶。訟不可成也。利見大人。尚中正也。不利渉大川。入于淵也。

彖に曰く、訟は、上剛にして下険なり。険にして健なるは訟なり。訟は孚ありて塞がる、愓れて中すれば吉とは、剛来たりて中を得るなり。終えんとすれば凶とは、訟は成すべからざるなり。大人を見るに利ありとは、中正をたっとぶなり。大川を渉るに利あらずとは、ふちに入るなり。

彖伝によると、「訟」の卦は、上半分が剛のであり、下半分が険のである。内側が険しく、外側が強く、これが訴訟の状況を表す。『訟は孚有れど窒がる。惕れて中すれば吉』とは、強い要素である陽爻(九二)が外からやって来て、下半分の真ん中に位置していることによるものである。『終うれば凶』とは、訴訟は最後まで闘うべきではないということを意味する。『大人を見るに利ろし』とは、九五の中心的な位置を高く評価するという意味である。また、『大川を渉るには利ろしからず』とは、危険を冒して進むと深みにはまることを表している。

象曰。天與水違行訟。君子以作事謀始。

象に曰く、天と水と違い行くは訟なり。君子以て事を作すに始めを謀る。

天は高く上にあり、水は下方へと流れ、進む方向が異なります。人間関係でも、意見が食い違えば、必ず争いが生じます。「天」は剛強、「水」は険阻・困難を象徴しますが、強い性格と険しい性格が出会えば、争いが生じやすくなります。
剛強な相手には攻撃的に接するのではなく、柔軟な対応策を考える必要があります。人間関係で訴訟に発展することが多いのは未熟さからくるものだと、易経は教えています。できるだけ、これを回避するよう努めるべきです。
何かを行う場合、争いが後に起こらないよう、最初によく考えて計画することがすぐれた人の特徴です。物事には始めに兆しがあります。後でトラブルになり、争い事に発展する場合でも、その物事が始まった時点で、トラブルの素因が既に含まれていることが多いのです。
天水訟の卦によれば、訴える側が勝利しても、結局は損害を被ることがあることを教えています。

初六。不永所事。小有言。終吉。 象曰。不永所事。訟不可長也。雖小有言。其辯明也。

初六は、事とするところを永くせず。小しく言うことあれども、終に吉なり。
象に曰く、事とすることろを永くせずとは、訟は長くすべからざるなり。小しく言うことありといえども、その弁明らかなり。

陰爻は本来おるべきでない場所にあるため、多少の不平不満やごたつきは避けられません。しかし、陰爻は微賎な身分であり柔順な性質のため、不平不満をどこまでも推し進めていこうとしないので、すぐに解消することができるのです。そのため、一部の争論はありますが、大きな被害を受けずに最終的には吉を得ることができます。
初は陰爻、柔であり最下位にあります。そのため、争訟を解決するだけの力は持ちません。しかし、「事とするところを永くせず」つまり、争いを長引かせてはいけない、という考え方を実践することが重要です。多少の物言いはあっても、弁解は明白です。

これは多少のいざこざがあっても、争わないで、あきらめてしまえ、ということである。くだいていうなら「負けるが勝ち」といってもよい。[高木彬光/易の効用]

天水訟の卦は、訴えたり人と争ったりすることは我を張って最後まで貫き通してはならないという教えが主軸になっている。
初爻は「事柄の始め」に当たる。
この初爻は弱いので、「訟」というほど訟えが大きくないので「訟」と言わずに「事」という。「事」は「言」でもある。
しかし、小さい言い争いであっても、どこまでも意地を張りとおし、最後まで押し通して争うような事をしてはならない。
『事する所を永くせず』この爻は陰爻で力が弱く、不服があっても官に聞いてもらおうとはせず、途中でやめる。
『小しく言ある』そして事を揚げるからには、もちろん言い分を立てる。少しの咎めがある、小さな言い争いという二つの意味を持つ。
しかし、それを貫こうとはせず不満はあっても途中であきらめがつくので、結果的に吉を得られる。

九二。不克訟。歸而逋。其邑人三百戸。无眚。 象曰。不克訟。歸逋竄也。自下訟上。患至掇也。

九二は、うったえたず(うったえくせず)、帰りてのがる。その邑人ゆうじん三百戸にして、わざわいいなし。
象に曰く、訟に克たず、帰りて逋れかくるるなり。下より上をうったう、患いの至るはれるなり。

邑人三百戸、邑は村、三百戸は小さい村を意味する。九二は陽、つよい性格で、険の中心である。もともと訟をこのむ者。二と五とは相応ずべき地位であるが、五もまた陽剛で相和することができない。当然争訟が起こる。
しかし九五は陽が陽位におり、至って剛い。地位は最も尊い。九二は剛だが柔(偶数)の位にいて、二の地位は低い。とても五にかなわない。だから訴訟に勝てないで、ひきさがってかくれる。にげかくれる先は、村民三百戸ばかりの目立たぬ自領。
かようにつつましやかな態度を持しておれば、災いはふりかからない。もっと大きな領地にあぐらをかいておったのでは敵に追い討たれるのだが。

象伝のれるなりは、自ら取る意味。下の者(二)から上の者(五)を訟えた場合、わざわいがふりかかるのは当然で、自分が招いたにひとしい。
占断として、訴訟には勝てないが、倹約にしていれば禍いはない。

 

これはちょと封建的な表現だが、昔の百姓一揆のようなものである。現代にたとえるならば、会社のストライキというところだろうか。
この卦が出たら、組合側にまず勝ち目はないものとみてよい。はやく、先導的な主謀者を追い出して、組合員全体の利益をはかれという教えなのだ。これにそむくと、争議が長引いて、会社がつぶれ、社員全体が職を失うというような結果になりかねない。
[高木彬光/易の効用]

うったえたず』『訟をくせず』
「かたず」は、訟えて破れたということ、「よくせず」は、その寸前で機を察して退くという意味。いずれにせよ、訟えに理のないことを悟り、もとに戻ること表す。
天水訟の卦は、訴えたり人と争ったりすることは我を張って最後まで貫き通してはならないという教えが主軸になっているにもかかわらず、なんと無謀にもこの二爻は、五爻を相手に争いを起こす。

のがる』は、物を背負い込んで逃げること。訟える相手は、敵応している五爻。
五爻は乾の円満な卦の主爻で、強く優れた剛健中正で君位にあり、一点の非もないような人物。それに対しこの二爻は、坎の険しさを持った爻で、不正だから利がない。
しかし中を得ており、早くに見切りをつけ最後まで争うことはない。戦いに勝てないことを途中で悟り、自分の村に引き返す。勝てる気がしない、負けた!という事実を我が身に背負い逋げる。

『其の邑人三百戸、わざわいなし』
眚いは、天災、災害などの災いと違い、懲罰とか制裁など、人がつくった『わざわい』のこと。訟える側の二爻が逋げ隠れるので、自分も邑の人々にも眚いがふりかからずに済むということ。

六三。食舊徳。貞厲終吉。或從王事无成。 象曰。食舊徳。從上吉也。

六三は、旧徳にむ。貞なればあやうけれども終に吉なり。或いは王事に従えば成すことし。
象に曰く、旧徳に食む、上に従えば吉なり。

食は食邑しょくゆう(諸侯や家臣などに賜った土地。 領地。)の食にあたる。古代では仕える者みな、与えられたむらの税収で食った。それも世襲である。旧徳は先祖の遺徳(旧禄)。旧徳に食むとは、先祖の遺徳でもらった領土に依食すること。王事は王命による日常の仕事のこと。

六三は陰、柔かい性質で、自分から人を訟えたりできる者ではない。だから先祖の恩による領地だけで食ってゆくことに満足し、これを大切に守って、身を正しく持すれば、危ういといっても、ついには吉である。時ととしては王事に従って、天子のために事を行うことがあるけれども、すべて柔順にしてひたすら天子の命令に順って事を行い、自分の考えをもって事を行うことはないのである。

今まで継続して行ってきたことが、地道で平凡でも、結局一番良い。気まぐれや移り気は避け、着実に努力を続けることが大切。

この爻を占った人は、平常の道を守って、そこから出ないようにするがよい。象伝の、上に従えば吉とは、目上の人についてゆけば吉、自分から何かしようとすれば成功しないという意味。

ストライキはやりたくなかったが、自分一人で第二組合を作るわけにいかないから、やむを得ず参加したけれども、それがいちおう解決して、もとの戦場に復帰し、やれやれと一息ついている感じなのだ。「貞しけれども厲うし」というのは、ストライキはやるべきでないという自分の信念を貫こうとするのは立派な態度だし、また最後にはそういう結果になるかれども、現在の一時的な情勢として、その信念を貫き通すことは危険だということである。私なりの表現では、情熱を一時ストップさせて、勢いに従うことである。
[高木彬光/易の効用]

天水訟の卦は、訴えたり人と争ったりすることは我を張って最後まで貫き通してはならないという教えが主軸になっている背景の中で、この三爻は、多少の不満を抱いてはいるが基本的に自ら積極的に訴えを起こすことはせず、今までの道を正しく守っている者。
たとえ周囲から煽られ訴えを起こすような状況になっても、周囲から押し切られることなく分限を守りさっさと方向転換、自分のなすべき生活・仕事へと速やかに戻る。

この三爻と次の四爻は争訟を止め、相手に従うという爻辞。
二爻に煽られ協力して上を責め立てようとする爻だが、元来この爻の位は、五爻に仕えていた諸大夫であり、旧い主従関係があるためその元へ帰り輔けを受ける。
それが『舊徳に食む』

貞なる道は、五爻に仕え王事に従っても、『成すこと无し』自分の手柄とする僭越なことはしない。柔順謙虚な態度で、自分を出さないようにする……そのようにして多少の不満を抱いていたとしても、素直な正しい行いを続けていれば、いずれは吉を得られる。

九四。不克訟。復即命。渝安貞。吉。 象曰。復即命。渝安貞。不失也。

九四は、訟に克たず。かえって命にき、かわりて貞に安んずれば、吉なり。
象に曰く、復って命に即き、渝りて貞に安んずとは、失せざるなり。

この爻辞、難解である。即は就くと同じ。命は天命の意味もあるが、ここでは単に、正しい理というほどのこと。渝は変と同じ。
九四はその性質、剛(陽)であるが陰の位におり、位は正しくない。上の卦の下の爻であり、中庸を得ていない。上の九五と、陽爻と陽爻とで相反発し、九五は尊位にあるので、争うとするが、その地位が弱い(四は偶数、陰位)だけに、これも訴訟に勝てない。
しかしまた、柔位におることは柔軟性のあることでもある。九四は陽爻なれども陰柔の位におるので、弱いところがあり、志を改めて、正しき道に従うようになる。
この爻に当たった人、そのようであれば過失はないので、吉である。

このばあいも、訴えを起こそうという気持ちはある。初爻の時には、そう思ってもそれだけの力がないのだが、四爻になると、力が備わっているから、やろうと思えば何とかやれないこともないのである。しかし、易経はこの場合、断乎として、その企ての中止を命ずる。その理由は、運命の勢いというものが味方しないからなのだ。
[高木彬光/易の効用]

天水訟の卦は、訴えたり人と争ったりすることは我を張って最後まで貫き通してはならないという教えが主軸になっている背景の中で、この四爻は、一度は自ら争いを起こすのだが、やはり勝てる気がしないことを悟り、志を改める。
四爻は、三爻と同じ見方をしてもよい。ただし、四爻は三爻より更に五爻に側近しているので、訟えを克くせず、五爻の君の命につく。
『貞に安んずる』は、貞しい理の元にあって安心立命すること。そして、そのことに不平や不満を持たない。
四爻は、上の命令によく従い、その従うことに喜びを感じるようにしていけば吉なのである。

九五。訟元吉。 象曰。訟元吉。以中正也

九五は、訟え元吉げんきつなり。
象に曰く、訟え元吉とは、中正を以てなり。

この五爻だけは訴え争う当事者ではなく、そうした訴えを聴く側、裁判官のような立場。しかも、強く優れた存在の五爻が裁判官の役割を担いが裁きにあたる。
この五爻は剛健中正、乾の主爻でもあり、訟の時の紛糾を救うもの。適材適所だから元吉となる。
天水訟の卦のうち、吉の辞がかけられているのは初爻・三爻・四爻だが、それぞれ「~すれば吉」と相当厳しい条件に従って初めて吉となり、結果が未確定な状態で、一歩間違えれば凶へ転落する危険もある。
この五爻だけが卦の主爻で、訟の裁きをする立場であるから、従って訟えを起こす初爻・三爻とは違い陽の剛健と中正をもって吉を得るのである。

九五は「訟の卦」の主爻であり、訟を聴く人であり訴訟を裁判する人です。
この爻は陽爻であり、剛強で陽爻をもって陽の位におり、位正しい爻です。
上の卦の中央にあり、中の徳を得ており、最も尊い位にあります。
このような位にあり、このような徳を持つ人は、人と争い人を訴えることはありません。むしろ、人々の訴訟を公正に裁判する理想的な大人であると言えます。

民事訴訟が成功するのは、ただこの卦、この爻を得た時だけだといってもよいくらいである。名裁判官、名弁護士に、期せずしてめぐりあうような珍しいケースなのだ。
ほかの場合でも、自分の今まで達せられなかった希望が誰か有力者の援助によって達せられ、愁眉しゅうびを開きうるときだと思ってよい。
[高木彬光/易の効用]

上九。或錫之鞶帶。終朝三褫之。 象曰。以訟受服。亦不足敬也。

上九は、或いはこれに鞶帯はんたいたがう。終朝に三たびこれをうばわん。
象に曰く、訟を以て服を受く、また敬するに足らざるなり。

鞶帯は身分によって賜わる服の飾り。後漢の馬融は大きい帯だという。或の字は有とおきかえて見ればよい。これに鞶帯を賜うことありの意味。六三の或従王事も、王事に従うことありの意。
終朝はちょう(あさのまつりごと)の終わるまでの時間、すなわ夜明けから食事時まで(後漢の馬融)。は奪う。
さて上九は剛なる性質で、争訟の極点におる。強引に訴訟を押し切って勝つことができる。そこで身分をもらい、大帯を賜わることがある。しかし訴訟でもって服をもらうなどいうことは、ほめられたことでない。いつまでも安心して持っていられるものでない。だから朝まつりごとの終わるまでの間に三べんもとりあげられるであろう。
占断としては、訴訟を最後までしとげようとすれば、勝てることもあるが、それによって得たもの、ついには失うであろうということ。聖人の深い戒めである。

鞶帯とは、古代中国の正服につける飾りの革帯である。これを賜わったということは、訴えに勝ち、ある地位を得たと解釈していいだろう。しかし、この爻を得た時は、正道をふみ、正義を貫いての勝利ではない。間もなく、中途のトリックがばれ、不正が明らかになって、その栄誉も奪われるということになのである。
[高木彬光/易の効用]

この上爻は、訟の終わりの爻。
天水訟の卦は、訴えたり人と争ったりすることは我を張って最後まで貫き通してはならないという教えが主軸になっているにもかかわらず、この上爻は、愚かにも最後まで争いに明け暮れてしまう。
『終朝』は午前中。『鞶帯』は服の上に締める革の大きい帯のことで、転じて礼服の意味となる。
訟は最後までやり遂げてはいけない、中を守って早く和解すべき。なのに、この上爻は訟に勝ち、その正しさが認められ、上から礼服まで賜る……しかしそれは少しも尊敬に値するものではない。
何故かと言えば、訟を最後までやり遂げ、他を圧迫し、人を傷つけた上に礼服まで賜るようなことは君子の取るべき道ではないからだ。
争いに勝ったとしても、最後まで争い続けたという咎めを免れることはない。

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